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砂鉄の多い大隅半島と熊襲の活躍の背景

以前に本ブログで一部を紹介しましたが、古代史研究家の内倉武久氏によると、古代に中国南部から大隅半島に渡来した熊襲は、当初は大隅半島に住み着きました。出身地と同じ地下式横穴墓(以下の写真)やシンボルマーク(逆S字、鳥、蛇など)、各種の風習(犬祖伝説、相撲、流鏑馬など)、金属利用技術をもたらしました。その後、全国にその痕跡を残しました。
地下式横穴墓3連結


熊襲は紀氏などと一緒になって、日本初の政権である九州倭政権を作り、九州年号を制定しました。大和政権により、これらの事実は隠蔽されましたが、徐々に事実が明らかになってきました。

熊襲らがこのような大きな権力を持ったのは、内倉氏が言われるように、鉄を利用して武器や武具を作る技術があったためと考えられます。当然のことながら、農業生産の飛躍的向上にも鉄は役立ったはずです。また戦では、熊襲が得意であった馬の利用も有利に働いたはずです。

熊襲が最初に住み着いた大隅半島に、
鹿児島県地図_文字入


鉄の武器を作るための金属資源はあったのか調べてみたら、高隈を中心に金属鉱山が沢山ありました。
以下の写真は「広報かのや」に掲載された高隈山にあった鉱山の説明です。
高隈山に点在していた鉱山


大隅半島の海岸では、古くから砂鉄が採掘されていたそうです。
垂水市のまさかり海岸には、鎌倉時代からそこの砂鉄を使って刀が造られていたと書かれた説明板がありました。最近、台風でこの説明板が飛ばされて無くなっていました。この海岸にも川が流れ込んでいます。
まさかり海岸2連結_1


まさかり海岸で磁石で砂鉄を探したら、現在は極めて狭い砂地にあるだけでした。隣接の温泉経営者は、昔は黒い浜であったのが、白い浜になったと言っていました。
まさかり海岸2連結_2


南大隅町の坂之口遺跡は、砂鉄の採掘時に発見された弥生中期の祭祀遺構(神霊を祀った遺跡)です。
山之口遺跡の石碑文3連結


以前に鹿屋市の浜田海岸で砂鉄が採取されていたと古老から聴いたので、浜田海岸に行きました。海岸に川が流れ込み、砂鉄の黒い紋がたくさん見えました。そのような所に磁石を近づけると、砂鉄が良く付きました。
浜田海岸2連結


浜田海岸の隣りにある高須海岸では、砂鉄の黒い紋は少なく、磁石に付く砂鉄量は少なかったです。ここには川が流れ込んでいません。
高須海岸2連結


高須海岸から500mくらい北側に流れている高須川の河口に行きましたら、砂の上に砂鉄の紋がたくさんあり、磁石に多量の砂鉄が付着しました。
高須川河口の砂鉄2連結


以上の海岸地域での砂鉄の多寡から、海岸にある砂鉄の主な供給源は陸側にあり、川から供給されていると推測しました。


吾平山陵を流れる姶良川の土堤は散歩コースになっています。鹿屋市吾平町の「湯遊ランドあいら」近くにある更生橋から下流には、雑草がない冬場には、川岸に鉄錆色の地層が何か所かに見えます。更生橋近くのそのような場所の砂地に磁石を当ててみたら、沢山の砂鉄が採れました。
姶良川砂鉄2連結


以上の狭い地域での調査結果ですが、大隅半島には砂鉄などの金属資源が豊富にあり、古代には容易に手に入れることができたと考えられます。金属利用技術に長けた熊襲が大隅半島に住み着いてから、金属資源を使って武器を作って勢力を伸ばして、一時は全国を制覇したことはありうることであると思いました。


内倉武久氏の古代史説に興味がある方は、同氏の『熊襲は列島を席巻した』(ミネルヴァ書房)とブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいぜ」”をご覧ください。

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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報