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薩摩藩の暗黒史 補遺(ならず者の系譜)

1 巨悪を暴いた薩摩本
昨年、佐藤 眞著『薩摩という「ならず者」がいた。 誰も語らなかった明治維新秘史』( ケイアンドケイプレス)という、司馬遼太郎の本をひっくり返すような内容の薩摩本が出ました。
                薩摩というならず者_10

明治維新に薩摩藩が大きな役割を果たしたことは、よく知られています。しかし、その背景には島津斉彬が主導した国家反逆罪に相当する「贋金作り」による潤沢な資金がありました。この本では、斉彬は目的のためには手段を選ばない大胆で非情な男、テロリストと過激な表現をしています。

また、今も残る鹿児島県民のよそ者排除、男尊女卑と権威に弱い実態、過激すぎる廃仏毀釈により全ての寺院が破壊されたため、他県に比べて余りにも少なすぎる観光名所と文化財など、島津氏の圧政の影響が今日まで色濃く残っていることを証拠をあげて説明しています。

ここまで、島津氏の悪逆非道ぶりを書いた本は初めてだろうと思います。なお、この本の種本は、以下の写真の著者のラ・サール高校(鹿児島)での恩師と坂田吉雄・京大名誉教授の名著です。今後、著者は高校の同窓会には参加しくいことでしょう。
本二冊_20

2 大隅にあった文化財を持ち去った「ならず者」の子孫
私は大隅半島に移住してきてから、郷土史に興味を持って史跡巡りを始めました。南北朝・室町時代に鹿屋市内に建てられた有名な2つの寺の跡で、驚くべき光景を目にしました。

今から約600年前に建てられた島津氏一族の墓や供養塔がありました。それらは、重要な文化財として、地元人達が大切にしてきたものでした。当然、地元の郷土史(誌)にも記録が載っています。ところが、島津氏の子孫が昭和50(1975)年頃に、地元の了解も得ずに薩摩半島の鹿児島市にある島津墓地に移設してしまいました。昭和の御代になってから、墓参りや先祖供養が楽になるように、一族の墓を1ヶ所に集めたものと推測されます。

現在、2つの寺跡には墓や供養塔を囲んでいた石柵が残るだけです。もぬけの殻になった墓地を、地元では草刈りをしたり、史跡としての說明の石碑など建てて、今でも大事にしています。
以下に、重要な文化財としての2つの寺跡ついて説明し、もぬけの殻になった石柵の写真を示します。

① 龍翔寺跡(鹿屋市大姶良町)
日本百僧の一人に数えられる名僧の玉山玄堤(ぎょくざんげんてい)和尚が、大姶良城主の楡井頼仲の招きにより、大姶良に「瑞雲山龍翔寺」を建立して初代住職となりました。この寺は560年ほど続きましたが、明治初年からの廃仏毀釈で壊されてしまいました。

この寺には、大隅の守護(今の県知事)となった6代島津氏久(1328~1387年、南北朝期)の供養塔と遺命(死ぬ時に残した命令)により氏久夫婦の墓塔もありましたが、昭和50年ころに鹿児島市の島津墓地に移されました。今は大きな石柵だけが残っています。
大隅史談会の『大隅』(1963年)に、墓塔などがあった当時のボヤケた写真が載っていましたので、現在の石柵の写真と並べて示します。
龍翔寺島津の墓の今と昔の連結

② 含粒寺跡(鹿屋市吾平町)
7代島津元久の長男・忠翁和尚(1379~1445年、室町時代)が正長2(1429)年に建てた曹洞宗・福昌寺の末寺です。忠翁の尽力もあり、含粒寺は大隅中部における仏教文化の拠点となりました。忠翁は永享4(1432)年には総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)の76世に出世し、朝廷から紫衣を勅許されました。文安2(1445)年6月7日に67歳で亡くなりました。

含粒寺には忠翁の母(島津元久夫人)と妹の墓もありました。御南御前(16代肝付兼続夫人、島津忠良・日新斎の長女)も、ここに埋葬されたと記す資料もあります。大きな石柵が残っているので、立派な墓塔が建っていたと思われます。残念ながら、当時の写真は見つかりません。
含粒寺跡石柵と案内の連結

含粒寺は約440年間続きましたが、明治2(1869)年に廃寺になり、大姶良の南地区の玄朗寺と合体して移築されて、再興されました。廃仏後に再興されるのは珍しいことです。それほど重要な寺であったのでしょう。

含粒寺には山中八景といって、当時は八つの美しい景色(山頂羅漢、屋後の瀑布、座禅石、南池白蓮、大谷藪竹、門頭屏風岩、囲山流水、寺前石橋)を見ることのできる場所でした。大正15年発行の「姶良村誌」の巻頭に掲載の写真の中に2枚の「門頭屏風岩」があり、周囲の景色は変わりましたが、今も磨崖仏が彫られた「門頭屏風岩」を見ることができます。
仲翁和尚を火葬した場所は、「門頭屏風岩」の下の田圃で、そこに梅寿中翁灰塚(火葬)の碑(墓)が建てられました。しかし、この塚も持ち去られ、石柵だけが残っています。現在の写真と、以前の姿を写した大正15年発行の「姶良村誌」および昭和35年発行の「吾平町誌 下巻」(右端)の写真を、以下に示します。
含粒寺灰塚の今と昔の連結_文字入

