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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(1)

大隅半島には、古事記と日本書紀に書かれている建国神話の初期の旧跡や神社がたくさんあります。不思議なことに、それらは全国的にはほとんど知られていません。私は大隅への新参者ですが、厚かましくも主な所をご紹介します。

吾平山陵(あいらさんりょう)
正式には、吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)と呼びます。初代天皇である神武天皇のご両親のウガヤフキアエズノミコト(天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊)とタマヨリビメ(玉依姫)の陵墓です。1874年(明治7年)に明治政府により、可愛山陵、高屋山上陵とともに神代三山陵の一つとされました。


吾平山陵の説明板
写真1 吾平山陵の説明板


現在、宮内庁書陵部が管轄し、桃山陵墓監区 吾平部事務所があります。
昭和10年に昭和天皇、昭和37年に皇太子殿下当時の今上天皇および皇后が参拝されました。


吾平山陵3
写真2 参道の横にある宮内庁書陵部 桃山陵墓監区 吾平部事務所


吾平山陵は「小伊勢」といわれるように、伊勢神宮に似た景色とおごそかな雰囲気があり、参道を歩き参拝すると心が洗われ、神々しい気持ちになります。
正月には多くの初詣客が訪れます。春は桜の名所としても知られており、秋には紅葉も楽しめます。


吾平山陵1
写真3 吾平山陵の入り口付近


参道の回りは、高い広葉杉(こうようざん)の林からなっています。途中に、伊勢神宮内を流れる五十鈴川と同じような趣で姶良川(あいらがわ)が流れており、御手洗場(みたらしば)が設けられています。


吾平山陵2
写真4 広葉杉の中の参道と姶良川の御手洗場


参道の行き着いた所で、姶良川を前にして、向かいにある鵜戸山の岩屋(鵜戸岩屋)に向かって参拝します。岩屋(洞窟)の中には大小の2つの塚(御陵)があるそうです。


吾平山陵4
写真5 御陵がある岩屋


鵜戸神社
ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリビメ、ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)、イナヒノミコト(稲飯命)、ミケイリノノミコト(三毛入野命)、カムヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊、神武天皇)の6柱を祀ります。かつては鵜戸六所権現と称されていました。もともとは吾平山陵の奉拝所東側の高所にありました。災害で大破し、明治4年に吾平山陵の北方6キロメートルの八幡神社境内(現在の吾平総合支所の隣)に仮に遷座しましたが、その後に帰社しませんでした(八幡神社は別の場所に遷座)。


鵜戸神社
写真6 鵜戸神社


飴屋敷跡(あめやしきあと)
飴屋敷跡は、吾平町鶴峰地区にあります。
飴屋敷跡に関する伝説を、鹿屋市の市報の情報をもとに書くと次のようになります。海の神様で本当の姿は大きな「わに」であるトヨタマヒメは、夫の山幸彦に、「出産の時は本来の姿に戻らなければなりません。絶対に見ないでください」とお願いしました。しかし山幸彦は、約束を破ってのぞいてしまいます。心外に思ったトヨタマヒメは産んだばかりのウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の尊父)を残し、海に帰ってしまいました。乳飲み子を残された山幸彦は悲嘆にくれました。そこに一人の老婆が現れ、母乳の代わりに飴を練り、その飴のおかげで成育できたそうです。この飴屋敷跡はその飴を差し上げた人の住宅跡と伝えられています。
飴の原料であるお米がたくさん採れそうな田んぼ地帯の中にあります。


飴屋敷跡
写真7 飴屋敷跡


桜迫神社と神代聖蹟西洲宮
肝付町宮下(みやげ)の宮富小学校の西隣に、桜迫神社(おうさこじんじゃ)があります。桜迫神社には、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の尊父)が祀られています。ここはウガヤフキアエズノミコトの宮居である西洲宮(にしのくにのみや)跡で、神武天皇の生育の地と伝えられています。


桜迫神社
写真8 桜迫神社


境内の南西側の雑草が生い茂った空地に、「神代聖蹟西洲宮」の石碑があり、昭和15年に「神代聖蹟」として鹿児島県知事の指定を受けています。


神代聖蹟西洲宮の石碑
写真9 神代聖蹟西洲宮跡


宮下は水上交通の要となっていて、近くの肝属川には、昔、船着場があったそうです。今よりも火山活動による火山砕屑岩の堆積が少なくて、低地が広がっていた地形であったと推測されます。


