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大隅の偉人:小野勇市

鹿児島県では薩摩半島の偉人に関する本は無数にありますが、我が郷土の大隅半島では偉人の本は極めて少ないです。例えば、薩摩では西郷隆盛、大久保利光、黒田清輝、小原國芳、海音寺潮五郎など。

これには歴史的背景があって、大隅を長く治めていた肝付氏が薩摩の島津氏に制服されて、大隅の歴史的資料が消え、各種の圧迫があったためと思われます。
しかし、石碑などから大隅にも多くの偉人がいたことは確かです。残念ながら詳しい情報が残っていないので、伝記は書けません。

比較的近い過去の偉人であれば、遺族や近親者の思い出話が聴けるので、伝記が残せることがあります。
今回、黒木次男氏が、明治から昭和初期に活躍した小野勇市氏の功績をまとめた『不屈の挑戦』が出版されました。郷土の偉人を探し求めている小生には、うれしい出版です。
小野勇市氏は18歳の若さで、水のない広大な笠野原台地に水道を引く決意をして、難工事の末に竹管水道を敷設し、更に日本一の耕地整理までしました人です。
本と小野勇市_3連結

笠野原台地は、厚いシラス層からなる約6300haの広大な台地です。藩政時代から生活用水を得るために、台地のあちこちに生活用水用に深井戸が掘られました。文政年間から天保年間(1818年~1843年)の頃です。井戸の深さは30~83mですから、一人で水を汲みあげることはできません。その後のかんがい事業は進みませんでした。
飲水は遠方から馬で運んだり、深井戸から牛馬で縄を引かせて汲み上げていました。風呂は、井戸のある裕福な家の手伝いをしながら、「もらい風呂」をする人が多かったそうです。
牛に引かせた昔の写真_文字入り2 (1)

小野勇市氏は明治16年(1883年)に、高隈村大黒(今の鹿屋市下高隈町大黒)に生まれました。18歳の時から水を集落まで引くという事業をまわりの人に語り、技術的な対策の勉強を続けました。

枦場に移り住み、水の苦労を感じていた同じ考えの岩元甚吉氏と出会い、明治34年(1901年)に大堀方限(町内会)の総会に、竹を用いた水道の案を諮り、48戸の同意を得ました。苦労して人を集めて、明治34年に孟宗竹3,000本をつないで、難工事の末に山下から枦場まで8km水を引きました。竹の節抜きは、松の木に竹を立て、上から鉄棒を落として節を空けたという。竹のつなぎが外れないように、見回りもしたそうです。
まわりから絶対不可能と言われた難事業をやり遂げました。竹管水道は笠野原水道ができる昭和2年(1927年)まで使われました。
不屈の挑戦4_800KB

その後、串良村の中原菊次郎氏や鹿屋町の森宗吉氏などの協力を得て、鹿屋町、串良村、高隈村の3町村で笠之原水道組合と笠之原耕地整理組合を結成し、昭和2年(1927年)に全域に通水しました。
水道敷設事業が終わってから、昭和2年から耕地整理事業が本格的に始まり、昭和9年(1934年)に完成しました。
不屈の挑戦6_文字入

その後、高隈ダムができて、日本初の国営の畑かん事業が順調に進んだのは、耕地整理が既にでき上がっていたからでした。

小野勇市氏は28歳で村会議員に推され連続8回議員を勤め、任期中の昭和14年(1939年)4月28日に57歳で他界しました。

小野勇市氏は子供の頃から地域に一番必要なことと、その対策のストーリーを考え続け、同じ考えを持ち実行力のある協力者を徐々に増やして、地域住民を説得して、まわりから絶対不可能と言われた難事業をやり遂げました。この話は、地域おこしの要諦を教えてくれます。

黒木次男著『不屈の挑戦』は、鹿屋市役所売店で販売(650円)しています。写真が豊富で読みやすい本です。
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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

堅牢で優美な石橋の運命は?

1 大園橋について
鹿屋市祓川町にある「大園橋」は、我々が国道504号を通る際に美しい姿を楽しませてくれる、珍しく貴重な文化財です。明治37(1904)年に建造されてから豪雨などにも約120年間耐えてきた歴史的な建造物です。
大園橋21_800KB

