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薩摩藩の暗黒史 ⑧偽造密勅と御用盗

小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、真の王政復古を実現するには、武力で完膚なきまでに倒幕する必要があるとして、岩倉具視らの公家と謀って、1867年に偽造した「倒幕の密勅」を薩摩・長州両藩に下しました。密勅の効果は絶大で、薩摩藩は一挙に出兵と決まりました。

今吉弘著「鹿児島県の不思議事典」(新人物往来社)によると、昭和になってから公開されたこの密勅には、御璽(天皇の印)も署名者の花押も摂政などの署名もなく、通常の勅書とは異なっています。


倒幕の密勅888KB

倒幕の密勅


1868年1月3日の小御所会議(京都の小御所での国政会議)では、大久保らが強硬な態度に出て、前年の11月に大政奉還した慶喜に辞官・納地を命じることまでさせました。

さらに、薩摩藩邸に「御用盗」という盗賊団をかくまって、江戸市中で暴行略奪、辻斬り、放火と暴れまわって、幕府側を挑発しました。これに憤慨した市中警備の庄内藩士が、薩摩藩邸を焼き討ちしたため、西郷らが意図した戦端につながり、1868年1月27日からの鳥羽伏見の戦いへの導火線となりました。

その結果、1869年10月に戊辰戦争が終結するまで、旧幕府軍と新政府軍の双方に、多くの戦死者などの犠牲がでました。

西郷が関与した江戸城の「無血開城」は、当時、人口100万人の大都会であった江戸を戦場としなかった大きな成果であります。しかし、武力倒幕を狙った薩摩藩の策謀が、広範囲にわたる内戦の流血をもたらしたことや、今でもそれが薩長への遺恨として残っていることを、歴史の教訓として、忘れてはならないと思います。

今回まで8回書いた「薩摩藩の暗黒史」をながめてみると、薩摩藩の「強権」・「無法」政策による、偏狭・頑迷な「我を通すための謀略」、「激しい身分差別」および「宗教・文化の過度の軽視」が目立ちます。その根になる背景には、南九州の「弱い生産力」があります。
鹿児島県内では、個人レベルでも行政レベルでも、これらのことを今でも大なり小なりに引き継いでいるように思えます。

この「薩摩藩の暗黒史」を書いたのは、過去の諸悪を暴いて溜飲を下げたり、面白がるためではありません。歴史に学び、自分や地域のあるべき姿とその方策を考え直す契機にしたいためです。
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薩摩藩の暗黒史 ⑦密貿易

薩摩藩は、鎖国後は琉球を通じての中国との貿易を、諸藩のなかで唯一認められ、莫大な利益をあげたといわれています。さらに民間の貿易商、その後には藩が直接関与して中国(清国)との密貿易(抜け荷)を幕末まで行っていました

薩摩藩の輸入品としては絹製品・丁子・生糸・鮫皮、輸出品は銀・乾昆布・いりこ・干鮑などでした。例えば昆布は、北海道から北前船で本州に運ばれ、富山の売薬商人を介して薩摩にもたらされ、そこから遠く琉球、ひいては中国まで流通しました。

家老の調所笑左衛門が、藩の御用商人として密貿易に活用したのが、指宿の浜崎太平次です。南原幹雄著「豪商伝 薩摩・指宿の太平次」(角川文庫)には、海運商「山木」の八代目・浜崎太平次の波乱に満ちた生涯が描かれています。

浜崎太平次は、アメリカの西南戦争で世界的な綿花不足になった際に、綿花貿易で薩摩藩に巨利をもたらしました。その他にもテングサを原料に寒天を作り、ロシアや清国に輸出したり、奄美大島で醤油を製造してフランスに輸出したりするなど、多方面の貿易、海運で活躍した豪商です。


寒天工場

寒天工場の説明板

寒天工場跡と説明板



貿易の拠点となったのが唐入町です。森勝彦氏の“南九州における唐人町に関する覚書”によると、唐人町は西日本に広く存在し、 図1のように南九州に最も多かったそうです。