神武天皇御降誕傳說地
桜迫神社から歩いて5分くらいの場所で、肝付町宮下の肝属川の土手の下に「神武天皇御降誕傳說地」の石碑があります。石造りの低い塀で囲われて綺麗に整備されています。もともとは河川敷にあったが石碑の下部は陥没して埋もれていたそうです。堤防ができた際に、地元の人が私費で現在の位置に移設し、整備しました。


神武天皇ご誕生伝説地
写真10 神武天皇御降誕傳說地


イヤ塚
肝属川の古い渡船場に当たる水上棚は、玉依姫ここを通過のとき俄かに御産気を催させ給うて、御産屋が営まれ神武天皇が御降誕遊ばされた所と伝えられています。
胎児を包んでいた膜や胎盤などを胞衣(えな)といいますが、地元の方言でイヤといいます。イヤ塚は、神武天皇がお産まれになった時の胞衣を埋めた場所です。神武天皇御降誕傳說地の石碑の近くにある民家の、竹の生垣の中にあります。地元のご老人に場所を尋ねたら、案内してくださいました。


イヤ塚
写真11 イヤ塚


なお、この地区名を「イヤ前」といい、この地方最古の墓地と言われている「イヤ前墓地」も近くにあります。

神武天皇御発航伝説地
肝属川が志布志湾に出る河口近くの両側の高みに、向かい合うように「神武天皇御発航伝説地」の石碑があります。一つは、東串良町柏原にある戸柱神社に至る階段を登った右側の境内にあります。神社の祭神はスサノオノミコト(須佐之男命)、ヤチマタヒコ(八衢比古神)、ヤチマヒメ(八衢比売神)の3柱です。


柏原_戸柱神社
写真12 東串良町柏原の戸柱神社


柏原の神武天皇御発航伝説地石碑
写真13 東串良町柏原の神武天皇御発航伝説地石碑


もう一つは、肝付町波見の戸柱神社横の長い階段を登り切った権現山斜面の、大隅花崗岩の上にあります。神社の祭神はサルタヒコ(猿田毘古神)、オオナムチ(大己貴神、大国主)、オオワタツミ(大綿津見神)など8柱です。


波見の戸柱神社と権現山の登り口
写真14 肝付町波見の戸柱神社と権現山の登り口


波見の神武天皇御発航伝説地石碑
写真15  肝付町波見の神武天皇御発航伝説地石碑と、下に見える肝属川の河口付近


なお、神武天皇が日向国を出立なさった当時の日向国は、薩摩国・大隅国・日向国全部を含んでいました(西暦713年に大隅国として分立)。

大川内神社
ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊、山幸彦)、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリビメ、カムヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊、神武天皇)、アヒラツヒメ(吾平津媛、阿比良昆売命)の5柱を祀っています。吾平山陵から南方約4キロメートルの神野(かみの)地区の大川内にあります。
神武天皇の皇后である「主神アヒラツヒメ(吾平津媛)は、神武東征に御子手研耳命(タギシミミ)を随伴させ、みずからは吾平の地にとどまり、ひたすら夫の君やわが子の御東遷・武運長久を御祈りになったという。」と説明板に書いてあります。


大川内神社
写真16 大川内神社


以上の旧跡と神社を巡ると、建国初期のストーリーが現実味を帯びて想起され、神々の生活の断片が頭の中で再現されてきました。

建国神話の解釈や関連場所の比定については、確かにいくつかの説があります。
これだけの建国神話の旧跡や神社があり、先人達が大切に守ってきたことを考えると、大隅半島は建国神話の始まりの聖地であることを、声を大にして言うべきであると思います。

しかし現在、吾平山陵を除いて、訪れる人はきわめて少なく、大隅半島の人々の関心も薄れているようで、残念に思います。
私の祖父の時代には、小学校の遠足で必ず訪れたという「神武天皇御降誕傳說地」の場所について、ご存知でない大隅の人が余りにも多いことに、私はショックを受けました。次回に、私の願いを書きます。

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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

自分を裏切らない生き方を学べる「森田療法」

私が自分の神経症のような精神状態に気付いたのは、中学校に入学した年でした。授業中に教師から指名されて、立って本を読むと声が震え始めて、頭の中がパニック状態になり、それからは、予期恐怖で授業に身が入らなくなりました。

その後、祈りの態度をしてから物事を始めないと気が収まらない祈祷恐怖、手を頻繁に洗う不潔恐怖、人前に出ると赤面する赤面恐怖、他人の目が見られない視線恐怖、字を書くときに手が震える書痙など、多くの神経症の症状にとりつかれました。

自分に自信がなくなり、引きこもりがちで、消極的で、他人と付き合わなくてもすむ仙人のような修行僧にあこがれたりしました。このような精神状態が大学入学後も続き、暗くつらい青春時代でした。

