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大隅の偉人:池田俊彦

 『鹿屋市史 下巻』(平成7年発行)には「池田俊彦」について、以下のように書かれています。
 『大姶良の生んだ教育者、一生を教育会に捧げた人である。明治十三(1880)年旧大姶良郷麓の池田彦太郎の長男に生まれた。幼少から秀才といわれ、大姶良小学校から鹿児島県第一中学校に入り、七高造士館を経て東京帝国大学の西洋史学科を卒業した。おそらく当時の大姶良においては、このような学歴を持った人はほかにいなかったと考えられる。

 卒業後は東京市麻布中学校の教諭を勤め、大正七年に学習院教授となった。在任中、一か年にわたり欧米の教育状況を視察した。昭和四年学習院を辞任し、郷党子弟の教育に尽くすため鹿児島県立第二中学校長に就任した。在職一七年、昭和二十年の敗戦の年に退職、その後、本県教育会長となり混乱した教育会の立て直しに努力した。
昭和四十一年、郷党の士が図って大姶良小学校の校庭に顕彰記念碑を建てた。
著書に「西郷とリンカーン」「島津斉彬公伝」がある。』

池田俊彦と家族写真1 池田俊彦と家族(東大時代)

 
 池田俊彦の父の彦太郎については情報は少ないが、俊彦の孫のルリさんが彦太郎の墓前で、「このお父さんあって俊彦さんあり」と語ったことが、「楠の葉風」に書かれています。大姶良東集落センターに、西南戦争の記念碑があり、その側面に出征者名が刻まれていますが、その中に「池田彦太郎 十七才」があります。満年齢では15歳です。
 池田俊彦著「西郷とリンカーン」に、俊彦が父親に「どういう考えで従軍されたか」と質問したら、返事は「俺などは西郷先生の後について東京見物に行くつもりであった」とあり、西郷の言動には間違いがないという絶大なる信頼があったので、多くの若者が従軍したことが書かれています。なお、俊彦には弟と妹がいました。

 社会に出てからの池田の人となりを知る手がかりは、没後約40年してから出版された「楠の葉風 : 池田俊彦先生回想録」から得ました。
 最初に学習院教授から二高校長に就任した時に、全校生徒と教師を前に話した「二中校長就任の辞」(昭和5年11月17日)があります。その一部を以下に転記します。
 『第一に私の諸君に対する心をお話する。自分はふつつかなものであるけれども諸君に対してはあくまで、至誠にして公平無私であるといふことを誓ふ。自分は虚偽をきらふ、偽りを云はぬ、諸君も偽りを云ふことをやめて貰いたい。偽ることをするな。又術策を弄するといふようなことは自分はしない、又することも出来ない。がらにもないお世辞も云わない、只々誠心誠意事に當たりたい。今も述べたる如く自分としては校長といふことは無経験であり、尋常一年生といふよりも、謂はば幼稚園生である。或は全く経験の無いために、或は思慮の浅い為に、自分の仕事は失敗するかも知れぬ、が然し精神的に於いては決して失敗しないつもりである。生徒諸君に望む所はどうか中学生といふものは将来国民の中堅になるといふことが第一に大切なことである。大いに努力し勉強し、大いに実力を養成して貰ひたい、實力のあるものはたとひ失敗しても亦立つことが出来る。然し如何に勉強するとは云へ、四六時中机にかじりついて勉強ばかりすることはいけぬ、体格を練ることも最も必要なことである。それには大いに運動して貰いたい。教場では専心勉強し、運動場に於いては大いに遊ぶ、最も諸君は克己に富んでいる時代である。三月節句の雛様のやうに温和しくせよとはいはぬ。無邪気なことはいくら無邪気でもよい、聞く所によれば二中は野球は強い、南九州に於いて覇権を握つたといふ、大いによろしい。』と、飾ったり居丈だけなところがない、率直な発言です。さらに、

 『大西郷は「先輩に於いては藤田東湖に服し、同輩に於いては橋本左内を押す」と云つている。左内先生は所謂外柔にして内剛なる者、千住小塚原にて処刑せられた時年僅かに廿六、もし長生きをしたらんには大人物となったであろう、実に惜しいことである。肩を怒し、大きな棒を振りまはして強そうな風をするな。ほんに強い者は自分が強いといふことは云はぬ。』と、池田が尊敬する西郷と橋本左内の考えを引用して、生徒に教え諭しています。

