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日本古代史の驚きの”事実と新説”

最近、古代史研究家の内倉武久氏に初めてお目にかかり、近々、大隅に移住されて古代史研究を進められると伺いました。
内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”を読むと、私には初めて知る驚くべき内容が多く、しかもその内容には裏付けと論理性があるので説得力があります。

うっちゃん先生の古代史


以下に、私が驚いたことの中から、内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”から、4つの文章を青字で引用します。①と④は「ブログNo.002 列島へ漂着した三つの「大族」について」、②と③は「ブログNo.47 九州政権実在のデータ 詐欺的手法で抹殺図る」に書かれています。なお、写真や図は、私が文章に関連しそうなものを入れました。

① 熊襲は中国からのボートピープルで、高度な技術を身につけていた。
「熊曾於(熊襲)」族は紀元前5~4世紀ごろ?から、南九州一帯を拠点にして九州全域を勢力下に置いていた巨大氏族の総称である。『日本書紀』が説く日本史の上では「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は,弥生時代前期から中期にかけてと思われる。
なぜそれがわかるかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」や独特の墳墓の形に解明のかぎがある。先祖の一人はお姫様と結婚した飼い犬の「盤古」であったという氏族伝承をもつ。焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくためにどうしても犬が必要であり、家族同様の伴侶であったからこのような伝説が生まれた。元来は中国大陸全域を支配していた現在の少数民族の多くと熊曾於族が同様の伝説をもっていた。
 「熊襲」は『日本書紀』の表記であるが、彼ら自身は自らのことを「熊曾於(くまそお)族」と自称していたらしい。「熊」には動物のクマのほか「輝かしい」という意味があるのである。「我々は輝かしい曾於(soo)族である」と誇っていたのだ。中国でも少数民族の総称を「sou」と呼んでいる。
 彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33.2センチ)が出土している。同じ形式の玉璧は広東省の南越王墓など中国大陸海岸部から多数出土している。現在、中国山東省南部や江蘇省北部,などからから熊曾於族の墳墓である地下式横穴墓や地下式板積み墓と全く同じものが多数発掘されている。」


地下式横穴墓連結2

② 大和政権の前に九州政権があり、九州年号があった。
「大和政権が初めて建てた年号は701年の「大宝」である(続日本紀)。それ以前に九州倭(ヰ)政権が522年から建てた「九州年号」があり、「古事記」「日本書紀」以外の数多くの史書に明記されている(「続日本紀」、「二中歴」、「興福寺年代記」、「日本大文典」、「海東諸国紀」など)。さらに神社の縁起など青森から鹿児島まで全国で約400件の実際の使用例が見つかっている。最近でも江戸時代にこの年号を記した文書が発見されている。この年号の存在が当時でも一般の人の常識であったことがわかる。
年号を制定し、時の指標とさせることができるのは「政権」や「天皇」だけである。701年以前、列島で年号を建てる権限をもっていた、すなわち列島を支配していた「天皇」は九州倭政権の天皇であったと考えるほかない。」


九州年号_800KB

③ 近畿にある主要な前方後円墳の石棺に、熊本で造られた阿蘇石を使っている。
「日本独自の古墳の形とされる「前方後円墳」について考古学研究者の多くが「大和政権が採用した古墳の形である」とし、これが全国にあることで「大和政権」が3,4世紀ごろから全国を支配していた証拠だと解説している。
 ところが発掘された近畿の主要な前方後円墳(大王墓とされる)の多くに九州・熊本で造られた石棺が納められていることがわかってきた。考古学研究者の多くがこのことにほっかむりをしている。
そして、全国の「前方後円墳」について放射性炭素(C14)による年代測定など確実な年代測定をしないまま、ホケノ山古墳や箸墓など大和の一部の古墳だけについて年代測定をし、「大和の前方後円墳が一番古い」などと誰が聞いてもおかしいと思われる見解を出している。
これは「日本では大昔から政権と言えるのは大和にあった政権だけである」と解釈される「日本書紀」の記述を鵜呑みにした説であり、それ以外の根拠は全くない。
「九州製石棺」問題は、近畿の前方後円墳などに葬られているのは九州政権から派遣された官人(熊曾於や紀氏族)が葬られている、と解釈すべきであろう。
「前方後円墳」の副葬品の中に貝製品を模したお守り(魔除け=石釧、鍬形石など)が数多く存在するのも、被葬者が九州の鹿児島、宮崎、熊本、大分などに渡来し、日本人化した東アジアの南方出身者である証拠であると考えるほかない(ブログNo.5、7,8参照)。」