齢を重ねた今思うと、このような精神状態は、多くの日本人に大なり小なり、ありえます。当時は、自分に特有なもので、これは異常であると思い込んでいました。

大学に入学した年に、たまたま入った本屋で水谷敬二氏が書いた、一般向けの森田療法の本(新書版、タイトルは失念)をめくってみて、その内容に雷に打たれたような衝撃を得ました。そのときに、森田療法を学べば、自分の神経症が治り、精神的に落ち着いた世界に入れるとの確信を得ました。

それからは、森田療法の本を手当たりしだいに集めて、読み始めました。それにより、自分の本心に気付くことができ、自信がない「あるがままの自分」を受け入れて、虚勢を張らずに生きる道を目指すようになりました。なお、自分の本心は、自分では気づきにくく、頭でひねくりだした考えを本心とみなしやすいものです。

森田療法の本を読んで、多くの人に好かれたいのが私の本心で、以前にあこがれた修行僧の仙人のような世界は、自分の本心とは対極にある「誤った考え」であることに気付かされました。また、ウソを付くことも思いやりになることがあることも知りました。私の神経症は、私の頭が「〜しなければならない」という考えに「とらわれて」、自分でつくった病でありました。

森田療法の本を読んで、自然な心のあり方と目的本位の行動を重視する考え方を学ぶだけで、私の神経症の多くの症状の悩みが解消しました。ただし、森田療法の本にも書いてありますが、人前で字を書くときに手が震える書痙だけは、容易には治りません。必要に迫られて、震えながら書くしかありません。

森田療法に関する本はたくさん出ています。
患者が体験や思いを述べて、森田正馬(まさたけ、通称:しょうま)先生がコメントした記録の「神経質問答」が読みやすくて、書いてある具体的な事例により、硬直した自分の考え方に気付かされ、治療法の核心に触れやすいと私は思います。
専門医の他に、森田療法で救われた有名な学者(辻村 明、渡辺利夫)や経営者(岡本常男)なども書いています。


神経質問答
写真1.神経質問答(旧版)


作家で精神科医の箒木蓬生氏が、森田療法の核心的言葉をわかりやすく説明した「生きる力 森田正馬の15の提言」を上梓しています。これを読むと、森田療法のエッセンスとともに、森田正馬の生き方と生涯も知ることができます。


生きる力
写真2.生きる力 森田正馬の15の提言


森田正馬は世界に誇れる精神療法を確立した、独創的な医学者だと思います。私は、神経症ではない人にも、「生き方の指南役」や「実用的な心理学」として、森田療法を学ぶことをお勧めしたいです。

なお、森田療法により神経症に悩む人をサポートするNPOとして、「生活の発見会」があります。同じ悩みを体験した人が学習や実践を通して、指導や支援をしてくれます。


地元の要請で開設された唯一の「国立ハンセン病療養所」

大隅半島の鹿屋市には、星塚敬愛園という国立ハンセン病療養所があります。全国には、ハンセン病療養所が13ヶ所にありますが、星塚敬愛園のみが地元の誘致運動により開設されました。それほど、当時は全国各地で敬遠されていた施設でした。しかし、鹿屋市だけは例外でした。


星塚敬愛園の入口
写真1 星塚敬愛園の入り口


星塚敬愛園
写真2 星塚敬愛園の遠景


ハンセン病は接触しても極めてうつりにくい病気ですが、昔は「らい」と呼ばれて、手足や顔が変形して、他人にうつる病気とされて、恐れられていました。
万一、感染しても発病することは極めてまれで、今では薬で確実に治ります。

当時、鹿児島県には全国の約1割もの多くのハンセン病患者がいて、家族から見放されて、寺の床下や馬小屋などに隠れて住んでいたり、放浪したりして、過酷な生活を送っていました。

国立ハンセン病療養所の誘致運動をしたのは、鹿屋出身の若手代議士であった永田良吉です。「政治は愛なり」をモットーとする良吉は、竹槍を持った地元住民の激しい反対運動にもひるまず、反対派に長期にわたり忍耐強く、療養所の必要性の説明を続け、昭和10年10月の開園にこぎ着けました。

良吉の子供の話では、ハンセン病患者が自宅に訪れると、良吉は明るい南側の廊下に患者を招いて、茶菓子を出して話を聴いていたそうです。また、ツルマツ夫人は、夕食が余ると、夜、患者が隠れ住んでいる所に食物を運んで提供していたと聴きました。当時では稀有な、患者の境遇と気持ちに寄り添える、慈悲心の深い夫婦でした。

