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大隅の偉人:野村伝四

野村伝四(1880~1948年)は、夏目漱石の東大での教え子で小説「三四郎」のモデルになったと言われ、髙山(今の鹿児島県肝属郡肝付町)に生家と墓があります。生家は人手にわたり、今は無人です。庭には秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮から持ってきたと伝わる椿の侘助の巨木があります。
野村伝四生家と侘助                                                                               伝四の生家と侘助

父親の野村伝一郎は、武芸、学問に秀でた人で、参勤交代で江戸に出向したり、長州征伐、西南の役にも出征し、地頭仮屋で横目の役も勤めていました(『大隅』第53号「明治時代の家屋普請について」 竹之井 敏)。
伝四の墓は肝付町前田の長能寺墓地にあります。伝四の新婚を祝って、漱石が贈った句「日毎ふむ艸芳しや二人連れ」が墓石にきざまれています。その横に野村家の新しい墓があります。
伝四と野村家の墓                                                   伝四の墓(左端)と野村家の墓

渡口行雄「故郷忘じがたく-野村伝四の生涯-」(『大隅』(第59号)2016年)によると、『伝四は明治13年9月、旧高山村(現肝付町)で野村伝之助の四男として誕生。ちなみに長兄は伝一郎、以下順番に伝二、伝三と続く。伝之助には西南戦争のことを書いた「出陣日記」などがあるという。伝四は鹿児島市内の造士館を経て上京し、旧制一高、東京帝国大学と進む。専攻は英文学で大学時代の恩師が夏目漱石である。伝四は漱石の一番弟子と言ってもいい存在で、漱石が彼に宛てた58通もの手紙が「漱石全集」に収められている。

明治39年に帝大を卒業し、41年2月にはセイさんと結婚する。夫人は旧加治木町出身で、昭和49年に88歳で亡くなっているという。英語教師として岡山や山口、佐賀、愛知、大阪の旧制中学などを転々とし、大正10年から旧奈良県立桜井高女、昭和3年から同五條中学の各校長に就任、同9年から奈良県立奈良図書館長となった。戦時中の同17年に退職して戦後の23年7月に亡くなっている。享年67歳。

英語教師だったにもかかわらず、民俗学者あるいは言語学者として名をなした。「ことばの奈良」「大和の垣内」「大隅肝属郡方言集」などの数々の著作があり、特に後者は民俗学の泰斗・柳田國男の序文がついており、貴重な資料となっている。また、故郷の大隅半島を舞台にした随筆「鷹が渡る」は名文で、旧制中学の国語の教科書にも掲載されていたという。』

漱石邸で後輩が多い中、伝四は右端に遠慮がちに立っています。
漱石邸での伝四_800KB                                                                        漱石邸での伝四(右端)

修善寺の大患で漱石が大量失血した際には、枕元に付き添うのを許されたのは伝四と安倍能成の2人だけであったそうです。漱石の自宅での集まりにおいても、伝四が漱石の隣にはべっていたのは、それだけ信が厚かったことを示しており、また控えめで泰然自若としている気質が、漱石の最も愛した弟子と称される理由でありましょう。

渡口行雄は桜井高女での伝四の功績を次のように書いています。『桜井高女時代の在勤七年間で、もっとも功績があったのは「体位の向上と体育の奨励」であったようだ。西洋諸国に比べて、著しく見劣りする体位の向上のために、服装を和服から洋服(セーラー服)に改めた。運動に力を入れて、バレーボールや定休、バスケット、弓術などを勧め、ラグビーボールを使ったハンドボールも伝四校長時代に始められた。その結果、年ごとに女子学生の体位は向上し、全国平均を常に上回ったという。昭和三年に伝四が運動部の校内大会のために寄贈した優勝杯は今も残っている。

特筆すべきは女子野球部の創設であろう。(略)当時、高女で野球部があったのは全国で三校だけ。桜井高女チームは大正十四年に大阪で開かれた第二回女子オリンピック野球大会で全国優勝。ところが、翌十五年に文部省が女子野球廃止の訓令を出したので、優勝校の持ち回りになるはずだった優勝旗は永久に同高女のものになったという。大正時代に女子野球部を作った先見性が伝四にあったというのは、驚き以外、なにものでもない。

初めて大正十一年に東京への修学旅行を実施したのも伝四の時代であった。(略:手記)当時の生徒の思い出である。現代と違い、交通事情の大変な時代である。東京などは夢のまた夢であったはず。手記にはその時代に首都を訪ねた喜びがあふれている。
桜井高女の野球部_800KB                                                                        伝四校長と野球チーム

佐藤健著「漱石と野村伝四と我が母」(文芸社)によると、『文部省の視察があっても、「普段のありのままの様子をお見せしろ」と言い、校内の掃除をさせなかった。さらに、彼らの帰りに際して、教頭が自動車を呼ぼうとしたら、伝四は「年寄りの僕でも歩くのだから、若い人は歩いたほうが良いでしょう」と言ったという。文部省はカンカンに怒り、危うく伝四校長のクビが飛ぶという騒ぎになったらしい。

校長として自由を愛する個性豊かな人材の育成に努めた。教育方針は上級学校への進学のためではなく、学問が好きになる教育であると、父兄に言った。伝四がつくった校訓「普(あまね)く 絶えず 正しく」は現在も引き継がれている。』
伝四は、恩師の漱石の権威嫌い、反骨精神を引き継いでいるようにも思えます。しかし、その考えや、教育方針は合理的で、時代を先取りしています。