橋の両端の親柱には、漢字と変体仮名で橋の名前と竣工年月が彫られています。
石に彫った文字

大園橋から見た上流側と下流側は、以下のような景色です。
大園橋の上流と下流_文字入

中央の橋脚には、流木が引っ掛かりにくいように凸部(水切り)が作られていましたが、その上部と前部の石が流失していることも知りました。
橋脚の鼻2_文字入

石材加工の専門家の川村忠氏から、橋の石材の大半は鹿屋市高須産の荒平石(阿多溶結凝灰岩)であり、優れた技術によりできた堅牢で貴重な建造物と聴きました。明治時代に鹿児島湾の近くの高須から内陸の祓川まで、多量の荒平石を馬車などで運んで、匠の技を持つことで有名であった伊敷(鹿児島)の石工達が橋を組み立てたと伝えられています。伊敷ではなく、小野と書かれた本もあります。

鹿児島市の甲突川には11の石橋が架けられていました。河川改修で次々と撤去され、今は上原橋しか残っていません。以下の写真の西田橋などの五石橋は、肥後の名石工と言われた岩永三五郎(1793~1851年)の指導で建造されました。なお、岩永三五郎は天保11(1840)年に、47歳の時に薩摩に来ました。
大園橋を建造した伊佐の石工達は、岩永三五郎の指導を受けた弟子と考えられます。
甲突川の西田橋

石橋が多い熊本から大園橋の調査に来られた熊本大学の山尾敏孝名誉教授(土木工学)と尾上一哉会長(石橋復元修理会社)から、現地でお話を伺いました。建造されてから117年経過した石橋で、これほど変形が少ないものは稀で、大園橋は高度な技術で造られたものと知りました。

明治37(1904)年に大金を使って祓川に立派な石橋を造った理由は何であったのでしょう。残念ながら、大園橋の建造当時の記録が見つからないので、推測するしかありません。中祓川の町内会長から聴いた話では、昔は鹿屋で最も納税額が多かったのが祓川地域であったそうです。農業や林業が盛んで、物流の要衝であったのかもしれません。
大隅史談会の『大隅』第48号(2005年)に掲載されている唐鎌祐祥氏による”鹿屋市文化遺跡地図(二)「祓川町」”には、旧藩時代に鹿屋に3ヶ所の役所があり、その1つが祓川の大園にあった国司ドン(ドンは神あるいは神聖視する所に付ける)にあり、「明治中ごろまで、上納米はここに集められ、高須に運ばれた。」と書かれています。恐らく、そのように重要な場所であったので立派な石橋を建造したのでしょう。

2 大園橋と水害問題
昨年7月の豪雨で肝属川に架かる大園橋に流木が引っかかり、川の近くの民家9戸が床上浸水した原因になったとして、地域住民が大園橋の撤去か移設を鹿屋市に要請しました。それを受けて市では、市指定有形文化財である大園橋の撤去の検討が始まるとの新聞報道がありました。鹿屋市文化財保護審議会で、大園橋の文化財としての価値を審議し、仮に文化財指定解除となれば、市は防災の観点から大園橋を撤去するようです。

木原安妹子著『里の石橋453 訊け!先人の槌音』(南方新社)によりますと、昭和59年に建設省大隅工事事務所が「大雨の時、雑木やゴミが橋にひっかかり、水があふれる恐れがあるとして、管理者の県鹿屋土木事務所に大園橋撤去を要請しました。しかし地元の人達の反対で、計画が撤回されました。
その後、大園橋の永久保存を目指して地元の人達は、大園橋の文化財指定を訴えましたが、県の態度は固く前進がありません。そこで鹿屋市に訴えました。市は橋を含む旧県道136mを県から払い下げてもらい、「市道」に変更しました。そして、ついに、昭和63年10月4日、大園橋は市の有形文化財に指定されました。

このように、今から37年前には、地元の人達の大園橋撤去反対の運動があったのです。その時には、昨年浸水した川の近くには住宅がなかったものと推測されます。
熊本大学の山尾敏孝名誉教授のお話によりますと、この浸水地域には川の堤防がないので、この橋の設計時には洪水の時の遊水地とみなされていた可能性が大きいそうです。

大園橋の約10m下流には、国道405号の橋があります。この橋は大園橋より更に低いので、大園橋を撤去したら、県道の橋に流木等が引っかかるなどして、洪水の危険性は少しも改善されません。

洪水対策は数多く考えられます。昔のように大園橋の上流に流木を止める杭を数本並べて設置する、バイパスの水路を造る、高い堤防を築く、下流の川の隘路を広げる、約300m下流にあるコンクリート製の井堰を可倒式にする、川底を定期的に浚渫する等々です。

今回のような災害問題が起きると、人命と文化財のどちらが重要か、というような二者択一の単純な議論にしたがる困った人がいるものです。また市側としても、再度洪水が生じた場合の住民からの抗議を心配して、安易な撤去を選択しがちです。しかし、声の大きな一部の地域住民の声を重視するのではなく、本来は多くの地域住民の本音と一般市民の多様な意見や提案を聴取すべきであり、洪水対策と文化財のあるべき姿を忍耐強く求めていただきたいと願っています。
個人的には、今では建造できない堅牢で美しい石橋の大園橋を撤去しないで、永久保存する知恵を鹿屋市が出していただきたいと切望しています。それができる有能な人材がいるはずです。