星塚敬愛園のホームページの園長挨拶に、「園名は、地名の星塚原と、西郷隆盛が好んだ「敬天愛人」からとったものです。」「入園者数は昭和18年が最多で1347名でしたが、平成27年4月現在では162名となっています。平均年齢は84歳を超え、平均在園期間は約55年と、長期間この園で暮らしてきた高齢のかたがたが中心です。」とあります。

現在では、園外の人との交流の機会が多くなりました。
星塚敬愛園で、毎年、通常は8月上旬に開催される「夏祭り納涼大会」には、有名な歌手が来ることもあって、大勢の人が来園して、賑わいます。写真3は、昨年、私が撮ったものです。


星塚塚敬愛園の夏祭り
写真3 星塚敬愛園の「夏祭り納涼大会」


大隅が生んだ伝説の政治家・永田良吉の人生や業績については、大場昇著「評伝永田良吉 ―最後の井戸塀政治家―」に、よくぞここまでと思うほど、広範に調べられた事実が、大きな字の分かりやすい文章で書かれています。私は、この本で、大隅の近世の歴史も学び、苦難が続いた住民生活を知りました。


評伝永田良吉
写真4 大場昇著「評伝永田良吉 ―最後の井戸塀政治家―」


鹿屋市役所の正面玄関の横には、永田良吉の銅像があります。


永田良吉の銅像・銘板
写真5 永田良吉の銅像と銘板


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「荒平石」による美しい景観と採石場跡

大隅半島を車で走ると、天然石の塀がよく見られます。この石の多くは、荒平石と呼ばれています。関東では白っぽい大谷石でできた塀が多いですが、荒平石は大谷石より緻密で、赤みを帯びています。1つの石材の寸法も大きく、人力では持ち上げられそうにありません。

大隅半島では、昔の武家屋敷に、荒平石の塀がよく使われていました。倉庫の壁や橋の石材としても使われていました。荒平石の建造物は重厚感があって、気品と落ち着きを与えています。できた当時の町並みは、きっと素晴らしかったことでしょう。


荒平石の塀2
写真1 荒平石の塀


荒平石塀1
写真2 荒平石の塀


荒平石の倉庫
写真3 荒平石の旧倉庫


「ニッポン景観論」で、最近の日本の景観の酷さに警鐘を鳴らしているアレックス・カー氏が、昔の武家屋敷の佇まいを見たら、きっと絶賛することでしょう。
この本には、日本の素晴らしい伝統的な景観が壊されていく様子と、美しい景観を取り戻すための提言が、カラー写真で分かりやすく、ユーモアにあふれた文章で書かれています。建築設計、都市計画、街づくり、町興しに関係している方には、是非読んでいただきたい本です。話が横道にそれて、申し訳ありません。戻します。

荒平石の岩質は溶結凝灰岩です。鹿児島県内の各所に分布している溶結凝灰岩は、石材として使われ、小野石、花棚石、河頭石などのように、産地の地名を冠して名付けられています。荒平石もその一つです。

溶結凝灰岩は、火山から噴出した高温の火砕流堆積物が、熱と重みで溶結したものです。空気で冷やされる火砕流堆積物の上半部と、地面で冷やされる最下部は溶結しません。これがシラスです。溶結凝灰岩とシラスは、見かけは違うが元は同じです。

荒平天神から2kmくらい南の68号線横に、白いシラス層の下に溶結凝灰岩(荒平石と同じ岩質)が見える露頭がありました。私には、この露頭のシラスと溶結凝灰岩がほぼ同一時期に堆積したものかどうかは分かりません。


シラスと溶結凝灰岩
写真4 シラス層の下に溶結凝灰岩がある露頭


荒平天神下の溶結凝灰岩2
写真5 荒平天神の下にある赤い溶結凝灰岩の岩


昭和40年に地質調査所が発行した「5萬分の1地質図幅説明書 鹿屋(鹿児島-第95号)」には、「荒平駅から南東方に延びる道路に沿い800~2,000mの間にほとんど連続して40余カ所の採石場があり,阿多熔結凝灰岩を採取している」と書かれています。阿多熔結凝灰岩は、錦江湾内の阿多カルデラからの火山噴出物と言われています。

そこで、その採石場跡を探しに行きました。錦江湾に面している高須と古江のほぼ中間にあり、荒平天神の500mくらい南に天神町があります。天神町の家々の土台、壁、擁壁などには、荒平石がたくさん使われています。そこで会った80歳を超えたご老人に、荒平石を採掘していた場所を尋ねたら、東の山を指差して、あの岩肌が見える所(写真6の左側)が、昔の採石場の一つであると言われました。


