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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(5)ウガヤの生誕地 その後

5年前に本ブログで「(4)ウガヤの生誕地」を紹介しました。その後、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父親)の生誕地に関心のある人を数回現地に連れて行ったり、一人で訪れたりしました。そして、追加の情報を得たので、報告します。

この地をグーグルマップの写真で見ると、このあたりで旧肝属川(白色の線)は大きく蛇行していて、旧河川は大きく湾曲した二つの輪のようになっていたようです。その場所は二つの輪が接近した場所のほぼ中間点にあたります。旧河川の形から、津曲という地名の由来が納得できます。川を挟んだ北側には、県内最大規模の140基の唐仁古墳群があり、南側には日本最南端の前方後円墳を含む44基の塚崎古墳群があります。
水害後の河川改修_文字入5

『大隅昭和写真帖』の写真とは景色は変わっていましたが、この孟宗竹林は真ん中が1m弱、盛り上がっていて、本に書いてあるように、田地にするために崩した古墳(円墳)の跡であったのでしょう。昔は神殿内に石棺の一部が露出していたそうです。
津曲ウガヤ生誕地の竹林_連結

今ある一枚の天然石の石碑は、古墳にあった石棺の三枚の蓋石の一つで、『大隅昭和写真帖』に書いてあるように、ここは「今は水田になってしまった旧肝属川沿いの竜神宮の拝殿跡地前」でありましょう。
津曲ウガヤ生誕地_石碑2連結

蓋石のもう1枚は、「平田明宅庭横の道路沿いにイボの神として」いる石碑です。
津曲のイボの神の蓋石_3連結

残る一枚の「田中昇宅隣接のT字路角に安産の神として祀ってある」石は、田中宅横に生け垣に囲まれてありました。ここは別称が観音様で、ウガヤフキアエズノミコトが生まれた場所でありイヤ(胞衣)が祀ってあり、朱が埋めてあるといわれています。
津曲の安産の神の蓋石_3連結

令和2年10月20日に「ウガヤ生誕地」に隣接する家主の森園純治(すみはる)氏(86歳)が、畑の耕作のために現在お住いの根占から来ておられたので、以下のお話を聴きました。     

ここはトヨタマヒメが柏原で安産祈願のみそぎの潮がき(かけ)をして帰る時に急に産気づいたため、地元の人達が孟宗竹で産屋を急いで造って差し上げて、ウガヤフキアエズノミコトを出産した場所と伝えられている。出産時はウガヤが大蛇であったので、皆が恐れおののいてひれ伏したと伝えられている。

昔は12月28日に地元の人が一握りのワラを持ち寄って長さ11ヒロ(16.5m)と33ヒロ(49.5m)のしめ縄を作り、蛇の姿にして飾る祭りがあった。また今でも3月17日の野崎地区の鎌踊りの時は、津曲の人達が最初にここで棒踊りをしてから野崎の天道山の伊勢神社で踊っている。ここの石板は、ウガヤフキアエズノミコトの墓陵である吾平山陵を向いている。数年前に鹿児島大学の研究者が掘って調査した。

子供の頃には、安産祈願の妊婦がよくここに来て、賽銭を置いていった。それを隠れて見ていた子供らが、妊婦が去ると、我先にと賽銭を取りに行くのが楽しみであった。」    

なお、『大隅昭和写真帖』には、「現在は無いが、大正3、4年頃までの古い神殿は竹小屋風(円錐形)で、その中に七尋(ヒロ)半のメスの竜がトグロを巻いていた。そして13尋(ヒロ)のオスの竜がその竹小屋にからみついて、外側からちょうど雌竜を守っている格好だった。」と書いてあります。森園純治氏の話から、竜は蛇でありましょう。

