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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(6)明治5年までは高屋山上陵であった国見権現

鹿児島県の大隅半島(県地図の東側)は、建国神話にまつわる伝承地が極めて多い所です。今回もその一つです。

1 国見権現まいり
内之浦の国見岳山頂(標高886.5m)にある国見権現(高屋山上陵)に誘われて登りました。
地図_連結

肝属町の高山から内之浦に行くトンネルの手前から車で山道を登りました。引率者が事前に許可を得て、2ヶ所の通行止めのロープを外し、鉄柵の鍵を開けて、頂上付近まで車で行きました。
そこから山頂に通じる山道に入ります。その山道の入口付近から狭い山道を覆った草と木を、ビーバーとチェーンソーで取り除いてから山頂を目指しました。
ビーバーと山道

山頂には山幸彦(彦火火出見尊:ひこほほでのみこと)を祀(まつ)る祠(ほこら)があり、文化14年(1817年)の銘がある石灯籠をはじめ、古石塔があります。
国見岳の高屋山陵_2B

頂上の彦火火出見尊(山幸彦)を祀る祠の前で、修験者でもある神主様から一人ずつお祓いをしていただきました。
国見岳山頂からは、内之浦や柏原、志布志、鹿屋方面の景色が見渡せました。
国見岳の高屋山陵_4文字入


2 神代三山陵の確定まで
明治5年(1879年)までは、宮内庁は高屋山上陵は国見岳にあるとしていましたが、それが霧島市溝辺町になった経緯を、窪壮一郎著『明治維新と神代三山陵』(法臧館)により以下に説明します。
まず、神代三山陵とは、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の陵墓の総称です。以下に神さまの系図を示します。
なお、神さまの名前の読み方は同じでも、漢字表記は色々とあります。

神さまの系図_山陵入

神代三山陵を考証した学者は多く、例えば古くは薩摩藩の国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)が、寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三陵がすべて薩摩藩に存在することを主張しました。
行政機関の筆頭の神祇事務局に命じられて、三雲藤一郎(鹿児島神宮の神職)と三島通庸(誠忠組の一員)が明治2年(1876年)10月に出した結果は次のとおりです。ただし、これは政府としての調査というよりも、薩摩閥内での調査と言ったほうがよさそうです。
・ 可愛山陵(瓊瓊杵尊)= 新田神社のある八幡山(現・薩摩川内市)
・ 高屋山上陵(彦火火出見尊)= 内之浦の北方村国見岳(現・肝付町)
・ 吾平山上陵(鸕鷀草葺不合尊)= 上名村鵜戸の窟(現・鹿屋市)

明治5年6月に明治天皇が鹿児島に巡幸された際には、鶴丸城から皇祖の眠る薩摩川内市の可愛山陵、内之浦の高屋山上陵(国見権現)、鹿屋市の吾平山陵の三山陵を遙拝されました。
ところが、明治7年(1881年)の神代三山陵治定の裁可では、高屋山上陵は姶良郡溝辺村神割岡に変更され、確定したのです。この変更の背景には、当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸(よりつね)の建白が容れられたためと伝わっています。
変更の理由は、『古事記』によれば御陵は「高千穂の山の西」にあるとされているので方向が合うということと、神割岡の近くには彦火火出見尊を祀る鷹屋神社があり、鷹屋=高屋であると考えられるということの二点です。
なお、田中頼庸は神代三山陵の調査を行い、明治4年には『神代三陵考』を著して、彦火火出見命の陵墓の一について考証し、これが建白に繋がったと考えられます。

現在の神代三山陵の場所と写真を以下に示します。
  神代三山陵の場所_文字入

神代三山陵_5文字入
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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

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