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薩摩藩の暗黒史 ⑤愚民化政策

主に中村明蔵著「薩摩 民衆支配の構造」(南方新社、2000年刊)を参照して、薩摩藩の教育事情を調べてみました。

薩摩藩の造士館


薩摩藩の藩校・造士館


薩摩藩の武士は総人口の26.4%であり、全国平均の5.7%の5倍と極めて多かったのです。その武士には、教育制度として郷中教育があり、その他に藩校(造士館)と郷校がありました。

残りの73.6%の庶民の教育はどうだったのでしょうか。他藩には多くの寺子屋がありましたが、薩摩藩の寺子屋は皆無に近かったのです。今の鹿児島市に1校、川辺郡に13校、大島郡に5校の計19校で、大隅半島には0校でした。私塾は鹿児島市にわずか1校でした。全国最多の長野県には、寺子屋が1,341校もありました。

農民は苛斂誅求と公役による過重な負担で、寺子屋があっても行くための暇と金がなかったのです。農民をこき使いたい武士にとっては、愚民化政策が好都合でした。

郷土史家から聴いた話ですが、大隅の平民には学問は不要、とまで武士から言われていたそうです。

薩摩藩の風俗・奇聞を書きとめた本「倭文麻環(しずのおだまき)」に、
「民は文字を不識(しらざる)より、良きはなし…。今の部官岡田氏、吾薩摩藩の農民、一丁字を識らず、邑(むら)に一揆の乱なく、速やかに上命に走るを聞て、曰く、誠に結繩(おおむかし)の遺民なり。宣(うべ)なる乎、字を識る、患難の本と、嘆嗟せしとかや」との記述があります。

原口虎雄は著書「幕末の薩摩」の中で、「倭文麻環」の上記の文を含むいくつかの文を紹介して、薩摩武士が「偏狭頑迷の弊に流れてしまったがよくわかる。要するに、いくら封建の世とはいえ、世間知らずの井の中の蛙がうようよしていたのである」と結んでいます。

重要な国産品は藩専売として藩が独占していたので、商業も発達せず、商人教育の需要も無いに等しかったのです。

明治5年になって、小学校教育が始まりましたが、この愚民化政策が尾を引いていました。明治7年の文部省の資料によりますと、鹿児島県の就学率は7.1%で、全国平均の32%の約1/4と、全国最低でした。

以下の最近のデータで、鹿児島県は「雑誌・書籍購入費が少ない」とか、小学6年生と中学3年生を対象にした「全国学力テスト正答率が低い」ということは、薩摩藩の愚民化政策の影響が、現在まで尾を引いているのかと勘ぐりたくなるのは、考えすぎでしょうか?


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「地域づくり協力隊員」の活動に敬意

2月25日に吾平振興会館で開催された「美里吾平ふるさと講演会」を聴講しました。準備された客席はほぼ全て埋まっていました。


美里吾平ふるさと講演会・竹丸師匠

多くの参加者の目当ては、落語の桂竹丸師匠の話のようでした。師匠の漫談は次から次へと笑いを誘い、会場を盛り上げていました。最後に、特別サービスとして、余興の踊りの披露までありました。


美里吾平ふるさと講演会



その次に、鹿児島大学の金子満准教授の講演「幸せの地域づくりをめざして」と、それと関連して「地域づくり協力隊員」の青木さん、繁昌さん、松本さんが参加して、パネルディスカッションがありました。三人が自己紹介や取り組みの体験を話し、さらに会場からの質問に答えていました。
私はこのパネルディスカッションに引き込まれ、色々と考えさせられました。

まず「地域づくり協力隊員」の方々の、要領を得た分かりやすい話し方に感心しました。活動内容や苦労話などを聴いて、彼らの行動力と実行力に、目が飛び出るほど驚きました。そして、これまでの私の彼らの活動への無関心を反省しました。

彼らは見知らぬ土地に来て、恐らく一人で地域興しの企画を考え、職場や地域の人たちの協力をえながら、多くの企画を具体化してきたことでしょう。企画が具体化するまでは、孤独でプレッシャーの大きい作業が続いたことと想像します。
また任期が三年で、その後は地元に定住して、自活の道を探すと聴いて、並大抵の決意では飛び込めない仕事であると思い、あらためて彼らに敬意をいだきました。

