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大隅の偉人:池田俊彦

 『鹿屋市史 下巻』(平成7年発行)には「池田俊彦」について、以下のように書かれています。
 『大姶良の生んだ教育者、一生を教育会に捧げた人である。明治十三(1880)年旧大姶良郷麓の池田彦太郎の長男に生まれた。幼少から秀才といわれ、大姶良小学校から鹿児島県第一中学校に入り、七高造士館を経て東京帝国大学の西洋史学科を卒業した。おそらく当時の大姶良においては、このような学歴を持った人はほかにいなかったと考えられる。

 卒業後は東京市麻布中学校の教諭を勤め、大正七年に学習院教授となった。在任中、一か年にわたり欧米の教育状況を視察した。昭和四年学習院を辞任し、郷党子弟の教育に尽くすため鹿児島県立第二中学校長に就任した。在職一七年、昭和二十年の敗戦の年に退職、その後、本県教育会長となり混乱した教育会の立て直しに努力した。
昭和四十一年、郷党の士が図って大姶良小学校の校庭に顕彰記念碑を建てた。
著書に「西郷とリンカーン」「島津斉彬公伝」がある。』

池田俊彦と家族写真1 池田俊彦と家族(東大時代)

 
 池田俊彦の父の彦太郎については情報は少ないが、俊彦の孫のルリさんが彦太郎の墓前で、「このお父さんあって俊彦さんあり」と語ったことが、「楠の葉風」に書かれています。大姶良東集落センターに、西南戦争の記念碑があり、その側面に出征者名が刻まれていますが、その中に「池田彦太郎 十七才」があります。満年齢では15歳です。
 池田俊彦著「西郷とリンカーン」に、俊彦が父親に「どういう考えで従軍されたか」と質問したら、返事は「俺などは西郷先生の後について東京見物に行くつもりであった」とあり、西郷の言動には間違いがないという絶大なる信頼があったので、多くの若者が従軍したことが書かれています。なお、俊彦には弟と妹がいました。

 社会に出てからの池田の人となりを知る手がかりは、没後約40年してから出版された「楠の葉風 : 池田俊彦先生回想録」から得ました。
 最初に学習院教授から二高校長に就任した時に、全校生徒と教師を前に話した「二中校長就任の辞」(昭和5年11月17日)があります。その一部を以下に転記します。
 『第一に私の諸君に対する心をお話する。自分はふつつかなものであるけれども諸君に対してはあくまで、至誠にして公平無私であるといふことを誓ふ。自分は虚偽をきらふ、偽りを云はぬ、諸君も偽りを云ふことをやめて貰いたい。偽ることをするな。又術策を弄するといふようなことは自分はしない、又することも出来ない。がらにもないお世辞も云わない、只々誠心誠意事に當たりたい。今も述べたる如く自分としては校長といふことは無経験であり、尋常一年生といふよりも、謂はば幼稚園生である。或は全く経験の無いために、或は思慮の浅い為に、自分の仕事は失敗するかも知れぬ、が然し精神的に於いては決して失敗しないつもりである。生徒諸君に望む所はどうか中学生といふものは将来国民の中堅になるといふことが第一に大切なことである。大いに努力し勉強し、大いに実力を養成して貰ひたい、實力のあるものはたとひ失敗しても亦立つことが出来る。然し如何に勉強するとは云へ、四六時中机にかじりついて勉強ばかりすることはいけぬ、体格を練ることも最も必要なことである。それには大いに運動して貰いたい。教場では専心勉強し、運動場に於いては大いに遊ぶ、最も諸君は克己に富んでいる時代である。三月節句の雛様のやうに温和しくせよとはいはぬ。無邪気なことはいくら無邪気でもよい、聞く所によれば二中は野球は強い、南九州に於いて覇権を握つたといふ、大いによろしい。』と、飾ったり居丈だけなところがない、率直な発言です。さらに、

 『大西郷は「先輩に於いては藤田東湖に服し、同輩に於いては橋本左内を押す」と云つている。左内先生は所謂外柔にして内剛なる者、千住小塚原にて処刑せられた時年僅かに廿六、もし長生きをしたらんには大人物となったであろう、実に惜しいことである。肩を怒し、大きな棒を振りまはして強そうな風をするな。ほんに強い者は自分が強いといふことは云はぬ。』と、池田が尊敬する西郷と橋本左内の考えを引用して、生徒に教え諭しています。

 なお、池田が島津斉彬や西郷隆盛の研究者となった背景となる、島津家史料の編纂に従事された経緯や指導を受けた教育者について触れた文章が、著書「島津斉彬公傳」の「はしがき」にあるので、その一部を以下に再録します。
 『著者は明治四十年東大史学科を卒業し直ちに麻布中学校に教鞭を執ることになった。當時の校長は江原素六翁で、至誠高潔稀に見る偉大な教育者であった。翁はまた熱心なる基督教の伝道者であり、政友会の総務委員として政界の長老でもあった。もと徳川麾下の錚々たる武人の出で、戊辰の役には幕軍の隊長として諸所に奮闘された経歴があり、歴史好きで徳川慶喜や勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟等につき時々興味ふかき話を聞かされた。