 なお、池田が島津斉彬や西郷隆盛の研究者となった背景となる、島津家史料の編纂に従事された経緯や指導を受けた教育者について触れた文章が、著書「島津斉彬公傳」の「はしがき」にあるので、その一部を以下に再録します。
 『著者は明治四十年東大史学科を卒業し直ちに麻布中学校に教鞭を執ることになった。當時の校長は江原素六翁で、至誠高潔稀に見る偉大な教育者であった。翁はまた熱心なる基督教の伝道者であり、政友会の総務委員として政界の長老でもあった。もと徳川麾下の錚々たる武人の出で、戊辰の役には幕軍の隊長として諸所に奮闘された経歴があり、歴史好きで徳川慶喜や勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟等につき時々興味ふかき話を聞かされた。

 午前中は麻布中学校に勤務し、午後からは芝白金三光町の島津家編輯(へんしゅう)所に勤務して、小牧昌業博士を総裁とする島津家国事鞅掌史料の編纂に従事することになった。博士は旧藩時代の幼時より重野博士と並び称された秀才で、安政年間共に斉彬公の面前に於て四書の素読をなせしこともあったという。晩年大正天皇の侍講となり、漢学を進講されしほどの碩学であった。博士とは編輯所に於いて室を同うして終始懇切なる指導を受けた。博士は嘗てまた奈良県知事や黒田内閣の書記官長を勤めし経歴もあり、資性極めて謹厳な人であったが、時には微醺を帯びつつ斉彬公や維新の當時薩藩より輩出した幾多先輩に関する逸事秘話をよく聞かされたものである。その頃までは薩摩出身の幾多元老重臣など猶健在したために、それらの人達を歴訪して、種々の資料蒐集の便宜が得られた。』
なお、文中の小牧昌業(まさなり)博士は、大隅の今の錦江町田代の出身です。


池田俊彦の回想本2冊写真2 「楠の葉風」と「池田俊彦先生講話集」

 「楠の葉風」には、池田の講話、訓示に関する思い出話がたくさん書かれています。
 池田俊彦先生遺徳顕彰会会長の土屋佳照は、「楠の葉風」の序文に以下のように書いています。
 『二中を天下の二中たらしめるべく、多くの優れた教師を招聘されるなど、十五年の長きに亘り、校長として、教育と学校経営に心血を注がれた池田俊彦先生に対する追慕の想いは今に立ち難いものがある。
 毎月一回、朝礼で行われた校長訓示と修身の授業以外には、池田先生のご謦咳に接する機会は、それ程多くはなかったものの、先生が二中の生徒に与えられた感化は極めて大きなものがあったと思われる。
 一学年の全員を集めて、島津斉彬公、西郷南洲翁、中原猶介など郷土の先人や、専攻された西洋史の英傑の思想・業績について熱情をこめて講話された。「人は如何に行き、如何に困苦に処し、如何に命運に対すべきか」諄々と説きおこされ、説き続けられる校長先生の悠揚迫らざる偉容に、大きく温かい人間愛と、教育者としての気迫が、私たちに惻々として伝わり、ひしひしと感じ取られたものである。』 

 中でも、西郷南洲に関する講話が多かったようです。
 「池田俊彦先生講話集」には、「南島幽囚中の西郷南洲先生」(昭和14年発行二中学友会雑誌第35号掲載)と題する文があり、以下の西郷の教訓を伝えています。
 ① 欲を去れとといふのが先生(西郷)の根本精神であります。
 ② 人間はいついかなる場所、いかなる逆境にありても失望や悲観をしてはならないといふ活教訓が得らるると信ずるのであります。


 池田が書いた「大西郷とリンカーン」には、世界で真の偉人は西郷とリンカーンであると、以下のように書いています。
 『大西郷やリンカーンはナポレオン、成吉思汗、または豊臣秀吉とかいふ型の人とは全く異なった人格の所有者たることが明かである。即ち是等多く英雄と呼ばれ偉人といはれて来た人達は壮大なる自己中心主義者とでもいふべきで偉人と呼ぶには最も大切な条件を欠いている。大事業をなした人でも英雄と呼ばるるには何とか物足りない。幾許か人寰(ジンカン、世間)の上に出で世俗の妄執を超越してこそ世人の尊敬を受ける価値がある。
 自己に厳他人に寛、而して一片の私心なく恬淡無欲富貴功名の上に超越し度量遠大何人に接しても城府(しきり)を設けず直に赤心を人の腹中に置くといふ風で情緒纏綿(じょうしょてんめん、愛情が深く離れがたい)弱者に対して同情深く敵に対しても寛大なる精神の持主なること。』