内倉武久氏による説では、熊襲(熊曽於)は中国南部から渡来して大隅半島に最初に住み着きました。中国南部で伝統的に使っていたシンボル模様の一つが蛇です。蛇は水の神様だそうです。また円墳は熊襲がよく造っていたので、両者があった森園神社には熊襲の足跡が残っていたと考えることができます。

参考文献
・緑河創生著『大隅昭和写真帖』(株式会社南方新社、2002年発行)
・内倉武久著『熊襲は列島を席巻していた』(ミネルバ書房、2013年発行)

本二冊

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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

日本古代史の驚きの”事実と新説”

最近、古代史研究家の内倉武久氏に初めてお目にかかり、近々、大隅に移住されて古代史研究を進められると伺いました。
内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”を読むと、私には初めて知る驚くべき内容が多く、しかもその内容には裏付けと論理性があるので説得力があります。

うっちゃん先生の古代史


以下に、私が驚いたことの中から、内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”から、4つの文章を青字で引用します。①と④は「ブログNo.002 列島へ漂着した三つの「大族」について」、②と③は「ブログNo.47 九州政権実在のデータ 詐欺的手法で抹殺図る」に書かれています。なお、写真や図は、私が文章に関連しそうなものを入れました。

① 熊襲は中国からのボートピープルで、高度な技術を身につけていた。
「熊曾於(熊襲)」族は紀元前5~4世紀ごろ?から、南九州一帯を拠点にして九州全域を勢力下に置いていた巨大氏族の総称である。『日本書紀』が説く日本史の上では「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は,弥生時代前期から中期にかけてと思われる。
なぜそれがわかるかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」や独特の墳墓の形に解明のかぎがある。先祖の一人はお姫様と結婚した飼い犬の「盤古」であったという氏族伝承をもつ。焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくためにどうしても犬が必要であり、家族同様の伴侶であったからこのような伝説が生まれた。元来は中国大陸全域を支配していた現在の少数民族の多くと熊曾於族が同様の伝説をもっていた。
 「熊襲」は『日本書紀』の表記であるが、彼ら自身は自らのことを「熊曾於(くまそお)族」と自称していたらしい。「熊」には動物のクマのほか「輝かしい」という意味があるのである。「我々は輝かしい曾於(soo)族である」と誇っていたのだ。中国でも少数民族の総称を「sou」と呼んでいる。
 彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33.2センチ)が出土している。同じ形式の玉璧は広東省の南越王墓など中国大陸海岸部から多数出土している。現在、中国山東省南部や江蘇省北部,などからから熊曾於族の墳墓である地下式横穴墓や地下式板積み墓と全く同じものが多数発掘されている。」


地下式横穴墓連結2

② 大和政権の前に九州政権があり、九州年号があった。
「大和政権が初めて建てた年号は701年の「大宝」である(続日本紀)。それ以前に九州倭(ヰ)政権が522年から建てた「九州年号」があり、「古事記」「日本書紀」以外の数多くの史書に明記されている(「続日本紀」、「二中歴」、「興福寺年代記」、「日本大文典」、「海東諸国紀」など)。さらに神社の縁起など青森から鹿児島まで全国で約400件の実際の使用例が見つかっている。最近でも江戸時代にこの年号を記した文書が発見されている。この年号の存在が当時でも一般の人の常識であったことがわかる。
年号を制定し、時の指標とさせることができるのは「政権」や「天皇」だけである。701年以前、列島で年号を建てる権限をもっていた、すなわち列島を支配していた「天皇」は九州倭政権の天皇であったと考えるほかない。」


