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鹿児島県鹿屋市にも「進駐軍が上陸」

私が鹿屋に移住した時に、進駐軍の海兵隊が鹿屋に上陸したことを初めて知り、驚きました。鹿児島湾からも進駐軍が上陸したのです。


金浜海岸_570KB)

佐多街道68号線沿いの高須町の金浜海岸近くに、地元の故山下修二氏が中心となって建てられた記念碑「進駐軍上陸地の碑」と関連する和歌などを彫った石柱があります。これらを鹿屋市ではなく、地元の有志が私費で作ったということにも驚きました。


進駐軍上陸地の石碑
記念碑には、次のように書かれています。
「此所(ここ)は、昭和二十年(一九四五)九月四日、太平洋戦争終結(八月十五日)間もない時に、日本本土で最初に、進駐軍アメリカ海兵隊主力 二五◯◯人が、この「金浜海岸」に上陸、世界が注目した地です。
その時 我が古里に在りし者、出でし者、全ての「高須町民」が味わった 万感胸に迫る悲痛な思いは、他に比べることのできない 世紀の一大痛恨時でありました。
私どもは、このことを末長く後世に伝える為に、ここに決意を新たに「反戦平和」の願いを込めてこの碑を、建立するものであります。
平成十三年(二◯◯一)三月
金浜「進駐軍上陸地の碑」建立期成会 高須町内会」

昭和20年9月3日に連合国進駐部隊の先遣隊14名が輸送機2機により鹿屋飛行場に、翌日4日に主力部隊の多勢が空路と海路から鹿屋に来ました。


昭和の陣痛と奥付


当時の地元の状況を、高須国民学校の校長であった新弘(しんひろむ)氏が、「昭和の陣痛 ― 進駐軍 高須金浜上陸の記録 ―」という本に克明に書き残しています。新弘氏は、占領軍が鹿屋に進駐する直前に、進駐軍との間にいかなる問題が生じても、大局を誤らずに的確な判断を下せる校長として、35歳という若さで白羽の矢を立てられて、高須国民学校に着任しました。

平成26年に、その「昭和の陣痛 ― 進駐軍 高須金浜上陸の記録 ―」が高須史談会の上原義史氏により復刻されました。この本によりますと、進駐軍の2500名が上陸する前日の9月3日の夕方には、ほとんど全家庭が親類縁者や知人をたよったり、山に避難して、高須の町は無人の町になりました。翌日4日早朝から、海が見える山の木陰から、新弘校長が進駐軍の艦船の動きを観察した記録が残されました。


陸揚げされるブルトーザー_570KB)
湾内・高須沖にたくさんの艦船が来て(他の資料によると21隻)、金浜に乗り上げた揚陸船は3隻。最初に船底からブルトーザーが下ろされて、海岸から県道へ登る崖(高さ約10m)に2時間位で自動車道が開通しました。当時の日本人の常識では、何日も要する難工事であったそうです。米国の物量と科学力に裏付けられた戦力に圧倒されたと、この本には書いてあります。

私の母は、当時、大姶良にあった青年学校の教師をしていました。たまたま9月3日は夏休みの日直であったので、鹿屋の市街地から高須に比較的近い大姶良に向かって歩いていたら、上陸する進駐軍を恐れて避難する群衆が、道の向かい側から荷物をリヤカーや肩に積んで押し寄せてきて、自分一人が反対方向に歩いていたそうです。電柱などのあらゆる所に、当時の鹿屋市長・永田良吉名で「進駐軍は住民に危害を加えないので、逃げるに及ばず」という内容の張り紙があったそうですが、実際は警備隊の勧めで逃げた人が多かったようです。

熱意のある地元の人により、「昭和の陣痛 ― 進駐軍 高須金浜上陸の記録 ―」という本や「進駐軍上陸地の碑」が残されました。幸いにも、自分で考えて、行動する方がおられたためです。今の鹿屋市民は、この人達に感謝せずにはいられません。

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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

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