まず彼らの仕事の目的は、地域の「人のつながり」を増すことである、と確認できました。なお、町興しは、商店や住民の当事者意識がないとできないことなので、本来は商工会議所などが中心となって盛り上げることと思います。

地元側は、「地域づくり協力隊員」の提言や企画を、真剣に受け止める心構えが必要と感じました。例えば、彼らの新企画を“一発芸”に終わらせずに恒例行事にしたり、彼らの提言を関係者に伝えて、納得できれば具体化する制度があるべきです(すでにあるかもしれませんが)。
会場からの質問に答えて、二人の「地域づくり協力隊員」が、地元の一部の商店の接客マナーが悪いことに腹立たったといっていましたが、私も同感でした。

地域の「人のつながり」を増すといっても、“よそ者”が簡単にできることではありません。ご苦労が多かったことと推察します。
「地域づくり協力隊員」に、地元住民の考えや問題意識を知ってもらい、しかも多くの住民とのつながり作ってもらうために、一案として、彼らを各地区の集まりに招待したらどうかと思いました。彼らの都合や希望にかなえば、業務として参加してもらうのです。彼らの仕事も進めやすくなるだろうとの配慮からです。

今後は、私も「地域づくり協力隊員」の活動に協力したいと思い、今までの自分を反省した日になりました。
なお、本ブログの写真は「鹿屋市地域づくり協力隊 Facebook」から拝借し、加工しました。
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薩摩藩の暗黒史 ④徹底した廃仏毀釈

薩摩藩の廃仏毀釈は、過激で徹底し、寺と僧侶が完全に消滅しました。実際に破壊したのは下級武士でしたが、多くの民衆もそれを容認して協力したそうです。

島津家一族の菩提寺を含む1616の寺が全廃され、2966人の僧侶が還俗しました。そのため、住んでいる地域を歩き回ると、寺跡の標識や破壊された石仏をよく見かけます。

含粒寺跡

含粒寺跡(島津家7代元久の長男が開山)



江戸幕府は1613年にキリシタン禁制を打ち出して、その取り締まりのために檀家制度(寺請制度)を実施しました。ところが薩摩藩では檀家制度をとらず、武士集団が牛耳る五人組制度が、厳しい監視・取り締まりをしました。そのため、庶民は寺との日頃の付き合いが疎遠となり、廃仏毀釈への民衆の抵抗が少なかったといいます。

島津斉彬は国学のイデオロギーを背景に、軍費財源の調達もねらって、廃仏毀釈運動を先頭に立って進めました。その結果、美術品や史料などの貴重な文化財が破壊されたり、無くなりました。

玉泉寺跡

玉泉寺跡の石像



寺には「宗門人別帳」があり、その中に家族ごとの出身地・生年月日・続柄・宗旨・身分・収穫高が記載されていました。これを見ると、個人情報、人の活動記録、人と人とのつながりなどが分かるので、郷土史家には必須の資料です。ところが鹿児島県では、寺とともに「宗門人別帳」が全て消えたので、過去を解き明かす本線となる道が閉ざされています。

現在、鹿児島県では、庶民の墓は寺にありません。地区ごとの墓地にあります。鹿児島県の人は先祖供養に熱心であり、墓参りにはよく行きます。そのため、1世帯当たりの「切り花」の購入金額が全国一です。

芳 即正著「権力に抗った薩摩人」(南方新社)によると、藩の役人に知られずに、人々が堂々と念仏を唱えることができたのは、墓の前であったため、先祖供養の形で信仰が続けられたそうです。これが、鹿児島県民が墓を大事にする理由とされています。

「墓参り」の頻度は多くても、僧侶の説教を聴いたり、仏典を学ぶという「教え」に接する機会は少ないのです。これは寺と庶民を切り離すという、薩摩藩の方針の影響が、今日でも色濃く残っているためと考えられます。
結果的に、現在、寺離れが進んでいるという、日本人の宗教へのかかわり方を、鹿児島県では先取りしていたことになります。

以上より、薩摩藩には強権政治・恐怖政治が行きわたっていたことが分かります。
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吾平町黒羽子の「隠れ念仏洞穴」へ行く

前回のブログ「薩摩藩の暗黒史 ③隠れ念仏」を書いていたら、今から20年くらい前に、私の両親が吾平町(あいらちょう)上名(かんみょう)黒羽子(くろはね)地区にある「隠れ念仏洞穴」に行った話を思い出しました。