④ 『日本書紀』は「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」ことにするための偽書である。
「『日本書紀』はいわゆる「大和政権」が8世紀初めに日本の支配権を奪還した後に作った「史書」である(「大和」の本来の呼称は「ワ」か。「大」は美称)。であるから長年「大和(ワ)勢力」を押さえつけてきた熊曾於族や紀氏主体の九州倭(い)政権、そして「邪馬壹国」の存在をその「史書」から消し去り、「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」というあり得ない話を作りあげた。歴史的「偽書」である。そして7世紀末から8世紀初めごろ、分裂した熊曾於族や紀氏の一部らを徹底的に殺戮(さつりく)し、あるいは徹底抗戦を貫いた「紀氏」を含む人々を賤民(せんみん)に落としたのである。
 「不倶載天(ふぐさいてん)の敵」であるとして彼らを「狗人(いぬびと)」とか「隼人(はやひと)」と呼んで、あたかも「蛮族」であるかのごとく記述して報復したのである。」


なお、上記①にある「九州政権」と「九州年号」は、内倉氏の師匠筋にあたる古田武彦氏が最初に提唱しました。そこで、古田武彦著「失われた九州王朝 天皇家以前の古代史」(ミネルヴァ書房)を読んでみました(下記写真の左側)。

古田武彦本2冊_800KB

この本は、多くの出土物、隣国の史料を多角的に緻密に検討して、「九州政権」の存在を明らかにしています。これに対して、逐一反論できる人はいないと思いました。そして、古田武彦氏は以下のように断言していました。
「九州の倭国こそ、1~7世紀の間の、日本列島代表の王者だった。これに対し、8世紀以降、倭国の分流であった日本国(近畿天皇家)が、白村江で完敗した倭国に代わり、これを”併呑”して新たに日本列島の代表の王者となった」
「日本書紀は『九州年号』を否定するために作られた」

なお内倉氏は、新たに見いだされたデータを付けて、古田氏と同じく、九州政権の首都は大宰府にあったと講演され、書物も著されています。

私は、従来の古代史の資料には、遺跡や出土物や史料の記載が多く、それらが語る”人間の物語”が少ないのを物足りなく思っていました。今回、内倉武久氏と古田武彦氏が書かれた古代史の資料を読み、生きた人間の歴史が脳裏に想い浮かぶ楽しさを味わいました。

内倉武久氏の書籍は売り切れて在庫がないものが多いようですが、出版社に『熊襲は列島を席巻していた 九州倭政権と「蛮族」の実像』と『卑弥呼と神武が明かす古代 日本誕生の真実』があったので註文しました。早く手にとって読みたいと思ってます。

内倉武久本4冊

また今後、内倉氏が大隅で新たな古代史の実像を掘り起こして、提示してくださることを期待しています。
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薩摩藩の暗黒史 ⑩男色の流行

男色秘戯画帖合体
                      図 登場人物は全員男性(『男色秘戯画帖』より)

男色趣味は、薩摩趣味って言われた時代もあったそうで、薩摩は男色(男子の同性愛)の盛んな所として知られています。


武士道とエロス
氏家幹人著「武士道とエロス」(講談社現代新書)によると、薩摩の青少年の「郷中教育」における少年(稚児:チゴ)と青年(二才:ニセ)との排他的な親密な関係に、性的な匂いを感じ取るべきと書いています。

