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薩摩藩の暗黒史 ②苛斂誅求(黒糖の収奪体制)

薩摩藩は、財政面で古くから窮乏していました。藩政改革、列藩諸侯との縁組、南九州での長い騒乱、朝鮮出兵、参勤交代、木曽川治水普請、藩邸の火災、桜島噴火などにより、出費が多かったためです。


調所広郷像(尚古集成館蔵)

調所笑左衛門像(尚古集成館蔵)


8代藩主・島津重豪は薩摩藩の藩債500万両という天文学的借金を抱え、しかも金利1割2分で年間60万両の利子がかかっていたといわれています。家老や自らが改革しようとしましたが、上手く行きませんでした。そこで、下級武士出身の調所(ずしょ)笑左衛門(後に広郷)を見込んで、財政改革の大任を命じました

調所は、行政・農政改革の他、商人からの借金を無利子で250年分割払いにさせて踏み倒し、さらに琉球を通じて清と密貿易を行ないました。


さとうきび畑


サトウキビ畑



最大のドル箱は奄美の黒糖でしたので、藩は徐々に奄美三島(大島・喜界島・徳之島)での黒糖収奪の制度を強化しました。特に1777年の第一次黒糖専売制度により、奄美の島民は、黒糖生産の支障となる地元の風習を禁止され、休日も制限され、稲作も禁止されて黒糖生産のみ行うことを強いられることとなりました。

役人と豪農(役人の下の島役人)の公私混同の振る舞いも横行して、島民からの収奪が日常茶飯事となりました。藩は黒糖の見返りに、島民に米を配給しましたが、その交換比率は極端に低く抑えられたため、島民は飢えにうめきました。
その結果、島民が貧富の両極に分解して、多くの「潰れ村」と「家人(やんちゅう;借金で身売りした債務奴隷)」が発生しました。「家人」は島の人口の2~4割にも達しました。このような苛斂誅求により、農民が離散し、農村人口は著しく減少しました。

薩摩藩は、「奄美の黒糖」を上方市場に持ち込み、高級品として売り、富を蓄積して膨大な借金を返済し、さらに1840年には250万両を蓄財して、明治維新に備える軍資金までも手に入れました。その陰には、物言えぬ百姓の奴隷のような生活があったのです。

なお、藩財政の立て直しに成功した調所笑左衛門は、27代藩主になる前の島津斉彬に疎まれました。その背景には、島津藩のお家騒動があります。斉彬が老中・阿部正弘と謀って、阿部に密貿易について調所を追求させ、調所はその責任を取って自害し、遺族も罰せられました。
斉彬は、調所の残した黒糖の収奪体制を継承・強化し、その後に専売の地域に新たに2島を組み入れました。

薩摩藩では、最下層の民衆は人間扱いされなかったのです。
幕末に、「ブラック企業」ならぬ「ブラック藩」の大賞があれば、薩摩藩は過酷すぎる苛斂誅求を理由に、ノミネートされていたことでしょう。
「今の時代に生まれてよかった!」と思うのは、私だけではないはずです。
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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

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