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薩摩藩の暗黒史 ③隠れ念仏

薩摩藩では廃仏毀釈のはるか前の1597年から、一向宗(浄土真宗)を禁制にしていました。一向宗の平等主義と団結力が、藩の支配体制には不都合であったからといわれています。

さらに、原口泉著「NHKかごしま歴史散歩」(日本放送出版協会)には、「経済的な理由が大きい。」とし、「“収奪本願”といわれるほどたくましい本願寺による農村搾取は、生産力の弱い薩摩藩の領主としては許容できるものではなかった。」と書かれています。その他にも、諸説があります。

幕府は民衆支配に一向宗の教団を利用しようとし、本願寺側も寺請制度を通じて檀徒との結び付きを強めて、幕府に協力しました。その結果、本願寺は、江戸時代に日本の総人口の半数を檀徒に擁する最大の教団となりました。

しかし、南九州の人吉藩と薩摩藩は、一向宗を禁止しつづけたため、信者は隠れ念仏となったのです。信者は、武士、農民・庶民にまで広範囲にわたっています。


花尾かくれ念仏洞


花尾かくれ念仏洞


一向宗の寺院がないので、信者は「講」という秘密組織をつくって、土蔵の二階や山中の洞穴(ガマ)に夜間集まり、ご本尊の阿弥陀仏を拝みました。「隠れ洞穴」「念仏洞」と呼ばれる洞穴は、今でも県内各地に残っています。

薩摩藩は、1635年ころから取り締まりを厳しくして、領民各人に名前・身分・宗旨などを書いた木札を交付して、定期的に調査・更新したり、宗体奉行と宗体座を設置して摘発体制を強化しました。
さらに、1768年には5人組で真宗信者を相互監視する制度を、1776年には密告制度をとって密告者を褒賞するようにしました。

摘発された信者には、財産没収、士籍剥奪、流刑、拷問・酷刑、斬罪、切腹などの刑罰が与えられました。伝えられている拷問・酷刑の数々は、あまりにも悲惨で、その様子を書く気にもなれません。まさに恐怖政治の世界でした。

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町内会で文化・観光を振興する「高須町」はすごい!

西郷隆夫氏の講演

2月5日に「西郷どんと高須」と題する講演会が、高須町民会館で開催されたので、聴講しました。講師は、西郷隆盛の曾孫の西郷隆夫氏でした。西郷さんについての身内に伝わる話や、ご自分の体験を語られ、面白いだけではなく、感じ入る内容でした。

その前に、鹿屋市文化財保護審議会長・隈元信一氏から、高須の歴史と西郷さんの最後の話があり、高須に百人くらいの中国人が住み、海外貿易の拠点となっていた時期があったことや、肝付氏が高須と志布志を結ぶ運河を計画していたこと、西郷さんが絶命した場所などを知りました。

一番驚いたのは、この講演会の主催者が高須町内会であることでした。鹿屋市ではありません。

最初に挨拶された町内会長・上原義史氏から、町おこしのために、町内会が西郷さんと高須町の関わりを紹介する案内板を、西郷さんの宿泊場所の近くに設置し、記念の焼酎も発売するという報告がありました。積極果敢な町内会活動に感心したというより、大隅にこのような町内会があったのかとビックリしました。

高須町内会は、すでに近くの金浜海岸の横に記念碑「進駐軍上陸地の碑」も建てています。



後日、新設された「西郷南洲翁ゆかりのまち・高須」の案内板を見るために、高須町に向かいました。

高須①
晴れた見晴らしの良い日で、坂道の途中から、高須町の中心部と鹿児島湾を挟んで、薩摩半島が見えました。遠くに開聞岳の美しい姿もありました。

高須④
佐田街道68号線の高須橋の横に、立派な案内板がありました。西郷さんが泊まった田中吉右衛門邸(今は建て替えられて当時の家は無い)の場所が、そのすぐ後ろです。

高須⑤
案内板には、西郷さんが宿泊された家の写真とともに、西南戦争の直前に高須に来られた時の西郷さんの話が書かれています。

高須②
田中吉右衛門邸は、鹿児島湾に近い高須川岸にありました。


川津神社
高須橋の近くの崖下に川津神社があり、そこに説明板のようなものが見えたので、神社の由来が書かれているかと思って近寄ったら、「隅州鷹巣(高須)の地名と史蹟」と書いてありました。