また、薩摩隼人たちの極端な女性忌避の気風。いきおい男女交際の機会はせばめられ、郷中で日々行動を共にする同性の仲間たちとの絆ばかりが固くなったにちがいありません。

本富安四郎は小学校教員として鹿児島に赴任して、薩摩の習俗や風土を調査研究した成果を著書「薩摩見聞録」にまとめて、明治三十一年に出版しました。同書の中にも、男色の習俗が書きとめられています。男色は「蛮風」にして「醜事」にはちがいないが、この風潮によって彼らの士道教育を円滑にしたことは否めない、といっています。

白州正子著「両性具有の美」によると、青少年が婦女子なんかに関わって軟弱になることを防ぎ、勇敢な士風を養うには男色が必要!とされていました。


武士の世界では、薩摩に限らず女性忌避の風潮が男色の温床になったようですが、薩摩はそれが極端に多かったようです。

鎖国状態の薩摩藩における、青少年団体の「郷中教育」、極端な女性忌避の気風、士道教育の徹底などが、同士愛の男色を称揚することにつながり、極めて多い下級武士による監視社会がそれに拍車をかけたのではないかと私は考えています。

このブログの「薩摩藩の暗黒史」を振り返ると、薩摩藩には、過酷な税制、極端な廃仏毀釈、徹底した愚民化政策など、「過激」「極端」「徹底」「行き過ぎ」な政策や風潮が多いです。そのことが「男色」の伝統をつくり、温存させたと思えてなりません。

今では鹿児島県民が良く使う「てげてげ」(「そこそこ、適当に」という意味)という言葉は、薩摩藩では排斥されていたのでしょうか。それとも、過激な藩政に対する皮肉や抵抗の意味が込められて、庶民に広まった言葉なのでしょうか。そのように考えたくなるような、極端すぎて、今ではあまりにも非常識で閉鎖的な薩摩藩の社会が想像されます。

ここで、私はゲイが悪いとは主張していません。男色が広く流行する社会は異常で、中でも薩摩で突出している現象が暗黒史に含めて良いと考えているだけです。

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薩摩藩の暗黒史 ⑨強制移住政策「人配(にんべ・にんばい)」

最近、知人から大隅史談会会報「大隅」に掲載された森田慶信著「さつま峠物語 人配峠」(1990年~1999年)という、第9部まである物語風郷土史論文のコピーを借りて、読みました。それを参考にして、薩摩藩の政策である「人配」について書きます。

江戸時代初期(明暦・万治)から幕末期までの約三百年間、薩摩藩では、薩摩半島(西目)から大隅半島(東目)に人を半ば強制的に移動させて、農耕をさせる政策をとりました。

この政策を「人配」と呼び、読み方は「にんべ」または「にんばい」です移った人々を「永代移者」と呼び、名寄帳に加え、門(かど)の籍に入れました。
門とは、農民を数軒から多くても20軒程度のグループに分けて支配する制度で、そのグループには地名などからとられた門名(かどな)という名前が付けられました。

この強制移住の圧政には、苦悩したり不満をもった人が少なからずいたでしょうから、暗黒史に加えました。なお、藩政以後は、自由を求めて大隅半島に移住した人が多かったそうです。

江戸時代後期には、東目の人口減少と農村荒廃が激しかったので、耕地面積に対して過剰人口の西目からの人配が繰り替えされました。西目の口減らしもあったようです。

薩摩半島の農耕は、狭い田畑が多く密集し、大地の谷間にある水田、川端にある腰まで入り込む水田が多かったそうで、田畑の収穫は平均以下でした。
当時の常食は、米十、唐芋(薩摩芋)二十、粟三十、蕎麦・麦十という割合でした。しかし現実は、米飯は盆と正月だけであったといいます。

人配の対象は、門百姓はじめ郷士・町人にまでおよんでいます。

姶良郷(今の吾平町)への移住者の場合は、薩摩半島から鹿児島湾を藩船でわたり、高須・浜田を経て瀬筒峠を越えました。この峠は、永代移者が故郷の薩摩半島を望む最後の場所であったので、「人配峠」と呼びます。
その後、大姶良、南を経て姶良に着きました。この道筋を「人配街道」と呼びます。


