fc2ブログ

薩摩藩の暗黒史 補遺(ならず者の系譜)

1 巨悪を暴いた薩摩本
昨年、佐藤 眞著『薩摩という「ならず者」がいた。 誰も語らなかった明治維新秘史』( ケイアンドケイプレス)という、司馬遼太郎の本をひっくり返すような内容の薩摩本が出ました。
                薩摩というならず者_10

明治維新に薩摩藩が大きな役割を果たしたことは、よく知られています。しかし、その背景には島津斉彬が主導した国家反逆罪に相当する「贋金作り」による潤沢な資金がありました。この本では、斉彬は目的のためには手段を選ばない大胆で非情な男、テロリストと過激な表現をしています。

また、今も残る鹿児島県民のよそ者排除、男尊女卑と権威に弱い実態、過激すぎる廃仏毀釈により全ての寺院が破壊されたため、他県に比べて余りにも少なすぎる観光名所と文化財など、島津氏の圧政の影響が今日まで色濃く残っていることを証拠をあげて説明しています。

ここまで、島津氏の悪逆非道ぶりを書いた本は初めてだろうと思います。なお、この本の種本は、以下の写真の著者のラ・サール高校(鹿児島)での恩師と坂田吉雄・京大名誉教授の名著です。今後、著者は高校の同窓会には参加しくいことでしょう。
本二冊_20

2 大隅にあった文化財を持ち去った「ならず者」の子孫
私は大隅半島に移住してきてから、郷土史に興味を持って史跡巡りを始めました。南北朝・室町時代に鹿屋市内に建てられた有名な2つの寺の跡で、驚くべき光景を目にしました。

今から約600年前に建てられた島津氏一族の墓や供養塔がありました。それらは、重要な文化財として、地元人達が大切にしてきたものでした。当然、地元の郷土史(誌)にも記録が載っています。ところが、島津氏の子孫が昭和50(1975)年頃に、地元の了解も得ずに薩摩半島の鹿児島市にある島津墓地に移設してしまいました。昭和の御代になってから、墓参りや先祖供養が楽になるように、一族の墓を1ヶ所に集めたものと推測されます。

現在、2つの寺跡には墓や供養塔を囲んでいた石柵が残るだけです。もぬけの殻になった墓地を、地元では草刈りをしたり、史跡としての說明の石碑など建てて、今でも大事にしています。
以下に、重要な文化財としての2つの寺跡ついて説明し、もぬけの殻になった石柵の写真を示します。

① 龍翔寺跡(鹿屋市大姶良町)
日本百僧の一人に数えられる名僧の玉山玄堤(ぎょくざんげんてい)和尚が、大姶良城主の楡井頼仲の招きにより、大姶良に「瑞雲山龍翔寺」を建立して初代住職となりました。この寺は560年ほど続きましたが、明治初年からの廃仏毀釈で壊されてしまいました。

この寺には、大隅の守護(今の県知事)となった6代島津氏久(1328~1387年、南北朝期)の供養塔と遺命(死ぬ時に残した命令)により氏久夫婦の墓塔もありましたが、昭和50年ころに鹿児島市の島津墓地に移されました。今は大きな石柵だけが残っています。
大隅史談会の『大隅』(1963年)に、墓塔などがあった当時のボヤケた写真が載っていましたので、現在の石柵の写真と並べて示します。
龍翔寺島津の墓の今と昔の連結

② 含粒寺跡(鹿屋市吾平町)
7代島津元久の長男・忠翁和尚(1379~1445年、室町時代)が正長2(1429)年に建てた曹洞宗・福昌寺の末寺です。忠翁の尽力もあり、含粒寺は大隅中部における仏教文化の拠点となりました。忠翁は永享4(1432)年には総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)の76世に出世し、朝廷から紫衣を勅許されました。文安2(1445)年6月7日に67歳で亡くなりました。

含粒寺には忠翁の母(島津元久夫人)と妹の墓もありました。御南御前(16代肝付兼続夫人、島津忠良・日新斎の長女)も、ここに埋葬されたと記す資料もあります。大きな石柵が残っているので、立派な墓塔が建っていたと思われます。残念ながら、当時の写真は見つかりません。
含粒寺跡石柵と案内の連結

含粒寺は約440年間続きましたが、明治2(1869)年に廃寺になり、大姶良の南地区の玄朗寺と合体して移築されて、再興されました。廃仏後に再興されるのは珍しいことです。それほど重要な寺であったのでしょう。

含粒寺には山中八景といって、当時は八つの美しい景色(山頂羅漢、屋後の瀑布、座禅石、南池白蓮、大谷藪竹、門頭屏風岩、囲山流水、寺前石橋)を見ることのできる場所でした。大正15年発行の「姶良村誌」の巻頭に掲載の写真の中に2枚の「門頭屏風岩」があり、周囲の景色は変わりましたが、今も磨崖仏が彫られた「門頭屏風岩」を見ることができます。
仲翁和尚を火葬した場所は、「門頭屏風岩」の下の田圃で、そこに梅寿中翁灰塚(火葬)の碑(墓)が建てられました。しかし、この塚も持ち去られ、石柵だけが残っています。現在の写真と、以前の姿を写した大正15年発行の「姶良村誌」および昭和35年発行の「吾平町誌 下巻」(右端)の写真を、以下に示します。
含粒寺灰塚の今と昔の連結_文字入

ここには歴代のお坊さん等の墓が28基ありました。その多くは破壊されて、埋もれていましたが、鹿屋市の郷土史家が掘り起こして、石柵の横の斜面に並べました。今も現地に無残な姿で残されています。
これも整備して島津墓地に移設できなかったのでしょうか。島津氏が建てた重要な寺を支えてきた和尚たちの墓は、島津氏の子孫には取るに足りない物で、打ち捨てられたのでしょうか。
含粒寺の僧の墓と全景の連結

21世紀になりました。島津氏の子孫は、数世紀前の江戸時代には許された傍若無人の「ならず者」の振る舞いとは決別していただきたい。そして、地元鹿屋市民の気持ちを重んじて、昭和の時代に黙って持ち去った文化財を、元あった場所に戻していただきたいと切に希望します。夫婦の墓塔を大姶良に建てることを、遺命で残した島津氏久他のご先祖も喜ばれることでしょう。
スポンサーサイト



テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報