高須の地名と史跡
説明板には、1328年以後の高須と大隅の主要な歴史的事件と史跡が、また最後に枠付きで「子孫繁栄とこしえに幸せを願いいずるため森田家の家宝として当史蹟を建立奉る。」と2名の氏名が書かれていました。これは個人で建てたものでした。なお、この説明板には、”苛斂誅求”の「薩摩藩の暗黒史」も具体的に書かれています。

今後、「西郷南洲翁ゆかりのまち・高須」と「進駐軍上陸地の碑」がある金浜海岸に、観光客や歴史愛好家がたくさん訪れることを期待し、願っています。
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薩摩藩の暗黒史 ②苛斂誅求(黒糖の収奪体制)

薩摩藩は、財政面で古くから窮乏していました。藩政改革、列藩諸侯との縁組、南九州での長い騒乱、朝鮮出兵、参勤交代、木曽川治水普請、藩邸の火災、桜島噴火などにより、出費が多かったためです。


調所広郷像(尚古集成館蔵)

調所笑左衛門像(尚古集成館蔵)


8代藩主・島津重豪は薩摩藩の藩債500万両という天文学的借金を抱え、しかも金利1割2分で年間60万両の利子がかかっていたといわれています。家老や自らが改革しようとしましたが、上手く行きませんでした。そこで、下級武士出身の調所(ずしょ)笑左衛門(後に広郷)を見込んで、財政改革の大任を命じました

調所は、行政・農政改革の他、商人からの借金を無利子で250年分割払いにさせて踏み倒し、さらに琉球を通じて清と密貿易を行ないました。


さとうきび畑


サトウキビ畑



最大のドル箱は奄美の黒糖でしたので、藩は徐々に奄美三島(大島・喜界島・徳之島)での黒糖収奪の制度を強化しました。特に1777年の第一次黒糖専売制度により、奄美の島民は、黒糖生産の支障となる地元の風習を禁止され、休日も制限され、稲作も禁止されて黒糖生産のみ行うことを強いられることとなりました。

役人と豪農(役人の下の島役人)の公私混同の振る舞いも横行して、島民からの収奪が日常茶飯事となりました。藩は黒糖の見返りに、島民に米を配給しましたが、その交換比率は極端に低く抑えられたため、島民は飢えにうめきました。
その結果、島民が貧富の両極に分解して、多くの「潰れ村」と「家人(やんちゅう;借金で身売りした債務奴隷)」が発生しました。「家人」は島の人口の2~4割にも達しました。このような苛斂誅求により、農民が離散し、農村人口は著しく減少しました。

薩摩藩は、「奄美の黒糖」を上方市場に持ち込み、高級品として売り、富を蓄積して膨大な借金を返済し、さらに1840年には250万両を蓄財して、明治維新に備える軍資金までも手に入れました。その陰には、物言えぬ百姓の奴隷のような生活があったのです。

なお、藩財政の立て直しに成功した調所笑左衛門は、27代藩主になる前の島津斉彬に疎まれました。その背景には、島津藩のお家騒動があります。斉彬が老中・阿部正弘と謀って、阿部に密貿易について調所を追求させ、調所はその責任を取って自害し、遺族も罰せられました。
斉彬は、調所の残した黒糖の収奪体制を継承・強化し、その後に専売の地域に新たに2島を組み入れました。

薩摩藩では、最下層の民衆は人間扱いされなかったのです。
幕末に、「ブラック企業」ならぬ「ブラック藩」の大賞があれば、薩摩藩は過酷すぎる苛斂誅求を理由に、ノミネートされていたことでしょう。
「今の時代に生まれてよかった!」と思うのは、私だけではないはずです。
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薩摩藩の暗黒史 ①苛斂誅求(八公二民の高税率)

郷土を自慢したくなるのは人の常です。かく言う私もそうです。
特に、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎など、加治屋町出身の偉人たちの功績や、富国強兵に成功した名君・島津斉彬の業績を誇りに思っています。そのような輝かしい郷土の歴史が、私が薩摩藩に抱いていた印象の裏付けでした。