下名の水田地帯
人配の人たちは、それぞれに定められた門に入り、用水路開拓、新田開発、畑地開発に努め、今日の「美里(うましさと)吾平」の美田をつくりました。上の写真は、今の下名地区の水田地帯です。


下名人配・永代移者顕彰碑
吾平町下名には、姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑が平成九年に建立されています。

大隅の歴史や風土について啓発される内容が多いブログ「鴨着く島」には、「この碑文を書いた元大隅史談会会長の故森田先生によると、延宝年間から350年にわたって陸続と移住行われたが、現在の吾平町の四軒に一軒は「人配」による移住者の後裔であろうとのことで、いかに彼らが刻苦勉励してこの地に取り組んできたかを記念する石碑ということであった。」と書かれています。

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薩摩藩の暗黒史 ⑧偽造密勅と御用盗

小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、真の王政復古を実現するには、武力で完膚なきまでに倒幕する必要があるとして、岩倉具視らの公家と謀って、1867年に偽造した「倒幕の密勅」を薩摩・長州両藩に下しました。密勅の効果は絶大で、薩摩藩は一挙に出兵と決まりました。

今吉弘著「鹿児島県の不思議事典」(新人物往来社)によると、昭和になってから公開されたこの密勅には、御璽(天皇の印)も署名者の花押も摂政などの署名もなく、通常の勅書とは異なっています。


倒幕の密勅888KB

倒幕の密勅


1868年1月3日の小御所会議(京都の小御所での国政会議)では、大久保らが強硬な態度に出て、前年の11月に大政奉還した慶喜に辞官・納地を命じることまでさせました。

さらに、薩摩藩邸に「御用盗」という盗賊団をかくまって、江戸市中で暴行略奪、辻斬り、放火と暴れまわって、幕府側を挑発しました。これに憤慨した市中警備の庄内藩士が、薩摩藩邸を焼き討ちしたため、西郷らが意図した戦端につながり、1868年1月27日からの鳥羽伏見の戦いへの導火線となりました。

その結果、1869年10月に戊辰戦争が終結するまで、旧幕府軍と新政府軍の双方に、多くの戦死者などの犠牲がでました。

西郷が関与した江戸城の「無血開城」は、当時、人口100万人の大都会であった江戸を戦場としなかった大きな成果であります。しかし、武力倒幕を狙った薩摩藩の策謀が、広範囲にわたる内戦の流血をもたらしたことや、今でもそれが薩長への遺恨として残っていることを、歴史の教訓として、忘れてはならないと思います。

今回まで8回書いた「薩摩藩の暗黒史」をながめてみると、薩摩藩の「強権」・「無法」政策による、偏狭・頑迷な「我を通すための謀略」、「激しい身分差別」および「宗教・文化の過度の軽視」が目立ちます。その根になる背景には、南九州の「弱い生産力」があります。
鹿児島県内では、個人レベルでも行政レベルでも、これらのことを今でも大なり小なりに引き継いでいるように思えます。

この「薩摩藩の暗黒史」を書いたのは、過去の諸悪を暴いて溜飲を下げたり、面白がるためではありません。歴史に学び、自分や地域のあるべき姿とその方策を考え直す契機にしたいためです。
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薩摩藩の暗黒史 ⑦密貿易

薩摩藩は、鎖国後は琉球を通じての中国との貿易を、諸藩のなかで唯一認められ、莫大な利益をあげたといわれています。さらに民間の貿易商、その後には藩が直接関与して中国(清国)との密貿易(抜け荷)を幕末まで行っていました

薩摩藩の輸入品としては絹製品・丁子・生糸・鮫皮、輸出品は銀・乾昆布・いりこ・干鮑などでした。例えば昆布は、北海道から北前船で本州に運ばれ、富山の売薬商人を介して薩摩にもたらされ、そこから遠く琉球、ひいては中国まで流通しました。