3 その他
大園橋の下流側にある池田病院の東側の駐車場の近くに、木造の「中原下橋」があります。橋脚はコンクリートですが、その上は木製で、風情のある橋です。大園橋を見に行かれたら、是非近くにある
「中原下橋」もご覧ください。
中原橋2連結
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痛ましい戦乱期の大隅の史跡

今月、鹿屋市の南部にある南町、獅子目町、大姶良町、横山町の史跡巡りをしました。
鹿屋市南部地図連結_朱線入

戦乱の室町時代(南北朝時代、戦国時代)の五輪塔、供養塔、生前に作る逆襲供養塔など、特に武士の死に関連する石塔がたくさんあるのが驚きでした。しかもそれらは土に埋もれていた物を、後世の郷土史家などが掘り出して寺跡などに並べているケースが多いのです。実際はまだ野山に埋もれている各種の石塔が無数にあるものと思われます。

私が関東にいた時に、五輪塔、供養塔、逆襲供養塔などの石塔を見た記憶がありません。関心がなかったためかも知れませんが、祈りの対象としての羅漢像や観音像は見た記憶があります。
中世の大隅に、私には異常と思えるほど石塔が多いのは、関東に比べて極めて戦いが多かったためと思っています。私には覚えきれないほどの領主や山城が多いことからも、戦乱の地であったことがうかがえます。

では、例として鹿屋市南東部に位置する南町、獅子目町、横山町にある五輪塔、供養塔、逆襲供養塔、墓など史跡の一部をご紹介します。

1 獅子目町の清水(しみず)石塔群
獅子目町にある「清水の石塔群」は、通称『三河どん』と称され、この地区では毎年清浄の地として清掃されています。大姶良地方の中世、近世の歴史を知る上からも、信仰、石塔の持つ意義を知る上からも文化財として高い価値を持つ石塔群です。

鎌倉時代からこの付近一帯を支配した①志々目氏一族(冨山氏の出)の供養塔群と、南北朝期この地方に進出して来た②建部姓称寝氏の逆修供養塔群、亨禄三年(1530年)大姶良地方に進出した
肝付氏一族の橋口但馬守(肝付兼成の次男の子孫)等の供養塔群、分禄元年(1592年)梅北事件に連座して、誅殺された大姶良地頭の④伊集院久光の百三十三回忌の追善供養塔、ならびにここの正面にあった⑤大恵寺(正応寺ともいう)の歴代住職の供養塔群に大別される所の鎌倉から江戸時代にわたる長期間の一大供養塔群です。
清水石塔群1_文字入

付近一帯に散乱、埋没していた石塔を復元したもので、まだ周囲の林の中に埋もれたものもあるはずです。石塔の形から氏が分かるので、ここには氏別に石塔が配列されています。
この地域で、名前を覚えられないほど多くの領主が戦を繰り返していたことが分かります。

志々目は冨山氏の出です。冨山氏は宮崎に下向し、島津荘(都城)の荘園管理者として都城に来ます。その後、高山の宮下そして、ここ大姶良に来ました。そして、一族は大姶良氏、志々目氏、横山氏、浜田氏と分かれて其々が繁栄しました。そして今も地名として残っています。

平姓称寝氏の逆修供養塔群の「逆修」とは、生前にあらかじめ自分のために仏事を修めて、死後の冥福を祈ることです。逆襲供養塔は、本人が生前に戦などに出かける前に仏事をしてから作る供養塔で、亡くなったら墓石にするものです。戦乱に明け暮れ、明日の運命すら分からなかった時代、宗教的な信仰こそが唯一の支えであったのでしょう。

ここには、文禄元年(1592年)の「梅北の乱」に連座した咎で一族、家臣63名と共に断罪(斬殺)されたという大姶良地頭の伊集院三河守久光の追善供養塔があります。享保9年に建てられ、久光と息子(兼丸または倭子)の戒名が彫られております。この供養塔は大恵寺の僧が伊集院三河守久光とその息子の133回忌に建てました。
伊集院久光の追善供養塔_文字入