当時は案内標識が不十分であったので、苦労して駐車場までたどり着き、そこから山道に入り、草をかき分けながら、暗くて急な細い坂道を下ったそうです。道が悪く、イノシシが出ることがあるので、一人では危険で行けないと言われました。

それから約20年後の先月(2月)の寒い晴れた日に、一人で「隠れ念仏洞穴」に行ってきました。雑草が枯れた時期であるので、山道を歩きやすいと思ったからです。運動靴を履いて、杖にもなる護身用の軽い鍬と懐中電灯を持って行きました。

吾平町黒羽子の「隠れ念仏洞穴」については、ルートに関するネット情報が少ないので、以下に写真を付けて、「隠れ念仏洞穴」までの道程を書いておきます。

隠れ念仏①

写真1


吾平山陵に下る道の手前から、車で左折して橋を渡り、右手にある吾平物産館「つわぶき」を過ぎて、正面に見える黒羽子地区に上る道(写真1)に入り、道なりに進みます。


隠れ念仏②

写真2


T字路などには案内板(写真2)があるので、道に迷うことはありません。


隠れ念仏3

写真3


石塔がある所(写真3)から案内板の矢印通りに右折して、しばらく進むと行き止まりの直線道になります。

隠れ念仏④

写真4


直線道の舗装が終わると、右手に駐車場(写真4)があり、そこに車を置いて、そこから歩きです。

隠れ念仏⑤

写真5


駐車場の横の坂道に「隠れ念仏洞穴」の説明板(写真5)があり、そこから枯れ草が覆った坂道を10mくらい上ると、少し薄暗い山道に入ります。

隠れ念仏⑥

写真6


道幅が1.5mくらいあるほぼ平坦な山道を5分位歩くと、案内板と杖が置いてあり(写真6)、

隠れ念仏⑦

写真7


そこから急な下り坂(写真7)になります。

隠れ念仏⑧

写真8


狭いジグザグの山道を下まで降りて、幅1mくらいの窪地を越えて少し上ると、左手の崖下に「隠れ念仏洞穴」の白い説明板が小さく見えます(写真8)。

隠れ念仏⑨

写真9


坂を少し下ると、洞穴と説明板の所(写真9)に行き着きます。

隠れ念仏⑩

写真10


ここの「隠れ念仏洞穴」の説明板(写真10)には、隠れ念仏と洞穴について、写真5の説明板より詳しく書いてあります。

隠れ念仏11

写真11


狭い入口(写真11)から背を屈めて洞穴に入ると、右手に暗い空間があります。

隠れ念仏12

写真12


懐中電灯を点けると、2、3m先に岩の壁(写真12)があり、そこから左右に空洞があります。

隠れ念仏13

写真13



隠れ念仏14

写真14


左側の空洞をのぞくと、奥に石仏と南無阿弥陀仏と書かれた石碑などが見えます(写真13、14)。

ここならば、薩摩藩の役人に見つからないと思いました。一向宗の信者は、夜間に洞穴に集まったので、当時は道なき道を、しかも急斜面を、命がけで歩いてきたはずです。洞穴に入ると、当時の鬼気迫る真剣な様子がしのばれて、粛然たる思いに打たれました。

今は案内板が多いので、黒羽子の「隠れ念仏洞穴」に行き着くまでに、道に迷うことはないでしょう。しかし、案内板が不備な約20年前は、道に迷う人がいたようで、「案内板も設置せずに、吾平の人は何を考えているのか」と書いた落書きがあったそうです。
そこで当時、母が役場に行って、道に迷う人がいるので案内板を設置して欲しいと頼んだら、担当者から「たくさん来られては困るから、設置しなくていいのだ。」と言われて、呆れたそうです。これは昔の話で、今とは全く違います。

電気柵

写真15


今回は、幸いにもイノシシには出会いませんでしたが、駐車場の近くにある畑には電気柵(写真15)があったので、イノシシが出没する地域であることは確かなようです。なお、人と会うこともありませんでした。

冬場の晴れた日に、運動靴を履いて、懐中電灯を持って、黒羽子の「隠れ念仏洞穴」に行ったのは正解でした。安全のためには、複数の人と一緒に行かれることをお勧めします。
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