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ドライアイを治したい 2. マイボーム腺機能不全にオキュソフトを使ってみた

前回、眼科医からドライアイは治せないと言われたことを書きました。
諦めきれない私は、ネット情報を頼りに、自分は「マイボーム腺機能不全」があるに違いないと考えて、自分でその治療をすることにしました。

「マイボーム腺機能不全」とは、まぶたの縁にある皮脂腺(マイボーム腺)が詰まって、油分を分泌しにくくなるため、涙の蒸発を抑えにくくなる症状で、ドライアイの原因となります。さらに結膜や角膜との潤滑油の働きが悪くなるそうです。

「マイボーム腺機能不全」の対策としては、以下のようなネット情報があります。これだけではありませんが…。
綿棒で押してマイボーム腺から油脂を押し出す
② 目を蒸しタオルなどで温めて、皮脂腺から出にくくなった油脂を出す。
③ オキュソフトで皮脂腺をゆっくりと丁寧に拭く。

まず、①をやってみましたが、ブキッチョな私には、目(角膜)を傷つけるようで怖くなり、断念しました。


あずきのチカラ
②には、「あずきのチカラ」を使いましたが、電子レンジにかけるのが面倒になって、数回やってみて、止めました。後日、再開するかもしれません。


オキュソフト
次に③です。まぶたを綺麗にして(リッドハイジーン)から、「オキュソフト」でマイボーム腺を拭いてみました。朝夕2回行うのが原則ですが、毎朝1回のみとしました。なお、人工涙液ソフトサンティアとドライエイドEXは、これまで通りに随時(日に数回)点眼しました。

「オキュソフト」でマイボーム腺を拭き始めてから、朝の洗顔時に確認すると、1週間後から目ヤニが出なくなったり、出ても微量となりました。
改善はしましたが、まだ完治には至りません。これからもトライを続けます。


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テーマ: 医療・病気・治療 | ジャンル: 心と身体

ドライアイを治したい 1.ネット情報と治療法無しの不思議

私のドライアイ症状は10年以上続いています。
特に冬場は目が痛くなりやすく、市販の目薬を時々さしていました。あとで知ったことですが、防腐剤が入っている市販の目薬は、角膜を傷つけて感染症を引き起こす可能性があるので、ドライアイに使ってはいけなかったのです。

数年前に眼科医にも診てもらいましたが、治療が必要な状態ではないと言われました。

今年になって、朝、鏡を見ると右目に目ヤニが出始めたので、近所の眼科の診察を受けたら、医師から「涙の出が少ないので目の表面に傷が着きやすいために、目ヤニが出る。対策として、人工涙液を点眼しなさい、現在はドライアイを治す方法はない」と言われました。


ネットで調べると、ドライアイには色々の対策や治療法があります。
例えば、粘性を上げて蒸発しにくくした目薬について、市販品や個人の工夫が紹介されています。
油脂を分泌するマイボーム腺の機能不全を治療する方法洗浄綿涙点プラグ挿入術などもあるそうです。

私はパソコンと向き合っている時間が長い ので、目を開けて瞬きの回数が少なくなって、ドライアイになりやすいそうです。


ソフトサンティア
目下、私は人工涙液のソフトサンティアとドライエイド(新ロート)を点眼し、見る時間が長いパソコンのブルーライトを半分にカットしています。これらのためか、以前より、目ヤニが出る頻度は下がりましたが、まだ時々、目ヤニがでます。

それにしても、現在は、私が行った病院のように「ドライアイを治す方法はない」と言われるのが普通なのでしょうか?
患者としては、原因を調べて、その治療をして、少しでも良くなりたいのです。
これからもこの旅は続きそうです。


テーマ: 健康 | ジャンル: 心と身体

信時潔の交声曲「海道東征」に魅せられて

このブログで、はじめて音楽について書きます。私は、気分転換にボーズのウェーブシステムで音楽CDをよく聴いています。

2015年3月16日の産経ニュースの【正論】に、都留文科大学教授・新保祐司氏の文章「信時潔に「建国」への思い馳せる 深刻な日本人の「国家意識」」が載りました。

その中に、次のように神武天皇の御東征を題材にした交声曲(カンタータ)「海道東征」が紹介されていました。
交声曲とは、オーケストラ伴奏付きの声楽曲のことです。

「日本の建国に関する歴史を学んだことがない」国民が約4割いるからといって、2月11日が「建国記念の日」であることを覚えさせたり、神武天皇の事績を「史実」であるかどうかなどといった点を気にしながら教えたところでどうなるものでもない。「フィンランディア」を、あるいは「クッレルヴォ」を聴きながら、『カレワラ』の神話の世界に遠く思いを馳(は)せるように、日本の『古事記』や『日本書紀』、あるいは『万葉集』の遥(はる)かなる精神に遡(さかのぼ)ることが大切なのである。

フィンランドには、シベリウスという作曲家が生まれて、民族の魂を19世紀に蘇(よみがえ)らせた。フィンランドという国は、実に幸福であった。では、日本には、シベリウスのような作曲家が出現したか。幸いにして、現れたのである。それが、私が度々触れている「海ゆかば」の作曲家・信時潔(のぶとき・きよし)に他ならない。そして、北原白秋の作詞したものに信時が作曲したのが、神武天皇の御東征を題材にした交声曲「海道東征」なのである。