家老の調所笑左衛門が、藩の御用商人として密貿易に活用したのが、指宿の浜崎太平次です。南原幹雄著「豪商伝 薩摩・指宿の太平次」(角川文庫)には、海運商「山木」の八代目・浜崎太平次の波乱に満ちた生涯が描かれています。

浜崎太平次は、アメリカの西南戦争で世界的な綿花不足になった際に、綿花貿易で薩摩藩に巨利をもたらしました。その他にもテングサを原料に寒天を作り、ロシアや清国に輸出したり、奄美大島で醤油を製造してフランスに輸出したりするなど、多方面の貿易、海運で活躍した豪商です。


寒天工場

寒天工場の説明板

寒天工場跡と説明板



貿易の拠点となったのが唐入町です。森勝彦氏の“南九州における唐人町に関する覚書”によると、唐人町は西日本に広く存在し、 図1のように南九州に最も多かったそうです。

唐人町分布図


上記論文には、唐人町は「東南アジアのチャイナタウンと異なり日本人との雑居であり二世以降は目本名を名乗り完全に帰化したことや商人だけでなく特殊技能者も多かったこと、大名と密接なつながりがあった初期豪商が支配する流通網には入れなかったこと、排他的な特殊な社会とはみなされていなかったが鎖国以降は長崎の唐人屋敷のみが存在を許されたこと等の指摘がなされている」と書かれています。
ということは、薩摩藩は、民間の密貿易(抜け荷)を黙認していたことになります。さらに、民間の密貿易の黙認を裏書きすることを、以下に示します。

山脇悌二郎著「抜け荷 鎖国時代の密貿易」(日経新書)によると、「幕府は、抜け荷犯の裁判権を、その手に握っていて、およそ、大名たちが犯人を捕らえると、長崎か大阪へ送らせて、奉行に裁かせることにしていた。」とのことです。

刑罰は、時代によって異なり、寛刑と厳刑をくり返していましたが、いずれも抜け荷の禁圧には無力でした。「大名領での犯人の検挙が、ほとんど放置された」こともその原因でした。
特に、「薩摩藩のごときは最も悪質であって、抜け荷の取締りを放任し、幕府が、犯人をさし出せと命じても、病死したとか、逃走したとかとなえて、一度として犯人をさし出したことがなかったのである。」


密貿易の本2冊

薩摩藩の密貿易関連の本


薩摩藩は、財政の立て直しのために、密貿易という国家に対する裏切り行為を続けました。地理的にも政治的にも言語的にも、他藩から隔離された状況をつくりやすかったことが、この行為に拍車をかけたのでしょう。
民間の密貿易を黙認できたのは、藩による民間への締め付けが徹底していたためではないでしょうか。

<管理人より> 急に多忙になりましたので、今後はこのブログの更新の間隔が長くなると思います。
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薩摩藩の暗黒史 ⑥偽金づくり

偽金づくり本と通貨

薩摩藩は、財政建て直しのために、法を犯して大規模な偽金作りと密貿易をしました。
今回は、主に徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」(新人物往来社、2010年刊)を参照して、薩摩藩の「偽金づくり」の概要を記してみました。

藩の財政援助策として鋳銭事業を計画した島津斉彬は、本格的な偽金づくりをする前の1858年に亡くなりました。その後、薩摩藩は琉球救済の名目で、領内のみで3年間通用させるとして、「琉球通宝」の鋳造を幕府に申請しました。用意周到な薩摩藩の策略が続きます。

1862(文久2)年に幕府から許可が下りると、薩摩藩は、名勝 仙巌園(磯庭園)がある磯に鋳造所を設置して、幕府に認められた「琉球通宝」の鋳造を開始しました。職工が200人もいる、大規模な鋳造工場でした。その後、鋳造工場は西田に移ります。