唐人町分布図


上記論文には、唐人町は「東南アジアのチャイナタウンと異なり日本人との雑居であり二世以降は目本名を名乗り完全に帰化したことや商人だけでなく特殊技能者も多かったこと、大名と密接なつながりがあった初期豪商が支配する流通網には入れなかったこと、排他的な特殊な社会とはみなされていなかったが鎖国以降は長崎の唐人屋敷のみが存在を許されたこと等の指摘がなされている」と書かれています。
ということは、薩摩藩は、民間の密貿易(抜け荷)を黙認していたことになります。さらに、民間の密貿易の黙認を裏書きすることを、以下に示します。

山脇悌二郎著「抜け荷 鎖国時代の密貿易」(日経新書)によると、「幕府は、抜け荷犯の裁判権を、その手に握っていて、およそ、大名たちが犯人を捕らえると、長崎か大阪へ送らせて、奉行に裁かせることにしていた。」とのことです。

刑罰は、時代によって異なり、寛刑と厳刑をくり返していましたが、いずれも抜け荷の禁圧には無力でした。「大名領での犯人の検挙が、ほとんど放置された」こともその原因でした。
特に、「薩摩藩のごときは最も悪質であって、抜け荷の取締りを放任し、幕府が、犯人をさし出せと命じても、病死したとか、逃走したとかとなえて、一度として犯人をさし出したことがなかったのである。」


密貿易の本2冊

薩摩藩の密貿易関連の本


薩摩藩は、財政の立て直しのために、密貿易という国家に対する裏切り行為を続けました。地理的にも政治的にも言語的にも、他藩から隔離された状況をつくりやすかったことが、この行為に拍車をかけたのでしょう。
民間の密貿易を黙認できたのは、藩による民間への締め付けが徹底していたためではないでしょうか。

<管理人より> 急に多忙になりましたので、今後はこのブログの更新の間隔が長くなると思います。
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薩摩藩の暗黒史 ⑥偽金づくり

偽金づくり本と通貨

薩摩藩は、財政建て直しのために、法を犯して大規模な偽金作りと密貿易をしました。
今回は、主に徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」(新人物往来社、2010年刊)を参照して、薩摩藩の「偽金づくり」の概要を記してみました。

藩の財政援助策として鋳銭事業を計画した島津斉彬は、本格的な偽金づくりをする前の1858年に亡くなりました。その後、薩摩藩は琉球救済の名目で、領内のみで3年間通用させるとして、「琉球通宝」の鋳造を幕府に申請しました。用意周到な薩摩藩の策略が続きます。

1862(文久2)年に幕府から許可が下りると、薩摩藩は、名勝 仙巌園(磯庭園)がある磯に鋳造所を設置して、幕府に認められた「琉球通宝」の鋳造を開始しました。職工が200人もいる、大規模な鋳造工場でした。その後、鋳造工場は西田に移ります。

1863年から幕府からは禁止されていた偽金「天保通宝」、さらに1865年から偽金「二分金」の密造を本格的に推進しました。偽金「二分金」の密造場所はいまだに不明です。

偽金の「二分金」は金メッキした銀です。通称「天ぷら金」といわれました。本物の「二分金」は金と銀の混合貨幣で、当時は金の含有量が22%程度だったそうです。

江戸の通貨

徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」に掲載の貨幣の写真



偽金「天保通宝」の原材料の銅を入手するために、藩内の寺院の梵鐘を壊して鋳つぶしましたが、それでも足りないので、全国からも集めました。薩摩藩の廃仏毀釈の目的には、偽金作りが隠されていたのです。

藩の鋳造責任者であった市来四郎が、偽造した「天保通宝」の金額を日記に記しており、290万両という額に達したそうです。薩英戦争の後、負けた薩摩藩がイギリスに支払った賠償金が6万333両であったので、その金額の多さがわかります。偽金「天保通宝」は、広島、京都、大阪などで流通しました。

イギリス艦隊に敗北して、一層の財政難になると、偽金づくりはかえって盛大な事業となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造されました。
薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用し、琉球通宝は三井組で換金する仕組みができていました。

なお、偽金づくりには家老の調所(ずしょ)笑左衛門は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通でした。

偽金作りと密貿易で貯め込んだ資金は、薩摩藩の討幕運動や殖産興業に役立ったので、「悪銭身につかず」にはならなかったのです。薩摩の「名君」には、幕府をだます策略と大胆不敵な実行力がありました
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