海道東征CD_611KB

この文章に触発されて、私は交声曲「海道東征」を、最初はYouTubeで聴いて、感銘を受けました。その後、CD(オーケストラ・ニッポニカ 第2集)を購入して、聴いています。

荘重で神々しい交声曲です。何度聴いても飽きがきません。
北原白秋の作詞で、馴染みのない漢字を織り交ぜた文語で書かれているので、私には歌を聴くだけでは理解できない内容でした。しかし、解説書にある詞とその現代語訳を読むと、神武天皇の御東征の壮大なストーリーが分かります。
そして、この交声曲を聴きながら、建国にまつわる古代の人々の思いを想像しつつ、自分を鼓舞する力を得ています。

日本にも、シベリウスのような民族の魂を鼓舞する神話を題材とした作曲家がいたということは有り難いことです。今後、建国記念日には、この曲を演奏したり放送で流したりして、国内に広めていただきたいものです。

私が入手したCDは、現在は品切れ中ですが、今年、新しく2つの「海道東征」のCDが出ました。この曲に関心を示す人が増えたためでしょう。

永く埋もれていた名曲「海道東征」を発掘された新保祐司氏に感謝しています。


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鹿児島県鹿屋市にも「進駐軍が上陸」

私が鹿屋に移住した時に、進駐軍の海兵隊が鹿屋に上陸したことを初めて知り、驚きました。鹿児島湾からも進駐軍が上陸したのです。


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佐多街道68号線沿いの高須町の金浜海岸近くに、地元の故山下修二氏が中心となって建てられた記念碑「進駐軍上陸地の碑」と関連する和歌などを彫った石柱があります。これらを鹿屋市ではなく、地元の有志が私費で作ったということにも驚きました。


進駐軍上陸地の石碑
記念碑には、次のように書かれています。
「此所(ここ)は、昭和二十年(一九四五)九月四日、太平洋戦争終結(八月十五日)間もない時に、日本本土で最初に、進駐軍アメリカ海兵隊主力 二五◯◯人が、この「金浜海岸」に上陸、世界が注目した地です。
その時 我が古里に在りし者、出でし者、全ての「高須町民」が味わった 万感胸に迫る悲痛な思いは、他に比べることのできない 世紀の一大痛恨時でありました。
私どもは、このことを末長く後世に伝える為に、ここに決意を新たに「反戦平和」の願いを込めてこの碑を、建立するものであります。
平成十三年(二◯◯一)三月
金浜「進駐軍上陸地の碑」建立期成会 高須町内会」

昭和20年9月3日に連合国進駐部隊の先遣隊14名が輸送機2機により鹿屋飛行場に、翌日4日に主力部隊の多勢が空路と海路から鹿屋に来ました。


昭和の陣痛と奥付


当時の地元の状況を、高須国民学校の校長であった新弘(しんひろむ)氏が、「昭和の陣痛 ― 進駐軍 高須金浜上陸の記録 ―」という本に克明に書き残しています。新弘氏は、占領軍が鹿屋に進駐する直前に、進駐軍との間にいかなる問題が生じても、大局を誤らずに的確な判断を下せる校長として、35歳という若さで白羽の矢を立てられて、高須国民学校に着任しました。

平成26年に、その「昭和の陣痛 ― 進駐軍 高須金浜上陸の記録 ―」が高須史談会の上原義史氏により復刻されました。この本によりますと、進駐軍の2500名が上陸する前日の9月3日の夕方には、ほとんど全家庭が親類縁者や知人をたよったり、山に避難して、高須の町は無人の町になりました。翌日4日早朝から、海が見える山の木陰から、新弘校長が進駐軍の艦船の動きを観察した記録が残されました。


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湾内・高須沖にたくさんの艦船が来て(他の資料によると21隻)、金浜に乗り上げた揚陸船は3隻。最初に船底からブルトーザーが下ろされて、海岸から県道へ登る崖(高さ約10m)に2時間位で自動車道が開通しました。当時の日本人の常識では、何日も要する難工事であったそうです。米国の物量と科学力に裏付けられた戦力に圧倒されたと、この本には書いてあります。

私の母は、当時、大姶良にあった青年学校の教師をしていました。たまたま9月3日は夏休みの日直であったので、鹿屋の市街地から高須に比較的近い大姶良に向かって歩いていたら、上陸する進駐軍を恐れて避難する群衆が、道の向かい側から荷物をリヤカーや肩に積んで押し寄せてきて、自分一人が反対方向に歩いていたそうです。電柱などのあらゆる所に、当時の鹿屋市長・永田良吉名で「進駐軍は住民に危害を加えないので、逃げるに及ばず」という内容の張り紙があったそうですが、実際は警備隊の勧めで逃げた人が多かったようです。

熱意のある地元の人により、「昭和の陣痛 ― 進駐軍 高須金浜上陸の記録 ―」という本や「進駐軍上陸地の碑」が残されました。幸いにも、自分で考えて、行動する方がおられたためです。今の鹿屋市民は、この人達に感謝せずにはいられません。

テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報