しかし、大隅に来てから、史跡の探訪会での見聞や、薩摩藩の民衆支配に関する本から、薩摩藩にはすさましく過酷な圧政があったことを知り、驚きました。また、そのような事実を語ってくれる広角的な視野を持つ知識人が少なからずいることは、私には有り難いことでした。


薩摩藩の本
参考にした書籍

私が知った薩摩藩の圧政の事例をいくつか書いてみます。その目的は、薩摩藩の民衆には、あまりにも悲惨な現実があり、それを耐え抜いてきたことが、広く知らされていないからです。また、薩摩藩の圧政の影響が、今でも多くの県民の考えや行動の基層に残っていると思われるからです。為政者や教育者はそのことを知った上で、適切な指導力を発揮していただきたいものです。

例えば、中村明蔵氏は「薩摩 民衆支配の構造」(南方新社、2000年刊)に、「薩摩民衆の政治・社会参画の歴史をふり返ってみると、そこには、政治への無関心、行政への依存、甘えの構造が生じやすい、深く根ざした素地が見えてくる」と書いています。

私は、いくつかの町興しの企画に関心を持ちウォッチしましたが、地元の人に当事者意識と団結力が乏しく、最後は行政頼みという心根が透いて見えます。これは薩摩藩に植え付けられた「行政への依存、甘えの構造」の体質といえないでしょうか。こちらでは、優れた戦略を持つ強権的・行動的な役所のリーダーがいない限り、町興しは成功しにくいと思いました。今後は、よそ者の若い人にも期待していますが…。


田植えの絵
「外人の見た幕末・明治初期 日本図絵(生活・技術篇)」(株式会社春秋社 1955年刊)に掲載の田植えの図であるが、場所は不明

前置きが長くなりました。
最初に、薩摩藩の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:年貢をむごくきびしく取り立てること)を取り上げます。

薩摩藩の農民は収穫の8割を納税させられました。八公二民の高税率です。当時の全国平均は、四公~五公でした。

薩摩・大隅の地質は、大半がシラスなどの火山噴出物であり、稲作の不適合地でした。先に上げた中村明蔵氏の本によると、一郷当たりの米の収穫量は、畿内五国の32%であったので、農民の手元に残る米の量は微々たるものでした。
その他に、公役(共同の奉仕作業)や年貢以外の納物などもあったので、薩摩藩の農民の負担の重さは計り知れません。ある郷土史家は、当時の農民には生活がなく、生きていくので精一杯であったと言っていました。

なお、原口虎雄著「鹿児島県の歴史」(山川出版社、1973年刊)には、年貢は9割前後、公役は月に10日前後、と書かれています。なお、テレビによく出る歴史家・原口泉は、虎雄の息子です。学者として虎雄は一流です。
松下志朗著「鹿児島藩の民衆と生活」(南方新社、2006年刊)には、原口虎雄の論文に書かれていた、悲惨な農民の姿の文が、次のように引用されています。

「被支配層における換金作物の栽培は、藩権力により、直接に専売過程で吸収されて、藩内市場の拡大、商業資本の台頭を結果しない。生産者たる百姓に於いては商品生産どころか、惨めな強制ないし半強制耕作があったのみで「経営」なる姿の片鱗すらも覗き得ない」

薩摩藩は、藩内の113ヶ所に士族の住む「麓」地区を設けて、農民への監視を厳しくしていたので、農民は一揆も起こせず、困窮の挙句に夜逃げや身売りする者が多かったそうです。

大隅の農民には、さらなる虐げが加えられていました。そのわけは、1036年に大隅に移住してきた肝付氏が、538年間も島津氏と対立した挙句に負けたため、大隅の住民は薩摩藩から被征服民の扱いを受けたのです。当時の農民の悲惨な状況は、大場昇著「評伝 永田良吉」(南日本新聞開発センター、2010年刊)に分かりやすく、書かれています。

奴隷のような生活を長く強制されたため、薩摩藩の多くの民衆の気質が「政治への無関心、行政への依存、甘えの構造」に変わらざるをえなかったのです。

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