fc2ブログ

堅牢で優美な石橋の運命は?

1 大園橋について
鹿屋市祓川町にある「大園橋」は、我々が国道504号を通る際に美しい姿を楽しませてくれる、珍しく貴重な文化財です。明治37(1904)年に建造されてから豪雨などにも約120年間耐えてきた歴史的な建造物です。
大園橋21_800KB

橋の両端の親柱には、漢字と変体仮名で橋の名前と竣工年月が彫られています。
石に彫った文字

大園橋から見た上流側と下流側は、以下のような景色です。
大園橋の上流と下流_文字入

中央の橋脚には、流木が引っ掛かりにくいように凸部(水切り)が作られていましたが、その上部と前部の石が流失していることも知りました。
橋脚の鼻2_文字入

石材加工の専門家の川村忠氏から、橋の石材の大半は鹿屋市高須産の荒平石(阿多溶結凝灰岩)であり、優れた技術によりできた堅牢で貴重な建造物と聴きました。明治時代に鹿児島湾の近くの高須から内陸の祓川まで、多量の荒平石を馬車などで運んで、匠の技を持つことで有名であった伊敷(鹿児島)の石工達が橋を組み立てたと伝えられています。伊敷ではなく、小野と書かれた本もあります。

鹿児島市の甲突川には11の石橋が架けられていました。河川改修で次々と撤去され、今は上原橋しか残っていません。以下の写真の西田橋などの五石橋は、肥後の名石工と言われた岩永三五郎(1793~1851年)の指導で建造されました。なお、岩永三五郎は天保11(1840)年に、47歳の時に薩摩に来ました。
大園橋を建造した伊佐の石工達は、岩永三五郎の指導を受けた弟子と考えられます。
甲突川の西田橋

石橋が多い熊本から大園橋の調査に来られた熊本大学の山尾敏孝名誉教授(土木工学)と尾上一哉会長(石橋復元修理会社)から、現地でお話を伺いました。建造されてから117年経過した石橋で、これほど変形が少ないものは稀で、大園橋は高度な技術で造られたものと知りました。

明治37(1904)年に大金を使って祓川に立派な石橋を造った理由は何であったのでしょう。残念ながら、大園橋の建造当時の記録が見つからないので、推測するしかありません。中祓川の町内会長から聴いた話では、昔は鹿屋で最も納税額が多かったのが祓川地域であったそうです。農業や林業が盛んで、物流の要衝であったのかもしれません。
大隅史談会の『大隅』第48号(2005年)に掲載されている唐鎌祐祥氏による”鹿屋市文化遺跡地図(二)「祓川町」”には、旧藩時代に鹿屋に3ヶ所の役所があり、その1つが祓川の大園にあった国司ドン(ドンは神あるいは神聖視する所に付ける)にあり、「明治中ごろまで、上納米はここに集められ、高須に運ばれた。」と書かれています。恐らく、そのように重要な場所であったので立派な石橋を建造したのでしょう。

2 大園橋と水害問題
昨年7月の豪雨で肝属川に架かる大園橋に流木が引っかかり、川の近くの民家9戸が床上浸水した原因になったとして、地域住民が大園橋の撤去か移設を鹿屋市に要請しました。それを受けて市では、市指定有形文化財である大園橋の撤去の検討が始まるとの新聞報道がありました。鹿屋市文化財保護審議会で、大園橋の文化財としての価値を審議し、仮に文化財指定解除となれば、市は防災の観点から大園橋を撤去するようです。

木原安妹子著『里の石橋453 訊け!先人の槌音』(南方新社)によりますと、昭和59年に建設省大隅工事事務所が「大雨の時、雑木やゴミが橋にひっかかり、水があふれる恐れがあるとして、管理者の県鹿屋土木事務所に大園橋撤去を要請しました。しかし地元の人達の反対で、計画が撤回されました。
その後、大園橋の永久保存を目指して地元の人達は、大園橋の文化財指定を訴えましたが、県の態度は固く前進がありません。そこで鹿屋市に訴えました。市は橋を含む旧県道136mを県から払い下げてもらい、「市道」に変更しました。そして、ついに、昭和63年10月4日、大園橋は市の有形文化財に指定されました。

このように、今から37年前には、地元の人達の大園橋撤去反対の運動があったのです。その時には、昨年浸水した川の近くには住宅がなかったものと推測されます。
熊本大学の山尾敏孝名誉教授のお話によりますと、この浸水地域には川の堤防がないので、この橋の設計時には洪水の時の遊水地とみなされていた可能性が大きいそうです。