 池田はその時の権威に屈せず、抗議したり、時分の意見を披瀝する、骨のある教育者でした。具体手な2つの事例を生徒が書き残しています。
 『福留慶彦:池田校長はこんな時代でも軍人の非人間的な事には屈せられなかった。当時中学以上には軍事教練が課せられ、年一回陸軍省からその成績を詳しく調べる査閲と云う行事があった。査察官は少将以上の高級将校で軍馬に跨り部下を従えて乗り込む。その日は全校がふるえ上がった状態になる。昭和十四年の査閲の日であったか査問官が校長の出勤より早く二中に現れた。全校の職員と生徒が庭に整列して待って居ると壇上に上がった査閲官が開口一番ここの校長は自分より遅れて来たとなじった。全校が驚きと当惑でどうなるかと思った。池田校長は憤激されたであろうがその場は目して校長室に引込まれた。事によっては校長の立場は危ういしその当時は査察官がパスさせなければ生徒の進学も出来なくなるという時代であったが、翌日校長は「査察官が早すぎたのであって陸軍省に抗議を申し込むから心配しないように」とのお話であった。そして流石に学習院教授の前歴がものを云ったか軍側が非を悟ったか、向うから詫びが入って平穏におさまっった。』

 『矢野宏治:二学期のある日、いつものように校庭で朝礼があった。いつもと違ったのは校長の訓話だった。「ミッドウェイ海戦は、勝った勝ったと浮かれているが、とんでもないことである。日本海軍の大敗に終わった戦いなのである。緒戦の勝利に酔って油断していた結果が、海軍が再び立てるかどうかという程の海戦を招いたのである。ミッドウェイ海戦は、明らかに海軍の作戦の失敗であり、今後いかなる事態になるか計り知れぬものがある。みんなもじゅうぶん心せねばならない。
粛然として聞きながら、軍部の耳に入れば拘引されかねないことを、全教職員生徒の前で、堂々と真実を伝えた校長の勇気に、舌を巻く思いで、さすがは池田校長だとの感を深くしたものである。
 戦後池田校長は教職追放にあわれた。(略)なぜ追放されたのか。軍国主義教育を推進したというのが理由なのか。だが私には校長から軍国主義教育を受けた覚えはさらにない。(略)むしろ追放した側にこそ問題がありはしなかっただろうか。審査した側の一人でも、校長のように日中、千二百名の前で、敗戦を指摘し軍部攻撃をした人がいたであろうか。』

 池田は鹿児島県立第二中学校長を在職17年、昭和20年の敗戦の年に退職、その後、本県教育会長となり混乱した教育会の立て直しに努力しました。晩年は大姶良にある生家で過ごしました。

 池田の晩年は不幸であったと言われています。女婿の折田 力は、以下のように回想しています。
『(岳父は)家族運には恵まれず、長男俊一は池田が学習院からヨーロッパ留学中の大正十五年の夏、妻萩は昭和五年十二月二十九日に、二男の昭二も昭和十五年の5月には死去しております。』

 池田は学習院時代に、少年時代の昭和天皇の家庭教師をしていたことがあり、昭和24年に鹿屋に来られた昭和天皇と再開されたことを、元岩崎学生寮寮長の吉瀬 寛がそのことを書き残しています。池田が無くなる年前のことです。
 『私が伺った所では、次の様な経緯があります。昭和24年6月に陛下(昭和天皇)が鹿児島県に行幸になられました。理事長さんの重富の工場も視察になられましたが、そのあと大隅半島においでになり、鹿屋にお泊まりになりました。その晩、陛下は宿所に先生をお呼びになりいろいろお話があった由です。
 というのは、先生が学習院教官として歴史を教えて居られましたが、陛下(昭和天皇)が少年時代、先生から歴史を教えて頂いた事があり、九州行幸に際して、侍従から先生が故郷の大姶良に隠棲して居られることを聞いて久しぶりに懐かしい子弟のお話し合いの時間を持たれたのだと思います。学習院の教壇を去って二十数年、昔の恩師を忘れぬ陛下(昭和天皇)のお人柄もご立派だと思いますが、又先生のご人格も偲ばれます。
 その時のお話の中に、先生が畢生の大事業として永年かけて続けられた『島津斉彬公傳』の原稿も全部出来上がった事をお話になられると陛下(昭和天皇)は『公刊されたら、ぜひ読みたい』と仰言ったそうです。これは私の推測ですが、皇后陛下が島津家とご縁が深かったこともお考えになってのことだろうと思います。』

