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大隅の偉人:宇都宮東太と是枝柳右衛門

薩摩半島には西郷隆盛などの明治維新の偉人をはじめとして、多くの分野の偉人がいたことが全国に知られ、本になったりドラマや映画にもなっています。一方、同じ鹿児島県でも大隅半島には、広く知られた偉人がいません。偉人がいなかったはずはなく、薩摩藩の被征服地で永く虐げられたこともあり、その記録も少なく表に出ることは稀であったと思われます。

そこで、主に大隅史談会の『大隅』誌を手がかりにして、埋もれた大隅の偉人を探してみました。そうしたら、15名ほどの尊敬すべき先人がいることが分かりました。今回は、その中から人材育成に貢献された偉人2名を取り上げます。
幕末の漢学者の宇都宮東太
18181906年)とその弟子の是枝柳右衛門(1817~1864年)です。東太は学問、武道、和歌、華道、茶道の師匠と、万能の達人です。柳右衛門は家が貧しいため行商をして老父母と弟妹を養いながら、勉学に励み後に私塾を開き子弟の教育に尽くし、和歌では志士中の最大の歌人と言われ、国を憂えて自ら討幕運動を指導した全国にただ一人の庶民志士でした。

1 宇都宮東太
平成9年版の『高山郷土誌』によると、宇都宮東太正直(まさなお)は高山(現 肝属郡肝付町)の代々修験者の家に生まれ、幼時和州の大峰に入山し、修験道を修めたと言われています。後に、儒学や歌道を極めさらに、武道や華道にも通じていたと言われています。従ってこの東太塾(宇都宮塾)には、高山郷内外から教えを乞う門下生が多く、晩年までに一千名もあったといわれています。
宇都宮東太1_800KB

東太塾の様子について、曾孫(ひまご)の有方氏が残した記録によると、「曽祖父東太は、少年の頃より学問が好きで、高山の伊東佳太郎先生に学び、鹿児島の矢野先生・山田先生・清川先生に往来して勉強された。又兵法や乗馬・槍・剣・銃・鎌術などについて‥(略)漢学を中心とした漢詩や和歌に至るまで研究を怠らなかった。後輩の指導についても、漢学・倫理・修身の道を説き知行合一の精神を打ち込んだ。(略)寺子屋式の教場、勿論学制発布以前のことでもあるが、又小学校ができてからも放課後特に漢学歌など習いにくる生徒もあった。
年齢は、十四、五歳の少年より二五、六歳の青壮年に至るまで思い思いに習いにきた。場所は住家の表一二畳の間、東太様その真ん中に箱火鉢を置き時々キセルをくわえ煙をくゆらしていた。子弟に読ませたり講義をされたり、教場は極めて厳格であった。(以下略)」

高山出身で、東大で夏目漱石の弟子であった野村傳四は、奈良図書館長の時に次の文章を残しています(渡口行雄氏の『大隅』第59号の文による)。
「私の実父は明治の初年が三十代であって、そのころ七、八年間郷校の平教員を勤めていた。その折の日記は今も大事に保存されており、それを読むと昔の学校先生は現今よりも暇で遊ぶことも遊んだに違いないが、一つだけ現代に見られぬ肝心なことがある。それは当時私の郷里には近郷に有名な漢学者があって、地方人は師匠といって尊んでいた。父は勤務の閑(ひま)をたのんで、大抵週に二回くらいの割で、この師匠の宅に行って教えを受けたことが記してある。」
文中の有名な漢学者とは、宇都宮東太でありましょう。昔の大人は仕事をしながらも私塾に通い、師匠から指導を受けていたことが分かります。

大隅各地に漢文で書かれた顕彰碑などの石碑があります。その中に東太が頼まれて書いたものが数多くあることからも、東太への世間の声望が高かったことがうかがわれます。
東太撰の石碑3連結


2 是枝柳右衛門
主に黒木弥千代著「幕末志士 是枝柳右衛門」(昭和38年9月発行 是枝翁顕彰会)から、以下に是枝柳右衛門の生涯を追ってみます。
是枝柳右衛門の肖像_800KB

是枝家は今の鹿児島市の谷山で代々商売をしていたが家運が傾いたため、柳右衛門が15歳の時に大隅の柏原(1年後に高山)に移住しました。柏原は柳右衛門の姉の嫁ぎ先があり、当時は海運などで賑わっていた場所でした。
柳右衛門は、老父母と弟妹を養うため、朝早くから波見で魚を仕入れ天秤棒を担いで魚の行商をしました。その過程で各地の情報を仕入れたり、顔見知りの客を増やすことが出来ました。
棒手振り姿_文字入

ある日、串良で有名な俳諧師の瀬戸山白菜先生の家に行き、先生から柳右衛門の淡々とした商売ぶりが気に入られ、俳句を習うことになりました。
20歳の時、柳右衛門は白菜門下の鍼灸師元林について鍼灸を学びました。芸は身を助くということで鍼灸術を修得したのです。