大園橋の約10m下流には、国道405号の橋があります。この橋は大園橋より更に低いので、大園橋を撤去したら、県道の橋に流木等が引っかかるなどして、洪水の危険性は少しも改善されません。

洪水対策は数多く考えられます。昔のように大園橋の上流に流木を止める杭を数本並べて設置する、バイパスの水路を造る、高い堤防を築く、下流の川の隘路を広げる、約300m下流にあるコンクリート製の井堰を可倒式にする、川底を定期的に浚渫する等々です。

今回のような災害問題が起きると、人命と文化財のどちらが重要か、というような二者択一の単純な議論にしたがる困った人がいるものです。また市側としても、再度洪水が生じた場合の住民からの抗議を心配して、安易な撤去を選択しがちです。しかし、声の大きな一部の地域住民の声を重視するのではなく、本来は多くの地域住民の本音と一般市民の多様な意見や提案を聴取すべきであり、洪水対策と文化財のあるべき姿を忍耐強く求めていただきたいと願っています。
個人的には、今では建造できない堅牢で美しい石橋の大園橋を撤去しないで、永久保存する知恵を鹿屋市が出していただきたいと切望しています。それができる有能な人材がいるはずです。

3 その他
大園橋の下流側にある池田病院の東側の駐車場の近くに、木造の「中原下橋」があります。橋脚はコンクリートですが、その上は木製で、風情のある橋です。大園橋を見に行かれたら、是非近くにある
「中原下橋」もご覧ください。
中原橋2連結
スポンサーサイト



テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(4)ウガヤの生誕地

ウガヤ生誕地の本と文


緑河創生著「大隅 昭和写真帖」(株式会社南方新社、2007年発行)を見ていたら、「ウガヤの生誕地」というぺージがありました。
その説明を読むと、その場所は、肝付町津曲の森神社跡で、その神殿内に石棺の一部が露出していたらしいです。

私は「日本の建国神話のはじまりの聖地」である大隅の関連遺跡に興味があるので、神武天皇の父親であるウガヤフキアエズノミコトの生誕地があるという肝付町津曲に行ってみることにしました。

津曲集落の消防車の車庫がある広場に車を置いて、庭で作業中の男性に「ウガヤの生誕地」の場所を尋ねたら、集落の外れに石碑があるとおおよその場所を教えてくれました。その辺りを歩いて回ったが場所が特定できなかったので、近くの家の庭に居た老夫婦に「大隅 昭和写真帖」を開いて生誕地について書いてあることを伝えたら、目の前の場所に違いないと、数十メートル離れた場所を教えてもらいました。


ウガヤ生誕地の現地
本の写真とは景色が変わっていたが、竹林の中に文字がない高さ2mくらいの平べったい天然石の碑が1つ建っていました。この孟宗竹林は真ん中が1m弱、盛り上がっていて、本に書いてあるように、田地にするために崩した古墳の跡だったのでしょう。古いブルーシートがしわくちゃになって石碑の近くに放置されていました。


石碑の表裏
石碑の表裏の写真です。この石碑は、古墳にあった石室の3枚の蓋石の1つで、本に書いてあるように、ここは「今は水田になってしまった旧肝属川沿いの竜神宮の拝殿跡地前」でしょう。


石室の蓋石
もう1枚は、「平田明宅庭横の道路沿いにイボの神として」いる石碑で、上記の写真の中央にあるものと思われます。残る1枚の「田中昇宅隣接のT字路角に安産の神として祀ってある」石は、老夫婦が確かにあると言っていたが、自分一人では見つけ出せませんでした。



この地をグーグルマップの写真で見ると、このあたりで旧肝属川は大きく蛇行していて、旧河川は大きく湾曲した2つの輪のようになっていたようです。ここはその輪が接近した場所のほぼ中間点にあたります。旧河川の形から、津曲という地名の由来がわかります。近くの肝属川を挟んで対岸のほぼ等距離の所に、唐仁古墳群があります。

ウガヤフキアエズノミコトのお墓は「吾平山陵」という素晴らしい名所になっていますが、残念ながら生誕伝承地は無残な姿になっていました。手を入れて、せめて、昔の神社や古墳があった当時の写真を付けた説明板でも置いて、往時をしのばれる場所にしていただきたいと思いました。
テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報