 午前中は麻布中学校に勤務し、午後からは芝白金三光町の島津家編輯(へんしゅう)所に勤務して、小牧昌業博士を総裁とする島津家国事鞅掌史料の編纂に従事することになった。博士は旧藩時代の幼時より重野博士と並び称された秀才で、安政年間共に斉彬公の面前に於て四書の素読をなせしこともあったという。晩年大正天皇の侍講となり、漢学を進講されしほどの碩学であった。博士とは編輯所に於いて室を同うして終始懇切なる指導を受けた。博士は嘗てまた奈良県知事や黒田内閣の書記官長を勤めし経歴もあり、資性極めて謹厳な人であったが、時には微醺を帯びつつ斉彬公や維新の當時薩藩より輩出した幾多先輩に関する逸事秘話をよく聞かされたものである。その頃までは薩摩出身の幾多元老重臣など猶健在したために、それらの人達を歴訪して、種々の資料蒐集の便宜が得られた。』
なお、文中の小牧昌業(まさなり)博士は、大隅の今の錦江町田代の出身です。


池田俊彦の回想本2冊写真2 「楠の葉風」と「池田俊彦先生講話集」

 「楠の葉風」には、池田の講話、訓示に関する思い出話がたくさん書かれています。
 池田俊彦先生遺徳顕彰会会長の土屋佳照は、「楠の葉風」の序文に以下のように書いています。
 『二中を天下の二中たらしめるべく、多くの優れた教師を招聘されるなど、十五年の長きに亘り、校長として、教育と学校経営に心血を注がれた池田俊彦先生に対する追慕の想いは今に立ち難いものがある。
 毎月一回、朝礼で行われた校長訓示と修身の授業以外には、池田先生のご謦咳に接する機会は、それ程多くはなかったものの、先生が二中の生徒に与えられた感化は極めて大きなものがあったと思われる。
 一学年の全員を集めて、島津斉彬公、西郷南洲翁、中原猶介など郷土の先人や、専攻された西洋史の英傑の思想・業績について熱情をこめて講話された。「人は如何に行き、如何に困苦に処し、如何に命運に対すべきか」諄々と説きおこされ、説き続けられる校長先生の悠揚迫らざる偉容に、大きく温かい人間愛と、教育者としての気迫が、私たちに惻々として伝わり、ひしひしと感じ取られたものである。』 

 中でも、西郷南洲に関する講話が多かったようです。
 「池田俊彦先生講話集」には、「南島幽囚中の西郷南洲先生」(昭和14年発行二中学友会雑誌第35号掲載)と題する文があり、以下の西郷の教訓を伝えています。
 ① 欲を去れとといふのが先生(西郷)の根本精神であります。
 ② 人間はいついかなる場所、いかなる逆境にありても失望や悲観をしてはならないといふ活教訓が得らるると信ずるのであります。


 池田が書いた「大西郷とリンカーン」には、世界で真の偉人は西郷とリンカーンであると、以下のように書いています。
 『大西郷やリンカーンはナポレオン、成吉思汗、または豊臣秀吉とかいふ型の人とは全く異なった人格の所有者たることが明かである。即ち是等多く英雄と呼ばれ偉人といはれて来た人達は壮大なる自己中心主義者とでもいふべきで偉人と呼ぶには最も大切な条件を欠いている。大事業をなした人でも英雄と呼ばるるには何とか物足りない。幾許か人寰(ジンカン、世間)の上に出で世俗の妄執を超越してこそ世人の尊敬を受ける価値がある。
 自己に厳他人に寛、而して一片の私心なく恬淡無欲富貴功名の上に超越し度量遠大何人に接しても城府(しきり)を設けず直に赤心を人の腹中に置くといふ風で情緒纏綿(じょうしょてんめん、愛情が深く離れがたい)弱者に対して同情深く敵に対しても寛大なる精神の持主なること。』