1863年から幕府からは禁止されていた偽金「天保通宝」、さらに1865年から偽金「二分金」の密造を本格的に推進しました。偽金「二分金」の密造場所はいまだに不明です。

偽金の「二分金」は金メッキした銀です。通称「天ぷら金」といわれました。本物の「二分金」は金と銀の混合貨幣で、当時は金の含有量が22%程度だったそうです。

江戸の通貨

徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」に掲載の貨幣の写真



偽金「天保通宝」の原材料の銅を入手するために、藩内の寺院の梵鐘を壊して鋳つぶしましたが、それでも足りないので、全国からも集めました。薩摩藩の廃仏毀釈の目的には、偽金作りが隠されていたのです。

藩の鋳造責任者であった市来四郎が、偽造した「天保通宝」の金額を日記に記しており、290万両という額に達したそうです。薩英戦争の後、負けた薩摩藩がイギリスに支払った賠償金が6万333両であったので、その金額の多さがわかります。偽金「天保通宝」は、広島、京都、大阪などで流通しました。

イギリス艦隊に敗北して、一層の財政難になると、偽金づくりはかえって盛大な事業となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造されました。
薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用し、琉球通宝は三井組で換金する仕組みができていました。

なお、偽金づくりには家老の調所(ずしょ)笑左衛門は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通でした。

偽金作りと密貿易で貯め込んだ資金は、薩摩藩の討幕運動や殖産興業に役立ったので、「悪銭身につかず」にはならなかったのです。薩摩の「名君」には、幕府をだます策略と大胆不敵な実行力がありました
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薩摩藩の暗黒史 ⑤愚民化政策

主に中村明蔵著「薩摩 民衆支配の構造」(南方新社、2000年刊)を参照して、薩摩藩の教育事情を調べてみました。

薩摩藩の造士館


薩摩藩の藩校・造士館


薩摩藩の武士は総人口の26.4%であり、全国平均の5.7%の5倍と極めて多かったのです。その武士には、教育制度として郷中教育があり、その他に藩校(造士館)と郷校がありました。

残りの73.6%の庶民の教育はどうだったのでしょうか。他藩には多くの寺子屋がありましたが、薩摩藩の寺子屋は皆無に近かったのです。今の鹿児島市に1校、川辺郡に13校、大島郡に5校の計19校で、大隅半島には0校でした。私塾は鹿児島市にわずか1校でした。全国最多の長野県には、寺子屋が1,341校もありました。

農民は苛斂誅求と公役による過重な負担で、寺子屋があっても行くための暇と金がなかったのです。農民をこき使いたい武士にとっては、愚民化政策が好都合でした。

郷土史家から聴いた話ですが、大隅の平民には学問は不要、とまで武士から言われていたそうです。

薩摩藩の風俗・奇聞を書きとめた本「倭文麻環(しずのおだまき)」に、
「民は文字を不識(しらざる)より、良きはなし…。今の部官岡田氏、吾薩摩藩の農民、一丁字を識らず、邑(むら)に一揆の乱なく、速やかに上命に走るを聞て、曰く、誠に結繩(おおむかし)の遺民なり。宣(うべ)なる乎、字を識る、患難の本と、嘆嗟せしとかや」との記述があります。

原口虎雄は著書「幕末の薩摩」の中で、「倭文麻環」の上記の文を含むいくつかの文を紹介して、薩摩武士が「偏狭頑迷の弊に流れてしまったがよくわかる。要するに、いくら封建の世とはいえ、世間知らずの井の中の蛙がうようよしていたのである」と結んでいます。

重要な国産品は藩専売として藩が独占していたので、商業も発達せず、商人教育の需要も無いに等しかったのです。

明治5年になって、小学校教育が始まりましたが、この愚民化政策が尾を引いていました。明治7年の文部省の資料によりますと、鹿児島県の就学率は7.1%で、全国平均の32%の約1/4と、全国最低でした。

以下の最近のデータで、鹿児島県は「雑誌・書籍購入費が少ない」とか、小学6年生と中学3年生を対象にした「全国学力テスト正答率が低い」ということは、薩摩藩の愚民化政策の影響が、現在まで尾を引いているのかと勘ぐりたくなるのは、考えすぎでしょうか?