「梅北の乱」は梅北国兼(肝付一族で、戦国時代に至り島津氏に従った)が豊臣秀吉に謀反を起こした事件です(文禄元年、1592年 )。当時、梅北国兼は帖佐地頭(重富)の職にありました。秀吉が朝鮮征伐のため佐賀の名護屋城に居る時、秀吉を暗殺しようと企て失敗します。その時の一味に伊集院三河守久光(大姶良地頭)の家臣も大勢いたため、伊集院三河守一族にも類が及び秀吉の命令で、三河守久光以下、女、子供赤子を問はず、一族64名が上田原で誅殺されたのです。

幼い息子(兼丸または倭子)だけは助けたいと思った伊集院久光は、家宝の刀を倭子(わこ)に託し、護衛の家臣を一人付けて浜田の呑海庵(玉山玄堤和尚が建立)に逃がします。しかし、家宝の刀に目がくらんだ家臣に倭子は殺されてしまいます。その殺された場所が、大姶良町の県道73号線の横の「倭子の下」という所です。林の中の高さ10メートルほどの傾斜が急な丘の端に、少し傾いた石碑があります。案内もなく、場所が分かりにくいので、訪れる人は極めて希でしょう。
倭子の下_3連結

なお、伊集院三河守久光の墓と伝わる目立たない四角形の天然石(写真の右側の石)が、大姶良町の道路脇にあります。秀吉の逆賊として立派な墓を立てられなかったためでしょうか。
伊集院三河守久光の墓3_800KB

2 南町の含粒寺跡
含粒寺はもともと吾平町門前にあった寺で、南北朝時代の正長2年(1429年)に、島津7代元久の子仲翁守邦が開山しました。曹洞宗・福昌寺の末寺です。忠翁の尽力もあり、含粒寺は大隅中部における仏教文化の拠点となりました。永享4(1432)年には総持寺(横浜市鶴見区)の76世に出世し、朝廷から紫衣を勅許されました。明治2年廃寺となった後、南の玄朗寺と合体させて含粒禅寺としたものです。

ここの参道横には、もと南町山下(やまげ)にあった石塔群を、この地に移転したものがあります。これは、天正元年(1573年)に18代肝付兼亮(かねあき、兼続の次男)が日向国の伊東氏とともに、陣ケ岡を超えて大隅半島南部の禰寝氏領に攻め入るに当たって建立した逆修供養塔です。ここには禰寝氏の逆修供養塔もあります。
含粒寺正門と石塔群_文字入連結

この寺の石造群は見事で、仁王像2対、地蔵、観音、薬師などが残っています。特に門の前にある六地蔵塔〔主に戦国時代に盛んに造られた石塔で、側面に6体の地蔵像が彫られているという特徴がある〕は永禄8年(1565年)の庚申供養に結集した人々の氏名が墨書きで記されています。六地蔵信仰と庚申信仰〔庚申の日に徹夜して眠らず,身を慎めば長生できるという信仰〕の習合体としては県下で一番古いものとされます。信仰による精神の安らぎと信仰集団の結束を目的にしていたと思われます。
含粒寺2と6の連結

3 領主の墓
① 将監塚(しょうげんつか、しょげどん)
冨山将監(しょうげん)は横山将監・岡元将監ともいい、大姶良一族の一人です。南北朝対立の真っただ中の観応2年(1351年、南北朝期)、郷士諸侯が入り乱れて戦乱に明け暮れていたとき、本格的に大隅に侵入しようとした島津軍と、これを防ごうとした肝付軍との戦いがありました。
当時、肝付氏の支配下にあった大姶良一族(大姶良氏、横山氏、志々目氏、浜田氏)が、肝付氏を見限り島津6代氏久に付き、横山城に立てこもりました。
南の内城(ないじょう)にいた肝付兼成(8代・兼重の弟)は、この報せを聞き、兵を率いて横山城を攻めました。これを「横山の合戦」と呼びます。

戦いは一日足らずで終わり、浜田氏は戦死、大姶良・横山・志々目の諸氏は逃亡しました。横山将監は、逃亡の途中、肝付氏の兵に囲まれ、逃げるに術もなく、「冨山将監これにあり、いでや肝付の奴輩、我が死に様を見よ」とばかりに仁王立ちに突っ立ったまま鎧の革ずりを引き上げ、見事に立腹を切ったといわれています。そこが「将監塚」である。
横山城の東側近くの畑にある、ずいぶん大きな塚でありましたが、現在は周囲が削られて、10分の1くらいになっています。
将監塚_連結