 池田はその時の権威に屈せず、抗議したり、時分の意見を披瀝する、骨のある教育者でした。具体手な2つの事例を生徒が書き残しています。
 『福留慶彦:池田校長はこんな時代でも軍人の非人間的な事には屈せられなかった。当時中学以上には軍事教練が課せられ、年一回陸軍省からその成績を詳しく調べる査閲と云う行事があった。査察官は少将以上の高級将校で軍馬に跨り部下を従えて乗り込む。その日は全校がふるえ上がった状態になる。昭和十四年の査閲の日であったか査問官が校長の出勤より早く二中に現れた。全校の職員と生徒が庭に整列して待って居ると壇上に上がった査閲官が開口一番ここの校長は自分より遅れて来たとなじった。全校が驚きと当惑でどうなるかと思った。池田校長は憤激されたであろうがその場は目して校長室に引込まれた。事によっては校長の立場は危ういしその当時は査察官がパスさせなければ生徒の進学も出来なくなるという時代であったが、翌日校長は「査察官が早すぎたのであって陸軍省に抗議を申し込むから心配しないように」とのお話であった。そして流石に学習院教授の前歴がものを云ったか軍側が非を悟ったか、向うから詫びが入って平穏におさまっった。』

 『矢野宏治:二学期のある日、いつものように校庭で朝礼があった。いつもと違ったのは校長の訓話だった。「ミッドウェイ海戦は、勝った勝ったと浮かれているが、とんでもないことである。日本海軍の大敗に終わった戦いなのである。緒戦の勝利に酔って油断していた結果が、海軍が再び立てるかどうかという程の海戦を招いたのである。ミッドウェイ海戦は、明らかに海軍の作戦の失敗であり、今後いかなる事態になるか計り知れぬものがある。みんなもじゅうぶん心せねばならない。
粛然として聞きながら、軍部の耳に入れば拘引されかねないことを、全教職員生徒の前で、堂々と真実を伝えた校長の勇気に、舌を巻く思いで、さすがは池田校長だとの感を深くしたものである。
 戦後池田校長は教職追放にあわれた。(略)なぜ追放されたのか。軍国主義教育を推進したというのが理由なのか。だが私には校長から軍国主義教育を受けた覚えはさらにない。(略)むしろ追放した側にこそ問題がありはしなかっただろうか。審査した側の一人でも、校長のように日中、千二百名の前で、敗戦を指摘し軍部攻撃をした人がいたであろうか。』

 池田は鹿児島県立第二中学校長を在職17年、昭和20年の敗戦の年に退職、その後、本県教育会長となり混乱した教育会の立て直しに努力しました。晩年は大姶良にある生家で過ごしました。

 池田の晩年は不幸であったと言われています。女婿の折田 力は、以下のように回想しています。
『(岳父は)家族運には恵まれず、長男俊一は池田が学習院からヨーロッパ留学中の大正十五年の夏、妻萩は昭和五年十二月二十九日に、二男の昭二も昭和十五年の5月には死去しております。』

 池田は学習院時代に、少年時代の昭和天皇の家庭教師をしていたことがあり、昭和24年に鹿屋に来られた昭和天皇と再開されたことを、元岩崎学生寮寮長の吉瀬 寛がそのことを書き残しています。池田が無くなる年前のことです。
 『私が伺った所では、次の様な経緯があります。昭和24年6月に陛下(昭和天皇)が鹿児島県に行幸になられました。理事長さんの重富の工場も視察になられましたが、そのあと大隅半島においでになり、鹿屋にお泊まりになりました。その晩、陛下は宿所に先生をお呼びになりいろいろお話があった由です。
 というのは、先生が学習院教官として歴史を教えて居られましたが、陛下(昭和天皇)が少年時代、先生から歴史を教えて頂いた事があり、九州行幸に際して、侍従から先生が故郷の大姶良に隠棲して居られることを聞いて久しぶりに懐かしい子弟のお話し合いの時間を持たれたのだと思います。学習院の教壇を去って二十数年、昔の恩師を忘れぬ陛下(昭和天皇)のお人柄もご立派だと思いますが、又先生のご人格も偲ばれます。
 その時のお話の中に、先生が畢生の大事業として永年かけて続けられた『島津斉彬公傳』の原稿も全部出来上がった事をお話になられると陛下(昭和天皇)は『公刊されたら、ぜひ読みたい』と仰言ったそうです。これは私の推測ですが、皇后陛下が島津家とご縁が深かったこともお考えになってのことだろうと思います。』

その後、公刊された本を陛下に謹呈したら、皇太子にも読ませるのでもう一冊欲しいと陛下に言われたそうです。池田先生はうれしかったことでしょう。

昭和天皇と島津斉彬公伝写真3 昭和天皇と『島津斉彬公傳』

 昭和10年11月に鹿児島と宮崎で陸軍の大演習があった際に、昭和天皇が吾平山陵に参拝(行幸)されたのを記念して、翌年の11月に公爵の島津忠重氏が吾平山陵に昭和天皇行幸記念碑を建立されました。この記念碑の後ろにある碑文は、池田俊彦先生が書かれました。

行幸記念碑の3連結写真4 吾平山陵にある昭和天皇行幸記念碑

 池田彦太郎と俊彦の墓は、大姶良町にある龍翔寺跡の横にある共同墓地にあります。
 
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