薩摩藩の輸入品としては絹製品・丁子・生糸・鮫皮、輸出品は銀・乾昆布・いりこ・干鮑などでした。例えば昆布は、北海道から北前船で本州に運ばれ、富山の売薬商人を介して薩摩にもたらされ、そこから遠く琉球、ひいては中国まで流通しました。
家老の調所笑左衛門が、藩の御用商人として密貿易に活用したのが、指宿の浜崎太平次です。南原幹雄著「豪商伝 薩摩・指宿の太平次」(角川文庫)には、海運商「山木」の八代目・浜崎太平次の波乱に満ちた生涯が描かれています。
浜崎太平次は、アメリカの西南戦争で世界的な綿花不足になった際に、綿花貿易で薩摩藩に巨利をもたらしました。その他にもテングサを原料に寒天を作り、ロシアや清国に輸出したり、奄美大島で醤油を製造してフランスに輸出したりするなど、多方面の貿易、海運で活躍した豪商です。


寒天工場跡と説明板
貿易の拠点となったのが唐入町です。森勝彦氏の“南九州における唐人町に関する覚書”によると、唐人町は西日本に広く存在し、 図1のように南九州に最も多かったそうです。
上記論文には、唐人町は「東南アジアのチャイナタウンと異なり日本人との雑居であり二世以降は目本名を名乗り完全に帰化したことや商人だけでなく特殊技能者も多かったこと、大名と密接なつながりがあった初期豪商が支配する流通網には入れなかったこと、排他的な特殊な社会とはみなされていなかったが鎖国以降は長崎の唐人屋敷のみが存在を許されたこと等の指摘がなされている」と書かれています。
ということは、薩摩藩は、民間の密貿易(抜け荷)を黙認していたことになります。さらに、民間の密貿易の黙認を裏書きすることを、以下に示します。
山脇悌二郎著「抜け荷 鎖国時代の密貿易」(日経新書)によると、「幕府は、抜け荷犯の裁判権を、その手に握っていて、およそ、大名たちが犯人を捕らえると、長崎か大阪へ送らせて、奉行に裁かせることにしていた。」とのことです。
刑罰は、時代によって異なり、寛刑と厳刑をくり返していましたが、いずれも抜け荷の禁圧には無力でした。「大名領での犯人の検挙が、ほとんど放置された」こともその原因でした。
特に、「薩摩藩のごときは最も悪質であって、抜け荷の取締りを放任し、幕府が、犯人をさし出せと命じても、病死したとか、逃走したとかとなえて、一度として犯人をさし出したことがなかったのである。」

薩摩藩の密貿易関連の本
薩摩藩は、財政の立て直しのために、密貿易という国家に対する裏切り行為を続けました。地理的にも政治的にも言語的にも、他藩から隔離された状況をつくりやすかったことが、この行為に拍車をかけたのでしょう。
民間の密貿易を黙認できたのは、藩による民間への締め付けが徹底していたためではないでしょうか。
<管理人より> 急に多忙になりましたので、今後はこのブログの更新の間隔が長くなると思います。
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