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大隅にあった日本初の禅寺と献身的な発掘者!

日本で最初にできた禅寺「道隆寺」の跡が、大隅半島の肝付町高山(こうやま)の本城(ほんじょう)にあります。寺の全てが明治初期の廃仏毀釈で徹底的に破壊されたため、寺跡として残りました。江戸時代の三国名勝図会には、破壊される前の寺の姿が描かれています。

三国名所図絵の道隆寺_800KB
               写真1 三国名勝図会の道隆寺絵図

道隆寺は、鎌倉時代の1246年(寛元4年)、中国の南宋の禅僧である蘭渓道隆(大覚禅師)が開山し、

道隆寺跡入口と説明板の合体_850KB
                  写真2 道隆寺跡入口

7年後の1253年に、鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に請われて、蘭渓は鎌倉へ赴き、現在の臨済宗建長寺派の大本山である建長寺を開山しました。私は建長寺に行ったことがありますが、その広大な規模に驚きました。

道隆禅師像と事跡合体_870KB
                 写真3 蘭渓道隆の像と事跡

建長寺3合体_800KB
                 写真4 鎌倉の建長寺

土に埋もれていた道隆寺の遺物を、肝付町の元役場職員で地主の福谷平(ふくたに たいら)氏が、昭和59年から公務のかたわら寸陰を惜しんで一人で整備を始め、その献身的な活動に心を動かされた人々の協力もあり、ほぼ30年をかけて、現在のようなすばらしい環境にまで復元しました。
木や竹の根が絡んだ重い石塔などを掘り起こして組み立てる作業は、想像を絶するご苦労があったはずです。役場の休みの日には、福谷平氏が夕暮れになっても発掘を続けているので、母親が心配して、「たいら!たいら!」と息子の名前を呼びながら、よく探しに来られたそうです。

ご本人から聴いた話では、何代か前のご先祖が、「自宅前に日本初の禅寺があったので、土地が売りに出されたら購入して、大事に保存しなさい」と言い残し、その後に売りに出された寺跡の一部を子孫が購入していたそうです。そのご先祖も、廃仏毀釈を徹底した薩摩藩の方針に抗して、独自の信念を貫かれたのです。

「肝属観光協会」のホームページには、現在の寺跡の様子が以下のように書かれています。
「本堂などがあった場所は水田になっていますが、林の中には観音堂跡があり、仁王像、ヤグラに刻まれた磨崖五輪塔、宝塔、経塚、六地蔵塔、無縫塔(むほうとう)、灯龍、鎌倉時代から戦国時代に至る数多くの五輪塔が古い歴史を物語っています。」

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                 写真5 道隆寺跡の遺跡

2006年(平成18年)には、6代島津氏久と7代元久の逆修供養塔(本人が生前に建てた供養塔)が発見され、肝付氏と島津氏の関係が良好な時期があったことがうかがえます。

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                 写真6 島津氏の逆修供養塔

整備された道隆寺跡は、掘り出された無数の石塔などが整然と並べられ、説明用の石碑、看板、札などが充実しています。

秋には植えられた多くの紅葉が色づき、素晴らしい景観になります。

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                    写真7 紅葉

平成21年からは、鎌倉五山の中心的存在である建長寺の管長をはじめとする建長寺の関係者が毎年、道隆寺を訪れています。

福谷氏は、肝付町に沢山ある文化財の説明板を自費で立てたり、毎年秋には道隆寺跡の近くにある本城集落センター(本城小学校跡)でミニコンサートを開催されています。また、現在はお一人で道隆寺跡の近くの竹やぶを切り開き、ブラジルの国花であるイペーの林を作る作業を続けておられます。

案内説明板の3連結_400KB
            写真8 福谷氏が作られた文化財の説明・案内板の例

イペー合体1
               写真9 色鮮やかな黄色のイペーの例

福谷平氏は、私が大隅に移住してから知った、数少ない行動力・実行力のある人の一人です。しかも、地域社会や後世の人々のためになる活動をいくつもされています。このような方が世の中を変え、お手本となって立派な人を育て、また人を元気づけるのです。

史跡としての「道隆寺跡」の価値は次第に大きくなってきましたが、その影に福谷平氏の献身的な長い活動があったことを広く知っていただきたくて、この文を書きました。

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               写真10 
史跡を説明されている福谷平氏
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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報