九州年号_800KB

③ 近畿にある主要な前方後円墳の石棺に、熊本で造られた阿蘇石を使っている。
「日本独自の古墳の形とされる「前方後円墳」について考古学研究者の多くが「大和政権が採用した古墳の形である」とし、これが全国にあることで「大和政権」が3,4世紀ごろから全国を支配していた証拠だと解説している。
 ところが発掘された近畿の主要な前方後円墳(大王墓とされる)の多くに九州・熊本で造られた石棺が納められていることがわかってきた。考古学研究者の多くがこのことにほっかむりをしている。
そして、全国の「前方後円墳」について放射性炭素(C14)による年代測定など確実な年代測定をしないまま、ホケノ山古墳や箸墓など大和の一部の古墳だけについて年代測定をし、「大和の前方後円墳が一番古い」などと誰が聞いてもおかしいと思われる見解を出している。
これは「日本では大昔から政権と言えるのは大和にあった政権だけである」と解釈される「日本書紀」の記述を鵜呑みにした説であり、それ以外の根拠は全くない。
「九州製石棺」問題は、近畿の前方後円墳などに葬られているのは九州政権から派遣された官人(熊曾於や紀氏族)が葬られている、と解釈すべきであろう。
「前方後円墳」の副葬品の中に貝製品を模したお守り(魔除け=石釧、鍬形石など)が数多く存在するのも、被葬者が九州の鹿児島、宮崎、熊本、大分などに渡来し、日本人化した東アジアの南方出身者である証拠であると考えるほかない(ブログNo.5、7,8参照)。」


④ 『日本書紀』は「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」ことにするための偽書である。
「『日本書紀』はいわゆる「大和政権」が8世紀初めに日本の支配権を奪還した後に作った「史書」である(「大和」の本来の呼称は「ワ」か。「大」は美称)。であるから長年「大和(ワ)勢力」を押さえつけてきた熊曾於族や紀氏主体の九州倭(い)政権、そして「邪馬壹国」の存在をその「史書」から消し去り、「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」というあり得ない話を作りあげた。歴史的「偽書」である。そして7世紀末から8世紀初めごろ、分裂した熊曾於族や紀氏の一部らを徹底的に殺戮(さつりく)し、あるいは徹底抗戦を貫いた「紀氏」を含む人々を賤民(せんみん)に落としたのである。
 「不倶載天(ふぐさいてん)の敵」であるとして彼らを「狗人(いぬびと)」とか「隼人(はやひと)」と呼んで、あたかも「蛮族」であるかのごとく記述して報復したのである。」


なお、上記①にある「九州政権」と「九州年号」は、内倉氏の師匠筋にあたる古田武彦氏が最初に提唱しました。そこで、古田武彦著「失われた九州王朝 天皇家以前の古代史」(ミネルヴァ書房)を読んでみました(下記写真の左側)。

古田武彦本2冊_800KB

この本は、多くの出土物、隣国の史料を多角的に緻密に検討して、「九州政権」の存在を明らかにしています。これに対して、逐一反論できる人はいないと思いました。そして、古田武彦氏は以下のように断言していました。
「九州の倭国こそ、1~7世紀の間の、日本列島代表の王者だった。これに対し、8世紀以降、倭国の分流であった日本国(近畿天皇家)が、白村江で完敗した倭国に代わり、これを”併呑”して新たに日本列島の代表の王者となった」
「日本書紀は『九州年号』を否定するために作られた」

なお内倉氏は、新たに見いだされたデータを付けて、古田氏と同じく、九州政権の首都は大宰府にあったと講演され、書物も著されています。

私は、従来の古代史の資料には、遺跡や出土物や史料の記載が多く、それらが語る”人間の物語”が少ないのを物足りなく思っていました。今回、内倉武久氏と古田武彦氏が書かれた古代史の資料を読み、生きた人間の歴史が脳裏に想い浮かぶ楽しさを味わいました。

内倉武久氏の書籍は売り切れて在庫がないものが多いようですが、出版社に『熊襲は列島を席巻していた 九州倭政権と「蛮族」の実像』と『卑弥呼と神武が明かす古代 日本誕生の真実』があったので註文しました。早く手にとって読みたいと思ってます。

内倉武久本4冊

また今後、内倉氏が大隅で新たな古代史の実像を掘り起こして、提示してくださることを期待しています。