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政治家の鏡・坂口助次郎町長

前回紹介した鎌田栄介村長の頌徳碑を昭和26年に建てたのは、姶良村の最後の村長で、また吾平町の初代町長の坂口助次郎氏です。この坂口町長だからこそ、鎌田栄介村長の業績を高く評価でき、それを後世に使えるために頌徳碑を建てたに違いないと思います。
この坂口町長は、2度の災難時に町民を奮い立たせる才能と実行力があった傑物でした。

1 桜島大噴火後の小学校校長の行動力
最近、垂水市の知人から、桜島の大正大噴火直後に垂水の小学校校長であった坂口助次郎のことを教えてもらいました。

桜島の大正大噴火は、 大正3年(1914年)1月12日 に発生し、大正4年(1915年)9月頃まで続いたと推定されていいます。20世紀以降で、日本で起きた火山噴火の中で噴出物量では最大であり、及ぼした被害は甚大でした。
桜島の大正大噴火_連結

その時の垂水市の新城村にあった新城小学校の職員が、桜島の大噴火で疲弊した新城村の復興を期して、ガリ版刷りの広報紙『新城時報』を毎月発行しました。創刊号は大正3年12月に出しました。その時の新城小学校の校長は33歳の坂口助次郎氏でした。彼は、後に初代の吾平町長になりました。

『新城時報』には、郷土の広範囲の情報が盛り込まれ、ユーモアを交えて読みやすく、また多くの村民を引き付けるような工夫がなされていました。
投稿者も多彩で、教職員、学生、住民などです。特に坂口校長は、村民を奮い立たせる内容の、論説や郷土の偉人の話など、多くの文章を書きました。

市役所などの行政機構ではなく小学校が、火山災害で苦しんでいる町民を奮い立たせようと、町民に広報紙を発行するという奇抜な発想と熱意と行動力は、おそらく前例がなく、町民への影響が大きかったものと思われます。それは坂口助次郎校長の指導力と胆力によるところが大きかったのでしょう。

2 敗戦後の村長・町長としての行動力
その後、坂口氏は昭和21年1月に姶良村(今の鹿児島県鹿屋市吾平町)の村長となり、昭和22年10月まで2期村長を務め、昭和22年10月15日に町制を施行して「姶良」を「吾平」と名称変更しました。そして昭和30年4月18日まで町長を2期務めました。
坂口町長と吾平町役場(S35町誌)_連結

昭和16年から始まった太平洋戦争が昭和20年に終わり、坂口村長は、昭和21年から敗戦で困窮し、打ちひしがれた村民を奮い立たせ、町制を進展させるために尽力しました。

以下が坂口氏の業績です。
①敗戦後の動揺した民心を安定し、困窮した町民の食料難を打開し、町の行政機構を刷新した。
②町制を実施して町政進展に一大企画をした。

③学制改革により吾平中学校を創設し、また町立の定時制高校を設立した。神野中学校を神野小学校と併設して独立校とした。
④吾平町立定時制高校を移転し校舎を新築した。また吾平中学校校舎及び鶴峰小学校講堂を新築した。吾平小学校に鉄筋コンクリート二階建てを建設した。鶴峰小学校危険校舎を改築しほとんど校舎を移転した。
⑤吾平町公民館を建設した。
⑥失業対策事業を実施し、またトラックを購入した。
⑦真戸原林道を新設した。
⑧国有林を払下げた。(福師山・小久保の一部)
⑨水流井堰(県営工事)新設工事および中央線(吾平から田代への道路)の新設工事に努力した。
⑩消防団員を増員し、その施設を充実した。
(以上の記述には、昭和35年3月発行の『吾平町誌(上巻)』を参考にしました。)
吾平の学校など_連結

戦後の財政的に厳しい9年間で、これほど多くの業績を残した地方自治体の首長は珍しいのではないでしょうか。

今の我が国にも、自分の利益や名声を上げることより、国民のための施策(安心できる生活対策や強固な国防・災害対策など)を優先して、次々に断行する実行力のあるリーダーの登場が切に望まれます。