その後、公刊された本を陛下に謹呈したら、皇太子にも読ませるのでもう一冊欲しいと陛下に言われたそうです。池田先生はうれしかったことでしょう。

昭和天皇と島津斉彬公伝写真3 昭和天皇と『島津斉彬公傳』

 昭和10年11月に鹿児島と宮崎で陸軍の大演習があった際に、昭和天皇が吾平山陵に参拝(行幸)されたのを記念して、翌年の11月に公爵の島津忠重氏が吾平山陵に昭和天皇行幸記念碑を建立されました。この記念碑の後ろにある碑文は、池田俊彦先生が書かれました。

行幸記念碑の3連結写真4 吾平山陵にある昭和天皇行幸記念碑

 池田彦太郎と俊彦の墓は、大姶良町にある龍翔寺跡の横にある共同墓地にあります。
 
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大隅の偉人:野村伝四

野村伝四(1880~1948年)は、夏目漱石の東大での教え子で小説「三四郎」のモデルになったと言われ、髙山(今の鹿児島県肝属郡肝付町)に生家と墓があります。生家は人手にわたり、今は無人です。庭には秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮から持ってきたと伝わる椿の侘助の巨木があります。
野村伝四生家と侘助                                                                               伝四の生家と侘助

父親の野村伝一郎は、武芸、学問に秀でた人で、参勤交代で江戸に出向したり、長州征伐、西南の役にも出征し、地頭仮屋で横目の役も勤めていました(『大隅』第53号「明治時代の家屋普請について」 竹之井 敏)。
伝四の墓は肝付町前田の長能寺墓地にあります。伝四の新婚を祝って、漱石が贈った句「日毎ふむ艸芳しや二人連れ」が墓石にきざまれています。その横に野村家の新しい墓があります。
伝四と野村家の墓                                                   伝四の墓(左端)と野村家の墓

渡口行雄「故郷忘じがたく-野村伝四の生涯-」(『大隅』(第59号)2016年)によると、『伝四は明治13年9月、旧高山村(現肝付町)で野村伝之助の四男として誕生。ちなみに長兄は伝一郎、以下順番に伝二、伝三と続く。伝之助には西南戦争のことを書いた「出陣日記」などがあるという。伝四は鹿児島市内の造士館を経て上京し、旧制一高、東京帝国大学と進む。専攻は英文学で大学時代の恩師が夏目漱石である。伝四は漱石の一番弟子と言ってもいい存在で、漱石が彼に宛てた58通もの手紙が「漱石全集」に収められている。

明治39年に帝大を卒業し、41年2月にはセイさんと結婚する。夫人は旧加治木町出身で、昭和49年に88歳で亡くなっているという。英語教師として岡山や山口、佐賀、愛知、大阪の旧制中学などを転々とし、大正10年から旧奈良県立桜井高女、昭和3年から同五條中学の各校長に就任、同9年から奈良県立奈良図書館長となった。戦時中の同17年に退職して戦後の23年7月に亡くなっている。享年67歳。

英語教師だったにもかかわらず、民俗学者あるいは言語学者として名をなした。「ことばの奈良」「大和の垣内」「大隅肝属郡方言集」などの数々の著作があり、特に後者は民俗学の泰斗・柳田國男の序文がついており、貴重な資料となっている。また、故郷の大隅半島を舞台にした随筆「鷹が渡る」は名文で、旧制中学の国語の教科書にも掲載されていたという。』

漱石邸で後輩が多い中、伝四は右端に遠慮がちに立っています。
漱石邸での伝四_800KB                                                                        漱石邸での伝四(右端)

修善寺の大患で漱石が大量失血した際には、枕元に付き添うのを許されたのは伝四と安倍能成の2人だけであったそうです。漱石の自宅での集まりにおいても、伝四が漱石の隣にはべっていたのは、それだけ信が厚かったことを示しており、また控えめで泰然自若としている気質が、漱石の最も愛した弟子と称される理由でありましょう。

渡口行雄は桜井高女での伝四の功績を次のように書いています。『桜井高女時代の在勤七年間で、もっとも功績があったのは「体位の向上と体育の奨励」であったようだ。西洋諸国に比べて、著しく見劣りする体位の向上のために、服装を和服から洋服(セーラー服)に改めた。運動に力を入れて、バレーボールや定休、バスケット、弓術などを勧め、ラグビーボールを使ったハンドボールも伝四校長時代に始められた。その結果、年ごとに女子学生の体位は向上し、全国平均を常に上回ったという。昭和三年に伝四が運動部の校内大会のために寄贈した優勝杯は今も残っている。

特筆すべきは女子野球部の創設であろう。(略)当時、高女で野球部があったのは全国で三校だけ。桜井高女チームは大正十四年に大阪で開かれた第二回女子オリンピック野球大会で全国優勝。ところが、翌十五年に文部省が女子野球廃止の訓令を出したので、優勝校の持ち回りになるはずだった優勝旗は永久に同高女のものになったという。大正時代に女子野球部を作った先見性が伝四にあったというのは、驚き以外、なにものでもない。