② 兼成の墓
上記の「横山の合戦」で一日で城を落とした肝付兼成(8代・兼重の弟)は裸馬に跨り南への帰途につきます。しかし、帰る城の近くの南の山下(やまげ)という所で、路傍の竹藪の中に隠れて帰りを待ち伏せていた志々目藤三義貞(志々目一族の残党)に刺されて絶命します。肝付兵が犯人探しを探したが、志々目氏は逃亡しました。殺された場所(現在は畑)には「肝付兼成戦死之地」と彫られた石碑が立ててあります。昔はかなり大きな塚であったそうですが、次第に侵食されて、今は石碑があるだけです。この事件後、これを好機と志布志に拠点を持つ楡井頼仲が大姶良、鹿屋に進出してきました。
肝付兼成戦死之地_連結

以上、大隅の狭い地域のわずかな史跡の紹介でしたが、南北朝時代と戦国時代の大隅は、戦乱に明け暮れた場所であり、武士も農民も明日の命も知れず、神の御加護にすがるしかなかった様子がうかがえます。当時と比べれば、現在の生活は夢のように思えます。
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薩摩藩の暗黒史 補遺(ならず者の系譜)

1 巨悪を暴いた薩摩本
昨年、佐藤 眞著『薩摩という「ならず者」がいた。 誰も語らなかった明治維新秘史』( ケイアンドケイプレス)という、司馬遼太郎の本をひっくり返すような内容の薩摩本が出ました。
                薩摩というならず者_10

明治維新に薩摩藩が大きな役割を果たしたことは、よく知られています。しかし、その背景には島津斉彬が主導した国家反逆罪に相当する「贋金作り」による潤沢な資金がありました。この本では、斉彬は目的のためには手段を選ばない大胆で非情な男、テロリストと過激な表現をしています。

また、今も残る鹿児島県民のよそ者排除、男尊女卑と権威に弱い実態、過激すぎる廃仏毀釈により全ての寺院が破壊されたため、他県に比べて余りにも少なすぎる観光名所と文化財など、島津氏の圧政の影響が今日まで色濃く残っていることを証拠をあげて説明しています。

ここまで、島津氏の悪逆非道ぶりを書いた本は初めてだろうと思います。なお、この本の種本は、以下の写真の著者のラ・サール高校(鹿児島)での恩師と坂田吉雄・京大名誉教授の名著です。今後、著者は高校の同窓会には参加しくいことでしょう。
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2 大隅にあった文化財を持ち去った「ならず者」の子孫
私は大隅半島に移住してきてから、郷土史に興味を持って史跡巡りを始めました。南北朝・室町時代に鹿屋市内に建てられた有名な2つの寺の跡で、驚くべき光景を目にしました。

今から約600年前に建てられた島津氏一族の墓や供養塔がありました。それらは、重要な文化財として、地元人達が大切にしてきたものでした。当然、地元の郷土史(誌)にも記録が載っています。ところが、島津氏の子孫が昭和50(1975)年頃に、地元の了解も得ずに薩摩半島の鹿児島市にある島津墓地に移設してしまいました。昭和の御代になってから、墓参りや先祖供養が楽になるように、一族の墓を1ヶ所に集めたものと推測されます。

現在、2つの寺跡には墓や供養塔を囲んでいた石柵が残るだけです。もぬけの殻になった墓地を、地元では草刈りをしたり、史跡としての說明の石碑など建てて、今でも大事にしています。
以下に、重要な文化財としての2つの寺跡ついて説明し、もぬけの殻になった石柵の写真を示します。

① 龍翔寺跡(鹿屋市大姶良町)
日本百僧の一人に数えられる名僧の玉山玄堤(ぎょくざんげんてい)和尚が、大姶良城主の楡井頼仲の招きにより、大姶良に「瑞雲山龍翔寺」を建立して初代住職となりました。この寺は560年ほど続きましたが、明治初年からの廃仏毀釈で壊されてしまいました。

この寺には、大隅の守護(今の県知事)となった6代島津氏久(1328~1387年、南北朝期)の供養塔と遺命(死ぬ時に残した命令)により氏久夫婦の墓塔もありましたが、昭和50年ころに鹿児島市の島津墓地に移されました。今は大きな石柵だけが残っています。
大隅史談会の『大隅』(1963年)に、墓塔などがあった当時のボヤケた写真が載っていましたので、現在の石柵の写真と並べて示します。
龍翔寺島津の墓の今と昔の連結

② 含粒寺跡(鹿屋市吾平町)
7代島津元久の長男・忠翁和尚(1379~1445年、室町時代)が正長2(1429)年に建てた曹洞宗・福昌寺の末寺です。忠翁の尽力もあり、含粒寺は大隅中部における仏教文化の拠点となりました。忠翁は永享4(1432)年には総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)の76世に出世し、朝廷から紫衣を勅許されました。文安2(1445)年6月7日に67歳で亡くなりました。