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政治家の鏡・鎌田栄介村長

私は郷土の偉人や先覚者について興味があるので、各地の図書館に行って、そのような人について書いてある本探しをしています。
垂水市立図書館で、『不屈の系譜』(鹿児島新報社、昭和50年)をめくったら、世に知られていない鹿児島県の偉人の話がたくさんありました。
その中に、私が生まれた姶良町(今の鹿屋市吾平町)の第五代町長・鎌田栄介のことが書いてありました。初めて知ることばかりで、驚き感激しました。明治時代の日露戦争の頃の人です。

現在、政治家のパーティーなどによる政治資金集めや不正蓄財の話題が世間を賑わしています。国家や国民のことより、個人の懐具合や政治権力の増大に関心が高い政治家が多すぎることに呆れます。政治家の本来あるべき姿を知っていただくために、鎌田栄介について紹介します。

栄介は、地域の発展のためのビジョンを示して、率先垂範して実行し、住民や議員の反対があってもやり遂げて成果を出し、反対派からも感謝されました。

不屈の系譜と鎌田栄介


1 栄介の略歴
栄介は文久2年(1862年)10月17日、郷士・石井郷之進の二男として生まれました。長じて隣町の高山町長能寺に住む日高梅園の塾に学びました。彼は梅園のもとで和漢の教養につとめ、修身斉家、治国誠心の教えを界面のように吸収しました。
成人して栄介と改名。明治26年1月、姶良の郷士・鎌田八太郎の養子となり鎌田家を継ぐと同時に、村役場書記となって村政に足を踏み入れ、収入役、助役を経て、42歳で第5代村長に推されたのです。

2 村発展のビジョンを示す
当時の姶良村の財政は、この地方でこれほど悪いものはないといわれていました。基本財産としてはわずかな現金、米穀、土地小作米があるだけで、しかも度重なる洪水や干ばつで6000人の村民たちは貧乏にあえいでいました。
村を豊かにするには何から手を付けるべきか、それには「村有財産を築くこと」 これが栄介の持論でした。それには何がいいかといえば、多くの村有林を持つことで、官有林の払い下げを受けることが一番です。当時、山ほど使い出のあるものはなかったのです。しかし、村会議員の半数は反対しましたが、栄介は自分の主張を変えなかったのです。

3 お役人を圧倒した深夜の陳情
たまたま県の技師をつれて農商務省の役人が大隅半島一帯の山の調査に、串良に来ていると聞くと「このときを逃してなるものか」と、雨の夜闇をついて飛び出したのでした。姶良からは30km以上離れた串良の町に歩いていくと、灯はどこも消えている。降りしきる雨にいまにも消えそうな提灯の灯を頼りに、ようやく役人の泊っている宿を捜しあてました。
深夜の訪問に驚いて目をさました役人は、冷たい雨にぐしょぬれの栄介の姿に目をみはりました。
「姶良村の村長です。我が村に官有林を払い下ください」と、栄介のどら声が未明の宿に響きわたる。役人は「夜中に何ごとか、無礼ではないか」と怒鳴った。栄介は相手の顔をにらむように見つめて「事を起こすには時というものがある。」栄介は村の現状から説きおこし、官有林を払下げてもらうことで、いかに豊かになれるかを一気にまくしたてました。
さすがのお役人も圧倒されたようです。この冷たい雨の中を、遠く姶良から歩いて来た栄介の熱意に動かされ、「よし、わかった」という言葉が自然に出ていました。官有林の払下げは、そうやすやすいくものではない。姶良村の官有林払下げ運動は当時の走りで、立地条件の良い官有林が、村に払下げられたのは姶良村がはじめてでした。わずか1時間そこらの陳情で、許可の内意を得るなど前例のないことでした。
栄介の強引な陳情で、農商務省から村に払下げる官有林の調査が始められ、翌年秋には68町歩の第一回払下げがありました。続いて二回、三回の払下げがあり、総面積は250町歩に及びました。この村有林がそっくり、村の唯一の基本財産となりました。