初めて大正十一年に東京への修学旅行を実施したのも伝四の時代であった。(略:手記)当時の生徒の思い出である。現代と違い、交通事情の大変な時代である。東京などは夢のまた夢であったはず。手記にはその時代に首都を訪ねた喜びがあふれている。
桜井高女の野球部_800KB                                                                        伝四校長と野球チーム

佐藤健著「漱石と野村伝四と我が母」(文芸社)によると、『文部省の視察があっても、「普段のありのままの様子をお見せしろ」と言い、校内の掃除をさせなかった。さらに、彼らの帰りに際して、教頭が自動車を呼ぼうとしたら、伝四は「年寄りの僕でも歩くのだから、若い人は歩いたほうが良いでしょう」と言ったという。文部省はカンカンに怒り、危うく伝四校長のクビが飛ぶという騒ぎになったらしい。

校長として自由を愛する個性豊かな人材の育成に努めた。教育方針は上級学校への進学のためではなく、学問が好きになる教育であると、父兄に言った。伝四がつくった校訓「普(あまね)く 絶えず 正しく」は現在も引き継がれている。』
伝四は、恩師の漱石の権威嫌い、反骨精神を引き継いでいるようにも思えます。しかし、その考えや、教育方針は合理的で、時代を先取りしています。

最後の職務となった県立奈良図書館長の時は、図書館月報に多くの文章を残しています。館長の職務を誠実に履行する一方で、奈良県読書会会長として県下の読書振興に努めました。さらに日本の図書館軽視の風潮に対する警鐘と社会人教育の重要性を主張しています。ここでも、戦時下でありながら、自分本来の考え方を述べている点では、漱石の反骨精神としたたかさがうかがえます。
県立奈良図書館と五條高校伝四校長                                                             県立奈良図書館と五條高校の伝四校長

渡口行雄の「故郷忘じがたく-野村伝四の生涯-」には、伝四の最晩年の6年間を調べて、以下のように書いています。
『伝四の長女の長女にあたる塘(とも)芳子さん(昭和八年生まれ)が大阪府枚方市内にいることがわかった。今では彼を直接知る唯一の生存者である。塘さんとは手紙と電話で何回かやりとりをした。懸案の「空白の六年」はあっけなく埋められた。その証言__。
「館長を辞めてから体が弱くなり、奈良市内の自宅でずっと寝たり起きたりの生活でした。高山のことはいつも思い出しており、退職後は帰って住みたかったはずなのに、病気と戦中戦後の混乱で一度も帰れないままに亡くなりました。それは残念だった、心残りだったと思います。
 塘さんは子供のころは鹿児島市や旧大口市(現伊佐市)に住んでおり、伝四と一緒に住んだことはない。「あまりよく知らないのですよ」と言いながらも、祖父の胸中を推し量る。
 「おばあさん(伝四の妻セイさん)は、戦後、一人で時々、帰郷して高山のお墓参りをしていたようです。私一人を連れて行ってくれたことも覚えています。でも、(漱石との関係など)詳しい事情は何一つ教えてくれませんでした」
 「おじいさんが亡くなって何十年もたちましたのに、今も思ってくださる方がいらっしゃるとは本当にありがたいことです」。しみじみと語る。
 帰郷を切に願いながら、かなわずに異郷に果てた伝四。田舎の墓はセイさんと野村家を継いだ二女が建立したらしい。
 彼の魂は死後、田舎に帰ったはずである。その墓にセイさん、子供のころに亡くなった三女、夭折した長男と四女とともに静かに眠っている。』

私は身近な所に野村伝四の実家とお墓があることを、最近知りました。
虚弱そうなに見える伝四には、合理的な考えと、信念を曲げない強さがあることを知り、それは漱石の影響を受けたためであろうと思いました。合理的、論理的な思考ができることと私欲が少ないことが、信念が揺らがない源であるような気がします。
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大隅の偉人:宇都宮東太と是枝柳右衛門

薩摩半島には西郷隆盛などの明治維新の偉人をはじめとして、多くの分野の偉人がいたことが全国に知られ、本になったりドラマや映画にもなっています。一方、同じ鹿児島県でも大隅半島には、広く知られた偉人がいません。偉人がいなかったはずはなく、薩摩藩の被征服地で永く虐げられたこともあり、その記録も少なく表に出ることは稀であったと思われます。