天神町集落から見た旧採石場
写真6 老人が指差した採石場跡の露頭


20年くらい荒平石の採掘作業に従事されたそのご老人から、荒平石にまつわる話をうかがいました。ご老人が採掘していた当時は、記憶では50人位の人が働いていたが、コンクリートブロックが出回り始めてから、採石場の経営が成り立たなくなり、採掘をやめたそうです。戦時中は採石場近くまで引き込み線が敷設され、空爆で開いた穴を埋める石として、荒平石を貨車で搬出したことがあったなどの話もされました。

ご老人に、昔の採石場への行き方を教えていただいたので、集落の北東側を出てから右折して、谷間の細い登り道を車で南東方向に進むと、岩肌が見える崖が何箇所かありました。この辺りが昔の採石場であったに違いありません。しかし、草木が多くて崖(露頭)には近寄れず、遠くから見るしかありませんでした。ただ1箇所は、車で凹凸のある細い道を上って、崖の20mくらい手前まで近づけたので、そこで写真を撮りました。そこには、朽ち果てて倒れた建物と荒平石の破片があり、地面には赤い荒平石が露出していました。


旧採石場の露頭1
写真7 荒平石の採石場跡の崖


旧採石場に上る道
写真8 赤い荒平石が露出する採石場跡に上る道


旧採石場の露頭2
写真9 昔の荒平石の採石場跡の崖(養鶏場の白い屋根の奥)


旧採石場の露頭3
写真10 昔の荒平石の採石場跡の崖


大隅の石の文化の発祥地とも言うべき荒平石の採石場跡に立ち、往時の採石場の賑わいをしばし想像しました。


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「ノキシノブ」が急性腎炎に効いた話

友人を鹿児島市内見物の案内していた時に、その友人が街路樹の表面に生えている緑色の細長い葉のようなものを指して、「僕はこのノキシノブにより命が救われた」と言いました。私は、その時に初めて、ノキシノブという植物を知りました。

ネットで調べると、ノキシノブは、ウラボシ科ノキシノブ属に属する常緑のシダの一種で、北海道南部以南の日本各地に分布するそうです。私が関東にいた頃に、ノキシノブを見た記憶がありません。多分、数も少なく、見逃していたのでしょう。

鹿児島県内の古い立ち木には、ノキシノブがよく生えています。古い木の表面に苔が付いていることが、ノキシノブの成長に適しているのでしょうか。気をつけて見回すと、あるわ、あるわ、あっちにも、こっちにもと。古い屋根や石垣など、色々なところにノキシノブが見られます。


ノキシノブ1
写真1 庭木に生えたノキシノブ


ノキシノブ2
写真2 駐車場の木に生えたノキシノブ


擁壁に生えたノキシノブ
写真3 擁壁に生えたノキシノブ


屋根瓦に生えたノキシノブ
写真4 屋根瓦に生えたノキシノブ


その友人から聴いたことと、後日手紙で確認した内容をまとめると、こうでした。「小学生の低学年の時に急性腎炎になり、排尿が困難になった。病院が出してくれた薬の効果がほとんどなく、ついに医師もお手上げ状態になった。困り果てた母親が、ノキシノブに利尿効果があることを聞きつけて、民間療法の薬草に頼ることになった。木から採取したノキシノブを一週間ほど乾燥させた後に、ひとつまみ(10グラム程度)を雪平鍋で0.5リッター程度に煎じて、日に数回分けて飲んだ。1、2週間ほどしたら、小水の量が増えてきて、次第に蛋白などの混入量が減って、見た目にもきれいになった。1ヶ月ほど継続したら急性腎炎が完治した。」

さらに、「ノキシノブにビワの葉(2~3枚の生葉でよい)やトウモロコシのひげを少量(5グラム程度)加えて、同時に煎じるとなお良いようだ。なお、同じシダ類のヒトツバやミツデウラボシなどにも、ノキシノブと同様の利尿作用があると記憶している。」ともありました。

この話を母にしたら、それが母の友人の仲間に伝わり、排尿困難だった人から母に電話があり、ノキシノブを煎じて飲んだら排尿しやすくなったと礼を言われたそうです。その人は古井戸からノキシノブを採取して使ったそうで、昔はノキシノブを淋病の薬として使っていたと、近所の老人から聴いたことまで、報告してくれたそうです。

ノキシノブが、急性腎炎の人すべてに効くということは考えにくいですが、このことを知っておくと役立つことがあるかもしれません。

医者が見放した患者の病気に、薬草を使った民間療法が劇的に効いたこの事例を知ってから、私はノキシノブを見つけると特別の感慨を催し、必ずその友人のことを思い出します。

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