含粒寺には忠翁の母(島津元久夫人)と妹の墓もありました。御南御前(16代肝付兼続夫人、島津忠良・日新斎の長女)も、ここに埋葬されたと記す資料もあります。大きな石柵が残っているので、立派な墓塔が建っていたと思われます。残念ながら、当時の写真は見つかりません。
含粒寺跡石柵と案内の連結

含粒寺は約440年間続きましたが、明治2(1869)年に廃寺になり、大姶良の南地区の玄朗寺と合体して移築されて、再興されました。廃仏後に再興されるのは珍しいことです。それほど重要な寺であったのでしょう。

含粒寺には山中八景といって、当時は八つの美しい景色(山頂羅漢、屋後の瀑布、座禅石、南池白蓮、大谷藪竹、門頭屏風岩、囲山流水、寺前石橋)を見ることのできる場所でした。大正15年発行の「姶良村誌」の巻頭に掲載の写真の中に2枚の「門頭屏風岩」があり、周囲の景色は変わりましたが、今も磨崖仏が彫られた「門頭屏風岩」を見ることができます。
仲翁和尚を火葬した場所は、「門頭屏風岩」の下の田圃で、そこに梅寿中翁灰塚(火葬)の碑(墓)が建てられました。しかし、この塚も持ち去られ、石柵だけが残っています。現在の写真と、以前の姿を写した大正15年発行の「姶良村誌」および昭和35年発行の「吾平町誌 下巻」(右端)の写真を、以下に示します。
含粒寺灰塚の今と昔の連結_文字入

ここには歴代のお坊さん等の墓が28基ありました。その多くは破壊されて、埋もれていましたが、鹿屋市の郷土史家が掘り起こして、石柵の横の斜面に並べました。今も現地に無残な姿で残されています。
これも整備して島津墓地に移設できなかったのでしょうか。島津氏が建てた重要な寺を支えてきた和尚たちの墓は、島津氏の子孫には取るに足りない物で、打ち捨てられたのでしょうか。
含粒寺の僧の墓と全景の連結

21世紀になりました。島津氏の子孫は、数世紀前の江戸時代には許された傍若無人の「ならず者」の振る舞いとは決別していただきたい。そして、地元鹿屋市民の気持ちを重んじて、昭和の時代に黙って持ち去った文化財を、元あった場所に戻していただきたいと切に希望します。夫婦の墓塔を大姶良に建てることを、遺命で残した島津氏久他のご先祖も喜ばれることでしょう。
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平家の落人伝説地と牛根の安徳天皇伝説

平安時代の末期の元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日に、平家が壇ノ浦の戦いで滅びると、平家の落人は全国各地に逃げたようです。
垂水市の牛根出身の永井彦熊氏が「落日後の平家」(昭和47年発行)と題する大著に、南九州に重点を置きながら、全国の平家落人部落や平家古文書の調査結果を報告されました。
①本と壇ノ浦古戦場の合体


1 落人部落の伝説地
それによると、日本全国の平家の落人部落は340ヶ所、そのうちの南九州には150ヶ所の多さです。とりわけ大隅半島には多いです。
②全国と大隅の平家落人部落の合体


幕府を開いた源頼朝による「平家追討命令」は落人を恐怖の底に突き落とし、追手に見つかりにくい山岳地帯(祖谷、白川、五家荘、椎葉など)、離島(対馬、硫黄島、沖縄など)、海岸の断崖(大浦、辺塚、入船城など)に住み着きました。

2 落人部落の生活様式など
平家の落人部落には、追ってから逃れて生き延び、再起を期すために、地域によって差はありますが、以下のような独特の生活様式などがあることが書かれています。
① 他部落の人と交際や結婚をしない。
② 落人部落が見つからないように、鳴き声から場所がわかる鶏を飼わない、下流にものを流さないように川での洗い物に極度に注意させた。
③ 源氏方の白いものを禁忌とした。源氏の標識である白いもの(鶏、馬、花、鷗、餅など)を忌む。
④ 独特の正月の仕切りがある。門松を立てずに椎の木の枝を立てる、餅の代わりに大根の輪切りを供える、正月の三日間火を外に出さず・金物を使わない。
⑤ 「開けずの箱」がある。落人が苦難の記念に残したもので、大したものは入っていないようである。
⑥ 部落に残る宝物がある。陣羽織、打ち掛け、鎧、馬具、印籠、太刀、重箱など。
⑦ 大家族制度を残す。戦後に本制度は破壊された。
⑧ 学問・文化・風流を好み、伝える。
⑨ 神社仏閣を崇拝する。伊勢神社、熊野神社(大隅には13社もある)、天満宮、虚空蔵菩薩、観音、経塚、磨崖仏など。
⑩ 焼き畑で粟、稗、麦、大豆などを栽培し、狩猟もして、自給自足生活をする。
⑪ 田畑や山林を共有する。
⑫ 居住地に昔住んだ京洛の地名やそれをもじった地名を付けた。荒西山(あらしやま)、大原、白川、居世神社(伊勢神社)、桃園、花園、小路、小野、川辺など。
⑬ 七を縁起として使い(七人塚、七枝の杉を神に供えるなど)、草履を宝物にして履かない。
⑭ 河童伝説が残る。長門壇ノ浦で活躍した能登守教経の奥方・海御前にまつわる伝説と伝わる。