4 反対にもめげず造林をやり遂げる
やがて払下げ村有林の造林が始まりました。これがまた大変でした。造林のために日に5、60人もの夫役が狩り出されることは、干ばつや洪水による耕作難、家畜の世話などのほか、そのほかにも何かと夫役の多い時代、はたして村民が豊かになるかどうかの保証もない山仕事に奉仕することは、格好の非難の対象でした。
またその山々は竹林が多く、深く根を張った竹を伐り、掘り起こし、そこに杉やヒノキを植えるのは大変な苦労でした。もちろん、栄介は毎日夫役の男女にまじって先頭に立ち、山グワやナタを手に、竹の根、木の根を掘り起こしました。村民も内申は不満たらたらでもやらないわけにはいかない。
大正10年の秋から杉林の間伐が行われたが、見事に生育した杉林を見て、かつて栄介を非難した村民、議員たちも、いつか感謝の心に変わっていました。

5 耕地整理をして農業が飛躍的に発展した
栄介は農産業の振興、教育についても大きな足跡を残しました。明治32年に耕地整理法ができ、翌年1月施工され、県下では年以降に盛んになる。姶良でも田畑が交錯して作業に不便なうえ、村内の川は大雨が降ればたちまち青田を荒れ流し、日照りが続けば砂原になってしまう有様でした。明治42年栄介は惜しまれながらも後進に道を譲ると、耕地整理組合長となり、大正7年再び村長に返り咲く間に、姶良、大姶良村の連合、麓、西佐古などほとんどの耕地整理に貢献、この結果農業は飛躍的に伸び、従来の湿田も二毛作化しました。農民も収入が増えて喜びました。
栄介はまた国分出身の農業技手の肥後要蔵を招き、その指導で植林や養蚕、タバコや普通作農業など一気に向上させました。肥後技手の給料は村長より上だったそうです。

6 学校は高台に建てて大志を
吾平、下名両尋常小学校の移転改築も栄介の英断でした。それまでは両校とも現在地の下にありました。栄介は「高いところに移して広々としたところで教育し、雄大な人物を育てねばならない」と力説しました。これにも金がかかるなどと多くの反対があったが、栄介ははねつけました。明治45年、高台に移転した両校のうち、吾平小の講堂は当時郡内最初の建物で、村民は「こんは広かもんをつくってバケモンが出やせんか」といったくらいです。高台にある両校は、その後の大水害の被害からも免れました。

後年、栄介は病の床につきました。しかし死期が近づいても生死を超越した境地でした。いよいよの間際まで村政は心を離れなかったそうです。昭和4年3月15日、みだりに山林を伐採するなーの遺言をして、68歳の生涯を閉じました。

昭和26年、役場横に栄介の頌徳碑が建てられました。栄介の第一の遺業「村有林」は現在まで中学校、高校の建築、しょうしゃな役場庁舎などに残されています。耕地整理による美田ともに末永く町民を潤してゆくことでしょう。                                      

鎌田栄介翁頌徳碑3連結

鎌田栄介の①政治家としてのビジョン提示、②率先垂範の行動力、③信念を曲げない粘り強さ、④公に身を捧げる私心の無さが、姶良村を豊かにし、現在の吾平町民もその恩恵に浴しています。
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史跡整備で「町おこし」の構想力に感銘!