そこで、主に大隅史談会の『大隅』誌を手がかりにして、埋もれた大隅の偉人を探してみました。そうしたら、15名ほどの尊敬すべき先人がいることが分かりました。今回は、その中から人材育成に貢献された偉人2名を取り上げます。
幕末の漢学者の宇都宮東太
18181906年)とその弟子の是枝柳右衛門(1817~1864年)です。東太は学問、武道、和歌、華道、茶道の師匠と、万能の達人です。柳右衛門は家が貧しいため行商をして老父母と弟妹を養いながら、勉学に励み後に私塾を開き子弟の教育に尽くし、和歌では志士中の最大の歌人と言われ、国を憂えて自ら討幕運動を指導した全国にただ一人の庶民志士でした。

1 宇都宮東太
平成9年版の『高山郷土誌』によると、宇都宮東太正直(まさなお)は高山(現 肝属郡肝付町)の代々修験者の家に生まれ、幼時和州の大峰に入山し、修験道を修めたと言われています。後に、儒学や歌道を極めさらに、武道や華道にも通じていたと言われています。従ってこの東太塾(宇都宮塾)には、高山郷内外から教えを乞う門下生が多く、晩年までに一千名もあったといわれています。
宇都宮東太1_800KB

東太塾の様子について、曾孫(ひまご)の有方氏が残した記録によると、「曽祖父東太は、少年の頃より学問が好きで、高山の伊東佳太郎先生に学び、鹿児島の矢野先生・山田先生・清川先生に往来して勉強された。又兵法や乗馬・槍・剣・銃・鎌術などについて‥(略)漢学を中心とした漢詩や和歌に至るまで研究を怠らなかった。後輩の指導についても、漢学・倫理・修身の道を説き知行合一の精神を打ち込んだ。(略)寺子屋式の教場、勿論学制発布以前のことでもあるが、又小学校ができてからも放課後特に漢学歌など習いにくる生徒もあった。
年齢は、十四、五歳の少年より二五、六歳の青壮年に至るまで思い思いに習いにきた。場所は住家の表一二畳の間、東太様その真ん中に箱火鉢を置き時々キセルをくわえ煙をくゆらしていた。子弟に読ませたり講義をされたり、教場は極めて厳格であった。(以下略)」

高山出身で、東大で夏目漱石の弟子であった野村傳四は、奈良図書館長の時に次の文章を残しています(渡口行雄氏の『大隅』第59号の文による)。
「私の実父は明治の初年が三十代であって、そのころ七、八年間郷校の平教員を勤めていた。その折の日記は今も大事に保存されており、それを読むと昔の学校先生は現今よりも暇で遊ぶことも遊んだに違いないが、一つだけ現代に見られぬ肝心なことがある。それは当時私の郷里には近郷に有名な漢学者があって、地方人は師匠といって尊んでいた。父は勤務の閑(ひま)をたのんで、大抵週に二回くらいの割で、この師匠の宅に行って教えを受けたことが記してある。」
文中の有名な漢学者とは、宇都宮東太でありましょう。昔の大人は仕事をしながらも私塾に通い、師匠から指導を受けていたことが分かります。

大隅各地に漢文で書かれた顕彰碑などの石碑があります。その中に東太が頼まれて書いたものが数多くあることからも、東太への世間の声望が高かったことがうかがわれます。
東太撰の石碑3連結


2 是枝柳右衛門
主に黒木弥千代著「幕末志士 是枝柳右衛門」(昭和38年9月発行 是枝翁顕彰会)から、以下に是枝柳右衛門の生涯を追ってみます。
是枝柳右衛門の肖像_800KB

是枝家は今の鹿児島市の谷山で代々商売をしていたが家運が傾いたため、柳右衛門が15歳の時に大隅の柏原(1年後に高山)に移住しました。柏原は柳右衛門の姉の嫁ぎ先があり、当時は海運などで賑わっていた場所でした。
柳右衛門は、老父母と弟妹を養うため、朝早くから波見で魚を仕入れ天秤棒を担いで魚の行商をしました。その過程で各地の情報を仕入れたり、顔見知りの客を増やすことが出来ました。
棒手振り姿_文字入

ある日、串良で有名な俳諧師の瀬戸山白菜先生の家に行き、先生から柳右衛門の淡々とした商売ぶりが気に入られ、俳句を習うことになりました。
20歳の時、柳右衛門は白菜門下の鍼灸師元林について鍼灸を学びました。芸は身を助くということで鍼灸術を修得したのです。