上記の⑤「開けずの箱」に関して、大隅半島南部の海岸にある辺塚(佐多町)で興味ある以下の記述がありました。「ここの島子氏の宝物殿に、古代より誰一人として見たこともない開けずの箱がある。開けると目が潰れると言い伝えられ、村人は恐れおののいている。永田元代議士が、県議時代に、この方面に趣味のある人なので、目が潰れてもかまわぬから、是非あけてみせてくれとの懇望に、何百年かの蓋が開けられた。中には、紙質の良い扇と、鎧の草摺(くさずり)と、鎌が一本入っていたと言う。」

3 垂水市牛根の安徳天皇伝説
永井彦熊氏の「落日後の平家」の中で、特に詳しく書かれて印象に残るのが、垂水市牛根地区の安徳天皇にまつわる伝説です。
この本によりますと、母方祖母の二位尼(平時子)と一緒に壇ノ浦の急流に身を投じたとされる安徳天皇は、実際は薩摩硫黄島を経由して、7歳くらいの頃に大隅の牛根に漂着されたと伝わっています。その後、7人の山伏が尋ねてきた時に、追手と思ったお世話をしていた農夫らが安徳天皇を逃したら、麻の刈り株で怪我をされたのが原因で、13歳で亡くなったとされています。しかし、これは安徳天皇を牛根で安穏に暮らしていただくための作り話であろうと著者の永井彦熊氏は書いています。肝付氏の庇護もあったようで、安徳天皇は68歳まで長生きされたと四十九所神社旧記には書かれているそうです。

4 牛根の安徳天皇伝説の文化財
全国には10を超える安徳天皇陵の伝説地がありますが、その中に垂水市の牛根も含まれています。牛根では安徳天皇の墓とは言わず、陵(みささぎ)と言っています。
海岸通り(国道220号)から山側に細い道を300mくらい進むと駐車場があり、その近くの細い舗装道を案内板に従って数分歩くと陵に着きます。地元の自治会の方々が定期的に清掃しているので、道も陵もきれいに整備されています。陵は宮内庁の所有地だそうです。
③安徳天皇陵の4連結


④安徳天皇陵の2連結


海岸通りに面して、安徳天皇を祀る居世(こせ)神社があります。安徳天皇が漂着された海岸の近くにあり、鳥居からは目の前に桜島が眺められます。
⑤居世神社の3連結


居世神社⑤800KB


牛根の安徳天皇伝説と関連の文化財については、ホームページ「松ヶ崎散歩 鹿児島県垂水市松ヶ崎の歴史と文化財」に分かりやすく書かれています。文化財の場所を示す地図も付いています。以下の資料も本ホームページから借用しました(一部加工)。
⑦地図と平家系図の連結


なお、牛根には「道の駅たるみず」があり、雄大な桜島と錦江湾を臨む絶景、日本最大級の長さを誇る足湯、買い物ができる物産館、レストランなどで休憩したり楽しむことができます。
道の駅たるみずの連結
テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

中国の長江文明を受け継いだ南九州

以前に、本ブログで古代史研究家の内倉武久氏の古代史説を「日本古代史の驚きの”事実と新説”」でご紹介しました。

内倉氏によると、『「熊曾於(熊襲)」族は紀元前5~4世紀ごろ?から、南九州一帯を拠点にして九州全域を勢力下に置いていた巨大氏族の総称である。『日本書紀』が説く日本史の上では「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は、弥生時代前期から中期にかけてと思われる。(略)

 彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33.2センチ)が出土している。同じ形式の玉璧は広東省の南越王墓など中国大陸海岸部から多数出土している。現在、中国山東省南部や江蘇省北部,などからから熊曾於族の墳墓である地下式横穴墓や地下式板積み墓と全く同じものが多数発掘されている。』
地下式横穴墓の分布と図