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薩摩藩の暗黒史 ④徹底した廃仏毀釈

薩摩藩の廃仏毀釈は、過激で徹底し、寺と僧侶が完全に消滅しました。実際に破壊したのは下級武士でしたが、多くの民衆もそれを容認して協力したそうです。

島津家一族の菩提寺を含む1616の寺が全廃され、2966人の僧侶が還俗しました。そのため、住んでいる地域を歩き回ると、寺跡の標識や破壊された石仏をよく見かけます。

含粒寺跡

含粒寺跡(島津家7代元久の長男が開山)



江戸幕府は1613年にキリシタン禁制を打ち出して、その取り締まりのために檀家制度(寺請制度)を実施しました。ところが薩摩藩では檀家制度をとらず、武士集団が牛耳る五人組制度が、厳しい監視・取り締まりをしました。そのため、庶民は寺との日頃の付き合いが疎遠となり、廃仏毀釈への民衆の抵抗が少なかったといいます。

島津斉彬は国学のイデオロギーを背景に、軍費財源の調達もねらって、廃仏毀釈運動を先頭に立って進めました。その結果、美術品や史料などの貴重な文化財が破壊されたり、無くなりました。

玉泉寺跡

玉泉寺跡の石像



寺には「宗門人別帳」があり、その中に家族ごとの出身地・生年月日・続柄・宗旨・身分・収穫高が記載されていました。これを見ると、個人情報、人の活動記録、人と人とのつながりなどが分かるので、郷土史家には必須の資料です。ところが鹿児島県では、寺とともに「宗門人別帳」が全て消えたので、過去を解き明かす本線となる道が閉ざされています。

現在、鹿児島県では、庶民の墓は寺にありません。地区ごとの墓地にあります。鹿児島県の人は先祖供養に熱心であり、墓参りにはよく行きます。そのため、1世帯当たりの「切り花」の購入金額が全国一です。

芳 即正著「権力に抗った薩摩人」(南方新社)によると、藩の役人に知られずに、人々が堂々と念仏を唱えることができたのは、墓の前であったため、先祖供養の形で信仰が続けられたそうです。これが、鹿児島県民が墓を大事にする理由とされています。

「墓参り」の頻度は多くても、僧侶の説教を聴いたり、仏典を学ぶという「教え」に接する機会は少ないのです。これは寺と庶民を切り離すという、薩摩藩の方針の影響が、今日でも色濃く残っているためと考えられます。
結果的に、現在、寺離れが進んでいるという、日本人の宗教へのかかわり方を、鹿児島県では先取りしていたことになります。

以上より、薩摩藩には強権政治・恐怖政治が行きわたっていたことが分かります。
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薩摩藩の暗黒史 ③隠れ念仏

薩摩藩では廃仏毀釈のはるか前の1597年から、一向宗(浄土真宗)を禁制にしていました。一向宗の平等主義と団結力が、藩の支配体制には不都合であったからといわれています。

さらに、原口泉著「NHKかごしま歴史散歩」(日本放送出版協会)には、「経済的な理由が大きい。」とし、「“収奪本願”といわれるほどたくましい本願寺による農村搾取は、生産力の弱い薩摩藩の領主としては許容できるものではなかった。」と書かれています。その他にも、諸説があります。

幕府は民衆支配に一向宗の教団を利用しようとし、本願寺側も寺請制度を通じて檀徒との結び付きを強めて、幕府に協力しました。その結果、本願寺は、江戸時代に日本の総人口の半数を檀徒に擁する最大の教団となりました。

しかし、南九州の人吉藩と薩摩藩は、一向宗を禁止しつづけたため、信者は隠れ念仏となったのです。信者は、武士、農民・庶民にまで広範囲にわたっています。


花尾かくれ念仏洞


花尾かくれ念仏洞


一向宗の寺院がないので、信者は「講」という秘密組織をつくって、土蔵の二階や山中の洞穴(ガマ)に夜間集まり、ご本尊の阿弥陀仏を拝みました。「隠れ洞穴」「念仏洞」と呼ばれる洞穴は、今でも県内各地に残っています。