ある日、高山の麓の宇都宮東学院という修験道の塾から、柳右衛門に鍼灸の治療をしてもらいたいと、使いの者が招きに来たので、早速宇都宮家に飛んで行きました。柳右衛門が喜んだのは、実は鍼灸の商売ではなかったのです。東学院の子には東太という学者があって、若い学者として広く知られていました。柳右衛門は、かねてからどうかして東太先生に近づいて教えを乞いたいと思っていたところであったから、柳右衛門は神きの与えた好機とばかり喜んで、東太先生にお目にかかることができました。
東学院の子の東太先生は、父の鍼灸が終わってから柳右衛門に面接してお礼を言われました。先生は柳右衛門よりは一歳年下でした。

東太先生は「貴君は村中を歩き廻って商売をしているから、風雨の日はもちろん夜間に自分が寝た後でもかまわないから、遠慮なく門を叩いて下さい」と柳右衛門に言いました。大隅在住17ヶ年、この間東太先生についたのが10数年でした。しかも1日の間に2回もしくは3回も先生の門を叩いて、経義を学びしかも話し合うことを無上の楽しみとしました。これをもって、先生も柳右衛門の将来を嘱望し、親密な関係ができました。

柳右衛門は32歳で谷山に戻り、私塾を開き子弟の教育に尽くし、和歌では志士中の最大の歌人となりました。
勤王の志士の柳右衛門が一番先に企図したのは、徳川幕府の大老井伊直弼の暗殺でした。このため単身国を出たが、途中日向の細島で桜田門の変を聞き、後れをとった。このまま引返すわけにはいかないと決心した柳右衛門は、各地各藩の有名な志士を尋ねて互いに告示を談じ、また天下の形勢も探ることにしました。それから京都に入って、当時勤王の領袖と仰がれていた田中河内介に会い、更に河内介の手を経て中山大納言の父子や、右大臣の近衛忠熈公にも面談を許され、討幕と王政復古について、意見を具申しています。
彼に会った京都の公家、勤王の志士、薩摩藩の大老は、柳右衛門の人格と学識に感銘を受けて支援しました。

最後は寺田屋事件の関係者として屋久島に流され48歳の生涯をとじました。国を憂えて自ら討幕運動を指導した全国にただ一人の庶民志士でした。

黒木弥千代の「幕末志士 是枝柳右衛門」には、以下の柳右衛門評があります。
柳右衛門の偉かったのは、天性の資質に加うるに、恩師宇都宮先生の「身を殺して仁をなし、生きるを捨てて義を取れ」との訓陶によることながら、天秤棒を担いで魚塩を売り歩いていた小商人でいて、勤王のために一身を捧げたことである。士農工商の別ある時代、殊に薩摩では士族でなければ全く頭の上がらなかった環境のもとで、金もなければ藩のバックもない素商人でありながら、藩士でも出来なかった国事に尽瘁したということである。

また柳右衛門の偉かったのは、封建時代に町人の身でありながら、学文を深めていたということである。それであればこそ志士として立てたわけであるが、その学文の深さには全く驚くのほかはない。海防急務論にしても井伊大老斬奸状にしても、また短歌に長歌に、勤王節に遺訓に、その他多くの遺墨に、これらは何れも警世上に教育上に貴重な文献として残っている。短歌の如きは数百首にのぼり、志士中での最大歌人とされている。例えば「隼人の薩摩のこらか劔たちぬくとみるよりっ楯は砕くる」の如きは、歌人の川田順先生をして、維新の全国志士のなかで最も優れた作品であると絶賛せしめている。
是枝柳右衛門の書と本の連結

数え歌の勤王節は、薩摩教学の中心となった島津日新公の「いろは歌」にも比肩すると言われ、新納忠元の「兵児の歌」にも優るとされている。俳句にしても大家をなし、肖像画に自讚の長歌は、これまた柳右衛門の志操の真髄を示すと共に、万葉風の格調高い作品として味わわれる。」

是枝柳右衛門は、身分制度が厳しい幕末期に、魚の行商をしながら一家を支え、一流の漢学者に付いて学問を学び、一流の学識に達しました。一介の庶民志士が武士に混じって活発に討幕運動をしたのは、我が国では空前絶後のことです。
彼と会った庶民も武士も公家も、魅力ある人間性と学識に感銘を受け、信頼を寄せていました。このような偉人がいたことを知ると、元気をもらえ、発奮する契機にもなります。

また、
彼の恩師の宇都宮東太は、儒学や歌道を極め、さらに武道や華道の師匠でした。身分にこだわらずに門弟を受け入れ、弟子の家庭事情や能力に応じて指導法を変え、実践重視の知行合一の精神を打ち込んだそうです。度量の広い学者であったようで、門下生が千名もいたとは驚きです。この恩師の指導を得たので、柳右衛門の才能が大きく開花したものと思われます。
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無農薬・無肥料栽培を国策にしたい男の話