最近、大陸からのボートピープルに関する情報を得るために、安田喜憲著『龍の文明 太陽の文明』(PHP新書)を読みました。この本によりますと、古代中国の南北文明の興亡で、以下に引用するように(一部に追加・削除した)、北方の漢民族の「龍の文明」は南方の「太陽の文明(長江文明)」を滅ぼします。

『北方の漢民族の「龍の文明」は、畑作・牧畜地帯で、龍を信仰する龍族が存在していた。一方、南方の「太陽の文明(長江文明)」は、稲作・漁撈地帯で、太陽や鳥、それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が存在していた。その南北構造のルーツは7千年前までさかのぼることができる。

4千年前ころ、長江文明が気候の乾燥化と北方の畑作・牧畜民の侵略によって衰退すると、北方の龍族が南方の太陽族・鳥族・蛇族を駆逐しはじめた。とりわけ3千年前以降の気候の寒冷化は、北方からの龍族の南下に拍車をかけた。

かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、日本民族へ受け継がれ生き残る。南九州に流れ着いて、稲作文明をもたらし、太陽、鳥、蛇を神とし崇拝する世界観を持ち、日本神話にもその影響を及ぼした。』
以下の
長江文明衰亡に関する図は、インターネットの公開情報から借用しました。
長江文明衰亡
『龍の文明 太陽の文明』には、両文明のシンボル模様に関する記述や写真が多いです。
南方の「太陽の文明(長江文明)」の典型的なシンボル模様は、稲作に必要な「太陽」と稲作・漁撈民が定住した湖沼地帯にいる「鳥」で、鳥が中国神話の伝説の鳥であるシンボル模様之「鳳凰」を誕生させたとしています。
その他のシンボル模様として、蛇、二匹の蛇がとぐろを巻いたダブルスパイラル(永劫の再生と循環をくり返すシンボル)、逆S字、牛、犬などがあります。

シンボル3連結_文字入

両文明の吉数にも違いがあり、「龍の文明」は九であり、「太陽の文明」は八か六です。日本人が好む末広がりの「八」の世界観の源流も「太陽の文明」にあった可能性があります。

さてここで、私が住む大隅半島の史跡や伝説を見聞きすると、「太陽の文明(長江文明)」のシンボルである太陽、鳥(鳳凰)、蛇、渦巻き、牛、犬が出てきます。その事例を以下にいくつか紹介します。
1 内之浦市の高屋神社の牛の木像
  高屋神社の拝殿の中を覗くと、牛の木像が置いてありました。
高屋神社と牛像

2 内之浦市の高屋神社、曽於市の熊野神社の渦巻文の彫り物
高屋神社の本殿の屋根の下の彫り物や、熊野神社の拝殿の向拝柱の上の彫り物に、渦巻きや蛇のような模様があります。高屋神社は景行天皇が熊襲征伐の際に創建されたと言われていますが、内倉武久氏は九州政権の天皇であった景行天皇が熊襲征伐するのは怪しいと言われています。上記の模様や牛の木像が内倉氏の主張を裏付けていると思います。
渦巻文の連結2_文字入

3 鹿屋市吾平町の中尾遺跡から出土した象嵌装太刀の心葉文(鳳凰)
中尾地下式横穴墓群(6世紀末頃)の6号墓より出土した大刀に銀による象嵌(地板に線を嵌め込む)でハート形文様(心葉形文)がCTスキャンによって鮮明に確認できました。心葉文は中国の空想上の鳥(鳳凰)を示しています。
象嵌装太刀と心葉紋_文字入

4 肝付町津曲のウガヤフキアエズノミコトの生誕伝説地に伝わる大蛇の出産伝説
生誕地に隣接する家主の森園純治氏から聴いた伝説です。「ここはトヨタマヒメが柏原で安産祈願のシオガキをして帰る時に急に産気づいたため、地元の人達が孟宗竹で産屋を造って差し上げて、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御尊父)を出産した場所と伝えられている。出産時はウガヤフキアエズノミコトが大蛇であったので、皆が恐れおののいてひれ伏したと言われている。昔は12月28日に地元の人が一握りのワラを持ち寄って長さ11ヒロ(16.5m)と33ヒロ(49.5m)のしめ縄を作り、蛇の姿にして飾る祭りがあった。」

『龍の文明 太陽の文明』の著者は「環境考古学」という学問分野を確立した理系の学者です。この本には、大阪府高槻市の今城塚古墳の石棺に、熊本県の宇土地方産のピンクの凝灰岩が使用されていることも書いてあるので、その事実を隠したがっている大学の考古学者ではないことも分かりました。

この本の内容は内倉武久氏の古代史説とも符合し、大和政権が捏造して蔑まれてきた「南九州の古代史」がこれから大きく塗り替わるような期待を持ちました。