最後の職務となった県立奈良図書館長の時は、図書館月報に多くの文章を残しています。館長の職務を誠実に履行する一方で、奈良県読書会会長として県下の読書振興に努めました。さらに日本の図書館軽視の風潮に対する警鐘と社会人教育の重要性を主張しています。ここでも、戦時下でありながら、自分本来の考え方を述べている点では、漱石の反骨精神としたたかさがうかがえます。
県立奈良図書館と五條高校伝四校長                                                             県立奈良図書館と五條高校の伝四校長

渡口行雄の「故郷忘じがたく-野村伝四の生涯-」には、伝四の最晩年の6年間を調べて、以下のように書いています。
『伝四の長女の長女にあたる塘(とも)芳子さん(昭和八年生まれ)が大阪府枚方市内にいることがわかった。今では彼を直接知る唯一の生存者である。塘さんとは手紙と電話で何回かやりとりをした。懸案の「空白の六年」はあっけなく埋められた。その証言__。
「館長を辞めてから体が弱くなり、奈良市内の自宅でずっと寝たり起きたりの生活でした。高山のことはいつも思い出しており、退職後は帰って住みたかったはずなのに、病気と戦中戦後の混乱で一度も帰れないままに亡くなりました。それは残念だった、心残りだったと思います。
 塘さんは子供のころは鹿児島市や旧大口市(現伊佐市)に住んでおり、伝四と一緒に住んだことはない。「あまりよく知らないのですよ」と言いながらも、祖父の胸中を推し量る。
 「おばあさん(伝四の妻セイさん)は、戦後、一人で時々、帰郷して高山のお墓参りをしていたようです。私一人を連れて行ってくれたことも覚えています。でも、(漱石との関係など)詳しい事情は何一つ教えてくれませんでした」
 「おじいさんが亡くなって何十年もたちましたのに、今も思ってくださる方がいらっしゃるとは本当にありがたいことです」。しみじみと語る。
 帰郷を切に願いながら、かなわずに異郷に果てた伝四。田舎の墓はセイさんと野村家を継いだ二女が建立したらしい。
 彼の魂は死後、田舎に帰ったはずである。その墓にセイさん、子供のころに亡くなった三女、夭折した長男と四女とともに静かに眠っている。』

私は身近な所に野村伝四の実家とお墓があることを、最近知りました。
虚弱そうなに見える伝四には、合理的な考えと、信念を曲げない強さがあることを知り、それは漱石の影響を受けたためであろうと思いました。合理的、論理的な思考ができることと私欲が少ないことが、信念が揺らがない源であるような気がします。
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コメント

ご返事が遅れて申し訳ありません。

渡口行雄 様

小生のブログにコメントを下さり、誠に有難うございます。
迂闊にも、コメントを本日拝読いたしました。誠に申し訳ございません。

渡口様が『大隅』誌へのご投稿された論考は、毎回興味深く拝読し、啓発されております。この場を借りて、御礼申し上げます。

小生は昭和23年に、現在の鹿屋市吾平町に生まれ、父の転勤で全国各地に住み、大学を出て三菱マテリアル社に就職しました。今はリタイアして、95歳の母のサポートのため生家に戻り、母と二人で暮らしています。

関東で親しく付き合っていたノンフィクション作家の大場昇氏(鹿屋市出身)から、生家に戻る時に大隅の建国神話の伝説地を回ることを勧められたのが契機となり、大隅の歴史や偉人に興味を持ち調べています。
最近は、高山の偉人に興味を持って、郷土史家の指導も受けて、資料を調べたり、住居跡や墓地に行ったりしています。

まずは、ご質問に関して簡単にお答えしました。
今回の失礼を、重ね重ねお詫び申し上げます。

  • 2023/02/24 (Fri) 08:25
  • ズッコケオジサン #-
  • URL
管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

  • 2022/11/14 (Mon) 20:17
  • #
大阪の渡口です

ズッコケオジサンさま

初めて、メールを差し上げます。
私は大阪に住んでおります渡口と申します。
出身は鹿児島県肝付町(旧高山町)です。

この度は、貴殿のブログ「健康オタクの目移り」の中の「大隅の偉人・野村伝四」で
「大隅」の私の論文「故郷忘じがたくーー野村傳四の生涯」を取り上げていただき、ありがとうございました。
実に丹念に、詳しく紹介されており、興味津々で読ませていただきました。
写真も的確に引用されており、読者が関心を持って読むことでしょう。

ブログは大隅半島の歴史や自然、文化、人物像などを幅広く紹介、読みごたえがありますね。
歴史や文学などにとても造詣の深い方だとお見受けしました。

関東から大隅に移り住んだとありますが、もともとは鹿児島出身ではないのでしょうか。
団塊の世代とありますので、今はリタイヤされておられるのでしょうか。
現役時代は、どんな仕事をされてこられましたか。
鹿児島の住み心地はいかがでしょうか。

余談ながら、私も団塊の世代で、昭和24年生まれです。
元は読売新聞の記者でしたが、退職後に大学に勤務、現在に至っております。
「大隅」への寄稿は今年で9年連続となっています。

今後とも、ご指導、ご鞭撻をお願いしたく、ご返事をお待ちしております。
宜しくお願い致します。
          11月12日
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 大阪青山大学
 
客員教授  渡口 行雄(わたりぐち ゆきお)

(大学)〒562-8580 大阪府箕面市新稲2-11-1
℡072-722-4165(代表)
        (自宅)〒586-0041 大阪府河内長野市大師町20-21
              ℡0721-62-3710
              E-mail yuki.watariguchi@nike.eonet.ne.jp
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