薩摩藩は、1635年ころから取り締まりを厳しくして、領民各人に名前・身分・宗旨などを書いた木札を交付して、定期的に調査・更新したり、宗体奉行と宗体座を設置して摘発体制を強化しました。
さらに、1768年には5人組で真宗信者を相互監視する制度を、1776年には密告制度をとって密告者を褒賞するようにしました。

摘発された信者には、財産没収、士籍剥奪、流刑、拷問・酷刑、斬罪、切腹などの刑罰が与えられました。伝えられている拷問・酷刑の数々は、あまりにも悲惨で、その様子を書く気にもなれません。まさに恐怖政治の世界でした。

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薩摩藩の暗黒史 ②苛斂誅求(黒糖の収奪体制)

薩摩藩は、財政面で古くから窮乏していました。藩政改革、列藩諸侯との縁組、南九州での長い騒乱、朝鮮出兵、参勤交代、木曽川治水普請、藩邸の火災、桜島噴火などにより、出費が多かったためです。


調所広郷像(尚古集成館蔵)

調所笑左衛門像(尚古集成館蔵)


8代藩主・島津重豪は薩摩藩の藩債500万両という天文学的借金を抱え、しかも金利1割2分で年間60万両の利子がかかっていたといわれています。家老や自らが改革しようとしましたが、上手く行きませんでした。そこで、下級武士出身の調所(ずしょ)笑左衛門(後に広郷)を見込んで、財政改革の大任を命じました

調所は、行政・農政改革の他、商人からの借金を無利子で250年分割払いにさせて踏み倒し、さらに琉球を通じて清と密貿易を行ないました。


さとうきび畑


サトウキビ畑



最大のドル箱は奄美の黒糖でしたので、藩は徐々に奄美三島(大島・喜界島・徳之島)での黒糖収奪の制度を強化しました。特に1777年の第一次黒糖専売制度により、奄美の島民は、黒糖生産の支障となる地元の風習を禁止され、休日も制限され、稲作も禁止されて黒糖生産のみ行うことを強いられることとなりました。

役人と豪農(役人の下の島役人)の公私混同の振る舞いも横行して、島民からの収奪が日常茶飯事となりました。藩は黒糖の見返りに、島民に米を配給しましたが、その交換比率は極端に低く抑えられたため、島民は飢えにうめきました。
その結果、島民が貧富の両極に分解して、多くの「潰れ村」と「家人(やんちゅう;借金で身売りした債務奴隷)」が発生しました。「家人」は島の人口の2~4割にも達しました。このような苛斂誅求により、農民が離散し、農村人口は著しく減少しました。

薩摩藩は、「奄美の黒糖」を上方市場に持ち込み、高級品として売り、富を蓄積して膨大な借金を返済し、さらに1840年には250万両を蓄財して、明治維新に備える軍資金までも手に入れました。その陰には、物言えぬ百姓の奴隷のような生活があったのです。

なお、藩財政の立て直しに成功した調所笑左衛門は、27代藩主になる前の島津斉彬に疎まれました。その背景には、島津藩のお家騒動があります。斉彬が老中・阿部正弘と謀って、阿部に密貿易について調所を追求させ、調所はその責任を取って自害し、遺族も罰せられました。
斉彬は、調所の残した黒糖の収奪体制を継承・強化し、その後に専売の地域に新たに2島を組み入れました。

薩摩藩では、最下層の民衆は人間扱いされなかったのです。
幕末に、「ブラック企業」ならぬ「ブラック藩」の大賞があれば、薩摩藩は過酷すぎる苛斂誅求を理由に、ノミネートされていたことでしょう。
「今の時代に生まれてよかった!」と思うのは、私だけではないはずです。
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