先日、私が感銘を受けた本「ローマ法王に米を食べさせた男 過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?」の著者・高野誠鮮(じょうせん)氏の講演を聴きました。演題は「スーパー公務員と言われた男の失敗履歴」です。なお、彼は現在、総務省地域力創造アドバイザー、僧侶住職です。

高野氏と本


講師は、石川県羽咋市の市役所職員の時に、奇想天外なアイデアを出して、驚くべき行動力で実行した結果、過疎の村に多くの若者を誘致し、農家の高収入化を達成させた人です。例えば、農産物をブランド化するために、ローマ法王に献上したり、ドローンで全国各地の米の品質を空から評価する商売をしたりと。

講演時間は2時間弱と長かったのですが、中身が濃くて迫力満点でした。特に、農村地帯の農家の収入が少なく、その対策に奔走した体験談に、講演者の並外れた才能が示されていました。

農家や肥料、農薬を販売する農協からの攻撃に屈せずに、無農薬・無肥料の米作りに突き進み、その米が高値で売れることを示しました。その結果、農家の収入が増え、反対していた農家と農協も協力者となり、無農薬・無肥料の米を1kg当たり2,000円や3000円で米国に輸出し、農薬・肥料・除草剤の販売を止めた全国で唯一の農協もできたなどは、全く驚きでした。

さらに、無農薬無肥料の穀物・野菜・果実は、収穫後に放置しても腐らずに、ミイラのように干乾びる、食べるとアレルギー体質が治るという情報は目からうろこでした。
  木村氏のりんご


現在、彼は自然栽培の農業を国策にして、農家の収入アップと国民の健康向上を実現するために奔走中と、元気とやる気一杯の人の話に、聴講者は釘付けでした。
何事も本質を追求し、あるべき姿を追い求め、戦略的に実行する僧侶らしい、また元スーパー公務員らしい内容の話でした。

現在、無農薬栽培をする人は多いが、無肥料栽培でミネラルやビタミンが豊富な穀物や野菜ができるのか、私にはわかりません。しかし、食すると、アレルギー体質が治るそうなので、歓迎したい。

以前に、このブログで、アメリカはビタミン・ミネラルの補給奨励により癌患者が減少を続けている一方で、日本の田畑はミネラル不足になり、また癌患者が増加傾向にあることを紹介しました。

無農薬・無肥料栽培を国策にして、農家の所得が上がり、国民が健康になって、癌患者が減少に転じることを期待したいです。
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竹細工名人に学ぶ

吾平小学校の正門の近くにある「諏訪竹細工店」の店主・諏訪辰士さんは、竹細工作りを62年間続けています。
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昔、鹿屋市の「連合竹細組合」にいた16人の組合員が、今では諏訪さん一人になったそうです。16人全員が、竹の産地で有名な薩摩半島の川辺出身者です。

諏訪さんの商品は、手作りの高品質が強味で、竹の外側の固い皮だけを使うので、長年使っても虫に食われて劣化することがないそうです。
安い海外品には竹の内側の白い所を使っているものがあるため、虫に食われて穴が開いたり、劣化して崩れたりしやすいそうです。
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1つの竹包丁で、竹を裂き、皮を剥ぐのですが、その幅や厚みを手の感覚で自在にできるのには驚きました。ここに至るには、長年の経験だけではなく、やる気と根性が必要な気がします。現に、技術を習いに来ても、長続きした人はいなかったそうです。
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この丸ザルの売値は50年前は500円で、米一升の価格と同じでしたが、今は1,800円です。手工芸品で、しかも職人も少なくなったので価格が上がるのは当然のことでしょう。
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味噌や茶の製造に使う巨大なザルも見せてもらいました。この大きなザルは二日間で作るそうです。
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自分が作った商品に責任と自信を持つ本物の職人に会えて、貴重なお話を聴くことができました。このような諏訪さんこそ、手抜きをせず、忍耐強く腕に磨きをかけてきた職人の名人です。

最近は大企業でデーター改竄問題が頻発していますが、そのような会社の社員は自社の製品に責任と自信を持って販売できるでしょうか? 経営陣と社員に自覚を促すために、諏訪さんの爪の垢を煎じて飲ませたいです。

竹細工の分野は、簡単に後継者を育てることもできず、実技指導以外で貴重な技術を後世に伝える方法もないので、このような名人がいることを書き残すことにも意味があるのでしょう。

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