2月27日に「鹿屋ふるさと探訪会」で伊佐市の史跡巡りをしました。南九州石塔研究会の福島洋子副会長と地元の郷土研究会の方に各所を案内していただきました。
その中で、大口城跡での調査・整備作業を見聞きし、市民による自発的な活動に感銘を受けました。
 
大口城は、平安末期の保元3(1158)年に、太秦元衡によって現在の大口小学校背後の裏山一帯に築かれました。
我々は、車で小学校の校舎の間を通り抜け、裏山に入る階段の所まで行きました。
大口城跡連結1  
細い山道を歩いて上りました。坂の上に出ると、二人の郷土史の専門家が待っていてくださり、説明を受けました。
現地説明と休憩の連結

 

平成28年から大口城の正確な測量図面を作成するため、毎週土曜日の午前中にボランティアにより、城跡の竹や雑木の伐採作業が続けられています。

坂の上から、3つの曲輪(くるわ城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域)が見えました。本丸(下記写真の右側)や二の丸(同左側)などがあった曲輪の広さは、鹿児島県内にある百ヶ所を越える山城で最大であると、同行した人から教えていただきました

大口城跡連結2

伐採、調査が終わった所は、草木が伸びて荒れないように、桜の苗を植えて、将来、歴史に思いを馳せることができる市民の憩いの場所とする作業も進められています。
 この趣旨に賛同する人を募り、苗木一本に二千円を払ったオーナーが植樹し、ネームプレートを付ける作業が始まりました。既に苗木160本が植えられ、今年は230本追加される予定です。
大口城跡連結3

このように時間をかけて史跡を整備して公園にする活動は、多くの市民の思い出作りとともに、将来は公園となって桜祭りなどの行事で賑わいをつくる”地域おこし”に発展することでしょう。

一つの場所で、ボランティアによる樹木の伐採、城の測量図面作り、市民による有料の記念植樹、将来の公園作りが並行して進められていました。素晴らしい構想の活動です。
お手本にしたい地域住民による夢のあるボランティア活動でした。
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マザー牧場に学びたい企画力とノウハウ

この春休みに、東京に住む息子家族と千葉県富津市にある「マザー牧場;花と動物たちのエンター
テイメントファーム」に行って来ました。東京からはアクアラインで東京湾を渡れば、すぐの所です。

マザー牧場」は、小高い鹿野山(かのうざん)にあり、房総半島の山々や東京湾、富士山などの雄大な景色が見渡せました。
入口と富士山

昔、来たことがある牧場ですが、全く様相が変わり、敷地と設備の規模が巨大になり、内容(できることなど)が多くなりました。イベントとショーが多いことも、お客を引き寄せる目玉です。
全景の結合

なにより驚いたのは、来客数の多さです。
ここに来てから乗り物のチケットや昼食のバーベキューの予約をとろうとしても、とれないことが多いので、今回は「はとバス」で行くことになりました。「はとバス」では、予定時刻に予約が取れているので、時間の制約はありますがスムーズに巡回できます。

来場者が多いのには、いくつかの理由が考えられますが、最大の理由は子供が喜ぶ動物との触れ合いができることであると思います。子供が行けば、家族や爺さん婆さんも一緒に行くので、人数も増えます。さらに、リピーターが多いことが、それに拍車をかけています。
なお、大人は花壇の花や、広大な斜面に咲く菜の花などを楽しむこともできます。

まずは、写真をご覧ください。多くの動物にエサをやったり、手でなでたりすることができます。
手で餌ヤリ

子どもが子豚のお尻や背を押して、競争させる「子豚レース」は特に人気があります。レース前に子供の手を消毒し、レース後は石鹸を付けて手を洗うようにさせています。抽選でレースに出るためのチケットを買うと、子豚のぬいぐるみがもらえます。
子豚レース

「アヒルの大行列」では、柵内に人を集めて、アヒルが靴を踏むくらいの近くまで寄ってきます。
アヒルの大行列

トラクターが引くトロッコのような車から見る、「牧羊犬」が人の指示通りに羊を追い回す光景は迫力がありました。動物が沢山いればよいのではなく、その見せ方の工夫が人を引き付けるのでしょう。
牧羊犬追い回し

ここで思ったことがあります。わが故郷の鹿屋市は畜産で有名な所です。鹿屋バラ園を拡大して、畜産大国にふさわしい「ミニマザー牧場」を作れば、大隅圏内の子ども達が喜んで来て動物と触れ合うことができ、一年中、楽しめて賑わう場所になるだろうなと。