ある日、高山の麓の宇都宮東学院という修験道の塾から、柳右衛門に鍼灸の治療をしてもらいたいと、使いの者が招きに来たので、早速宇都宮家に飛んで行きました。柳右衛門が喜んだのは、実は鍼灸の商売ではなかったのです。東学院の子には東太という学者があって、若い学者として広く知られていました。柳右衛門は、かねてからどうかして東太先生に近づいて教えを乞いたいと思っていたところであったから、柳右衛門は神きの与えた好機とばかり喜んで、東太先生にお目にかかることができました。
東学院の子の東太先生は、父の鍼灸が終わってから柳右衛門に面接してお礼を言われました。先生は柳右衛門よりは一歳年下でした。

東太先生は「貴君は村中を歩き廻って商売をしているから、風雨の日はもちろん夜間に自分が寝た後でもかまわないから、遠慮なく門を叩いて下さい」と柳右衛門に言いました。大隅在住17ヶ年、この間東太先生についたのが10数年でした。しかも1日の間に2回もしくは3回も先生の門を叩いて、経義を学びしかも話し合うことを無上の楽しみとしました。これをもって、先生も柳右衛門の将来を嘱望し、親密な関係ができました。

柳右衛門は32歳で谷山に戻り、私塾を開き子弟の教育に尽くし、和歌では志士中の最大の歌人となりました。
勤王の志士の柳右衛門が一番先に企図したのは、徳川幕府の大老井伊直弼の暗殺でした。このため単身国を出たが、途中日向の細島で桜田門の変を聞き、後れをとった。このまま引返すわけにはいかないと決心した柳右衛門は、各地各藩の有名な志士を尋ねて互いに告示を談じ、また天下の形勢も探ることにしました。それから京都に入って、当時勤王の領袖と仰がれていた田中河内介に会い、更に河内介の手を経て中山大納言の父子や、右大臣の近衛忠熈公にも面談を許され、討幕と王政復古について、意見を具申しています。
彼に会った京都の公家、勤王の志士、薩摩藩の大老は、柳右衛門の人格と学識に感銘を受けて支援しました。

最後は寺田屋事件の関係者として屋久島に流され48歳の生涯をとじました。国を憂えて自ら討幕運動を指導した全国にただ一人の庶民志士でした。

黒木弥千代の「幕末志士 是枝柳右衛門」には、以下の柳右衛門評があります。
柳右衛門の偉かったのは、天性の資質に加うるに、恩師宇都宮先生の「身を殺して仁をなし、生きるを捨てて義を取れ」との訓陶によることながら、天秤棒を担いで魚塩を売り歩いていた小商人でいて、勤王のために一身を捧げたことである。士農工商の別ある時代、殊に薩摩では士族でなければ全く頭の上がらなかった環境のもとで、金もなければ藩のバックもない素商人でありながら、藩士でも出来なかった国事に尽瘁したということである。

また柳右衛門の偉かったのは、封建時代に町人の身でありながら、学文を深めていたということである。それであればこそ志士として立てたわけであるが、その学文の深さには全く驚くのほかはない。海防急務論にしても井伊大老斬奸状にしても、また短歌に長歌に、勤王節に遺訓に、その他多くの遺墨に、これらは何れも警世上に教育上に貴重な文献として残っている。短歌の如きは数百首にのぼり、志士中での最大歌人とされている。例えば「隼人の薩摩のこらか劔たちぬくとみるよりっ楯は砕くる」の如きは、歌人の川田順先生をして、維新の全国志士のなかで最も優れた作品であると絶賛せしめている。
是枝柳右衛門の書と本の連結

数え歌の勤王節は、薩摩教学の中心となった島津日新公の「いろは歌」にも比肩すると言われ、新納忠元の「兵児の歌」にも優るとされている。俳句にしても大家をなし、肖像画に自讚の長歌は、これまた柳右衛門の志操の真髄を示すと共に、万葉風の格調高い作品として味わわれる。」

是枝柳右衛門は、身分制度が厳しい幕末期に、魚の行商をしながら一家を支え、一流の漢学者に付いて学問を学び、一流の学識に達しました。一介の庶民志士が武士に混じって活発に討幕運動をしたのは、我が国では空前絶後のことです。
彼と会った庶民も武士も公家も、魅力ある人間性と学識に感銘を受け、信頼を寄せていました。このような偉人がいたことを知ると、元気をもらえ、発奮する契機にもなります。

また、
彼の恩師の宇都宮東太は、儒学や歌道を極め、さらに武道や華道の師匠でした。身分にこだわらずに門弟を受け入れ、弟子の家庭事情や能力に応じて指導法を変え、実践重視の知行合一の精神を打ち込んだそうです。度量の広い学者であったようで、門下生が千名もいたとは驚きです。この恩師の指導を得たので、柳右衛門の才能が大きく開花したものと思われます。
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