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薩摩藩の暗黒史 ④徹底した廃仏毀釈

薩摩藩の廃仏毀釈は、過激で徹底し、寺と僧侶が完全に消滅しました。実際に破壊したのは下級武士でしたが、多くの民衆もそれを容認して協力したそうです。

島津家一族の菩提寺を含む1616の寺が全廃され、2966人の僧侶が還俗しました。そのため、住んでいる地域を歩き回ると、寺跡の標識や破壊された石仏をよく見かけます。

含粒寺跡

含粒寺跡(島津家7代元久の長男が開山)



江戸幕府は1613年にキリシタン禁制を打ち出して、その取り締まりのために檀家制度(寺請制度)を実施しました。ところが薩摩藩では檀家制度をとらず、武士集団が牛耳る五人組制度が、厳しい監視・取り締まりをしました。そのため、庶民は寺との日頃の付き合いが疎遠となり、廃仏毀釈への民衆の抵抗が少なかったといいます。

島津斉彬は国学のイデオロギーを背景に、軍費財源の調達もねらって、廃仏毀釈運動を先頭に立って進めました。その結果、美術品や史料などの貴重な文化財が破壊されたり、無くなりました。

玉泉寺跡

玉泉寺跡の石像



寺には「宗門人別帳」があり、その中に家族ごとの出身地・生年月日・続柄・宗旨・身分・収穫高が記載されていました。これを見ると、個人情報、人の活動記録、人と人とのつながりなどが分かるので、郷土史家には必須の資料です。ところが鹿児島県では、寺とともに「宗門人別帳」が全て消えたので、過去を解き明かす本線となる道が閉ざされています。

現在、鹿児島県では、庶民の墓は寺にありません。地区ごとの墓地にあります。鹿児島県の人は先祖供養に熱心であり、墓参りにはよく行きます。そのため、1世帯当たりの「切り花」の購入金額が全国一です。

芳 即正著「権力に抗った薩摩人」(南方新社)によると、藩の役人に知られずに、人々が堂々と念仏を唱えることができたのは、墓の前であったため、先祖供養の形で信仰が続けられたそうです。これが、鹿児島県民が墓を大事にする理由とされています。

「墓参り」の頻度は多くても、僧侶の説教を聴いたり、仏典を学ぶという「教え」に接する機会は少ないのです。これは寺と庶民を切り離すという、薩摩藩の方針の影響が、今日でも色濃く残っているためと考えられます。
結果的に、現在、寺離れが進んでいるという、日本人の宗教へのかかわり方を、鹿児島県では先取りしていたことになります。

以上より、薩摩藩には強権政治・恐怖政治が行きわたっていたことが分かります。
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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

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