当然のことながら、植物よりは動物は管理が難しく、子供との触れ合いやレースに慣れさせるには時間とノウハウの蓄積が必要なことでしょう。
しかし、「マザー牧場」という大成功した先例があるので、失敗を恐れずに、小さな一歩からチャレンジしてほしいと思いました。
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鹿屋市吾平町にある黒羽子(くろはね)観光農園の魅力

知人から近くにある吾平(あいら)町の黒羽子(くろはね)観光農園で、落花生とブルーベリーの収穫の最盛期と聴いて、その観光農園に行ってきました。

吾平山陵への入り口から入り、県立大隅広域公園の入り口の近に、黒羽子観光農園に入る道があります。以前に「吾平町黒羽子の「隠れ念仏洞穴」へ行く」に示した「写真1」の道です。

その道を150mくらい進み、左折してに旗が並んだ道に入ると、観光農園があります。

観光農園



この観光農園には4軒の農園があり、主にぶどうを生産販売しているそうです。有馬農園(☎090-3602-6133)に車を停めて、店を兼ねた小屋をのぞくと、落花生とブルーベリーが置いてありました。販売価格は、落花生が700円/kg、ブルーベリーが1,500円/kgでした。

落花生とブルーベリー



ブルーベリーが大きくて、甘いのには驚きました。今までは甘酸っぱいブルーベリーしか食べたことが無かったからです。一袋を買い求めました。

有馬農園だけは、ぶどうも売り始めたと、巨峰と竜宝を試食させてくれましたが、これも甘くてお勧めの物産です。8月1日からは、4農園でぶどうを販売する予定でだそうです。

ブドウと木



店の目の周囲に、落花生、ブルーベリーとぶどうの畑がありました。ブルーベリーの畑に、農園の人に案内してもらいました。どの木にも、ブルーベリーの実が枝もたわわに生っていました。地面には雑草がおおっていましたが、このようにしないと美味しい実が生らないそうです。

ブルーベリー木2本



今の時期は、木から採った実を食べられるそうです。今は夏休みでもあるので、子どもたちにブルーベリー狩りをさせたら、喜ぶだろうなと思いました。摘んだものを買うより、摘む体験の方が喜びが大きいはずです。

ブルーベリーの実合体



落花生畑では、収穫の人と実を取る人が作業中でした。

落花生収穫作業



この農園の近くには、「県立大隅広域公園」、

噴水広場と冒険の谷660KB



宮内省の管轄で”小伊勢”と言われている「吾平山上陵」という名所があり、

手洗場と岩屋



「吾平物産館 つわぶき」((☎0994-58-8907、水曜日は休業)では、食事と土産の購入ができるので、家族連れで遊びに来るには格好の場所です。


それにしても、来客が少なそうな場所です。観光、農園、遊び、食事をセットにした広報やツアー企画など、一工夫が必要です。いつかは、まちおこしのモデル地区になりそうな所でした。
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山間地の廃校での祭典はなぜできたか?

神野祭典チラシ合体
11月26日に、吾平町の旧神野小学校で「おおすみ食とマルシェの祭典」が開催されました。


花マルシェ
雨天にもかかわらず、千人を超える人が来て、約60店舗からなる「おおすみハナマルシェ」が買い物客で賑わいました。特に、体育館内の店舗は人で混雑していました。


料理
校舎の二階の教室では、神野の食材をたくさん使った食事(税込3,500円)が、地元の女性グループや鹿屋中央高校の学生などの協力を得て、予約した80人に提供されていました。メニューは門料理研究家の門倉多仁亜(タニア)さんの監修によるものです。


教室の飾り付け
校舎内のデコレーションも、土地の物や学校の教材などを使い、品良くて趣がありました。廃校とは思えない、見違えるような雰囲気に変わりました。窓から望める中岳(吾平富士)などの山々の景色も、来客に安らぎを与えたことでしょう。


旧神野小学校
神野地区は山間地であり、人口が200人弱、高齢化率(65歳以上の高齢者人口が総人口に占める割合)が51%です。

このような場所に、大勢の人が集まる理由は何だろうと考えてみました。
普通は、門倉多仁亜さんと「おおすみハナマルシェ」という知れ渡った名前が最初に上がることでしょう。しかし、その前に、地元の人のやる気・情熱が伝わったので、門倉多仁亜さんと「おおすみハナマルシェ」を引き付けたように思います。関係者の何回かの打ち合わせ、食材と料理の検討・試作、会場準備などにも苦労はありますが、一致協力してできたようです。

吾平町内の10町内会で、ダントツに人口が少ない町内会が神野です。その神野町内会が、今年の吾平町の運動会(体育祭)で総合得点で1位になったのです。それは、前回のブログで紹介した、宮口侗廸(としみち)氏が言う『地域のパワーは、「人口 × 関係の濃さ」である』から推測できます。

すなわち、神野では、人口は少ないが、人間関係が極めて濃密であるから、地域のパワーがあるのです。濃密な人間関係は、地域リーダーが育っていて、日ごろの人付き合いが多いためだと、私は考えています。
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地域おこしは人間関係の濃さと地域リーダーの有無がミソ

農山村

都会地から、高齢者の多い郷里の農村に移り住み、予想外であったのが、社会生活面での人間関係の希薄さです。
田舎の人の方が団結力が強く、地域社会への貢献度が大きいという、私の先入観、思い込みが強すぎたせいかもしれません。

都会地での人間関係の希薄さは、よく言われていることですが、それは近所付き合いのことだと思います。農山村の郷里に戻って来て、小さいときからの知り合いという関係からか、都会地よりは近所の人と声を掛け合う機会は多いですが、特別に多いというわけでもありません。

具体的な「社会生活面での人間関係の希薄さ」とは、地域で目的を持って、顔なじみの集まりがあっても、議論が少なく、提案などの前向きの発言がなく、一向に盛り上がらない静かな場となるようなことです。

先日、早稲田大学名誉教授 宮口侗廸(としみち)氏の講演で、『地域のパワーは、「人口 × 関係の濃さ」であり、「濃さ」がプラスになる仕組みづくりが大事になる。』ということを聴き、私の実感から、これが地域おこしのポイントであると思いました。

人口が減る地域は、関係の濃さを増す努力をしなければ、地域のパワーは衰えます。一般には、人口が減ると関係の濃さは薄まるので、地域のパワーは急速に衰えることになるはずです。

では、関係の濃さを増す努力とは何でしょうか。私は、人が集う機会を減らさない、できれば意識的に作ることであると思います。人が減り高齢化して、地域の担い手が少なくなっても地域行事を止めないとか、あるいは高齢者も参加しやすい形に変えて継続することなどです。

運動会

しかし、このような努力は、良くても現状維持、普通は延命措置のようなことではないでしょうか。

関係の濃さを増す手っ取り早い対策は、「飲み会」です。
ところが、私が住む田舎には近くに居酒屋がなく、交通の便が悪いため、町の居酒屋に行くにはマイカーを使わざるを得ません。帰りは運転代行を使うため、飲み代の倍の費用が掛かることになります。
今は、田舎でも自宅に他人を呼んで飲食することが稀になったため、この手っ取り早い手が使いにくくなりました。この面でも、田舎にはハンデイがあります。
宮口侗廸氏が提唱される「1集落1カフェ論」の方が、、「飲み会」より現実的なのかもしれません。

地域を盛り上げる、現状維持を超えて、活気をよみがえらせるには、地域を引っ張る地域リーダーが必要です。リーダーとなるには、冷めた人でなく、燃えた人に魅力があり適任で、人を引き付けるのです。その育成の努力は欠かせません。

基本的な制度と運営の仕組みを作るのは、行政の務めです。行政の知恵と実行力が物を言い、地域格差を広げることにもなります。

進歩や成果が見えにくい「地域おこし」「まちおこし」は、教育と似ています。

今回は、私が最近考えていることの総論でした。
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