ここには歴代のお坊さん等の墓が28基ありました。その多くは破壊されて、埋もれていましたが、鹿屋市の郷土史家が掘り起こして、石柵の横の斜面に並べました。今も現地に無残な姿で残されています。
これも整備して島津墓地に移設できなかったのでしょうか。島津氏が建てた重要な寺を支えてきた和尚たちの墓は、島津氏の子孫には取るに足りない物で、打ち捨てられたのでしょうか。
含粒寺の僧の墓と全景の連結

21世紀になりました。島津氏の子孫は、数世紀前の江戸時代には許された傍若無人の「ならず者」の振る舞いとは決別していただきたい。そして、地元鹿屋市民の気持ちを重んじて、昭和の時代に黙って持ち去った文化財を、元あった場所に戻していただきたいと切に希望します。夫婦の墓塔を大姶良に建てることを、遺命で残した島津氏久他のご先祖も喜ばれることでしょう。
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薩摩藩の暗黒史 ⑩男色の流行

男色秘戯画帖合体
                      図 登場人物は全員男性(『男色秘戯画帖』より)

男色趣味は、薩摩趣味って言われた時代もあったそうで、薩摩は男色(男子の同性愛)の盛んな所として知られています。


武士道とエロス
氏家幹人著「武士道とエロス」(講談社現代新書)によると、薩摩の青少年の「郷中教育」における少年(稚児:チゴ)と青年(二才:ニセ)との排他的な親密な関係に、性的な匂いを感じ取るべきと書いています。

また、薩摩隼人たちの極端な女性忌避の気風。いきおい男女交際の機会はせばめられ、郷中で日々行動を共にする同性の仲間たちとの絆ばかりが固くなったにちがいありません。

本富安四郎は小学校教員として鹿児島に赴任して、薩摩の習俗や風土を調査研究した成果を著書「薩摩見聞録」にまとめて、明治三十一年に出版しました。同書の中にも、男色の習俗が書きとめられています。男色は「蛮風」にして「醜事」にはちがいないが、この風潮によって彼らの士道教育を円滑にしたことは否めない、といっています。

白州正子著「両性具有の美」によると、青少年が婦女子なんかに関わって軟弱になることを防ぎ、勇敢な士風を養うには男色が必要!とされていました。


武士の世界では、薩摩に限らず女性忌避の風潮が男色の温床になったようですが、薩摩はそれが極端に多かったようです。

鎖国状態の薩摩藩における、青少年団体の「郷中教育」、極端な女性忌避の気風、士道教育の徹底などが、同士愛の男色を称揚することにつながり、極めて多い下級武士による監視社会がそれに拍車をかけたのではないかと私は考えています。

このブログの「薩摩藩の暗黒史」を振り返ると、薩摩藩には、過酷な税制、極端な廃仏毀釈、徹底した愚民化政策など、「過激」「極端」「徹底」「行き過ぎ」な政策や風潮が多いです。そのことが「男色」の伝統をつくり、温存させたと思えてなりません。

今では鹿児島県民が良く使う「てげてげ」(「そこそこ、適当に」という意味)という言葉は、薩摩藩では排斥されていたのでしょうか。それとも、過激な藩政に対する皮肉や抵抗の意味が込められて、庶民に広まった言葉なのでしょうか。そのように考えたくなるような、極端すぎて、今ではあまりにも非常識で閉鎖的な薩摩藩の社会が想像されます。

ここで、私はゲイが悪いとは主張していません。男色が広く流行する社会は異常で、中でも薩摩で突出している現象が暗黒史に含めて良いと考えているだけです。

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薩摩藩の暗黒史 ⑨強制移住政策「人配(にんべ・にんばい)」

最近、知人から大隅史談会会報「大隅」に掲載された森田慶信著「さつま峠物語 人配峠」(1990年~1999年)という、第9部まである物語風郷土史論文のコピーを借りて、読みました。それを参考にして、薩摩藩の政策である「人配」について書きます。

江戸時代初期(明暦・万治)から幕末期までの約三百年間、薩摩藩では、薩摩半島(西目)から大隅半島(東目)に人を半ば強制的に移動させて、農耕をさせる政策をとりました。

この政策を「人配」と呼び、読み方は「にんべ」または「にんばい」です移った人々を「永代移者」と呼び、名寄帳に加え、門(かど)の籍に入れました。
門とは、農民を数軒から多くても20軒程度のグループに分けて支配する制度で、そのグループには地名などからとられた門名(かどな)という名前が付けられました。

この強制移住の圧政には、苦悩したり不満をもった人が少なからずいたでしょうから、暗黒史に加えました。なお、藩政以後は、自由を求めて大隅半島に移住した人が多かったそうです。

江戸時代後期には、東目の人口減少と農村荒廃が激しかったので、耕地面積に対して過剰人口の西目からの人配が繰り替えされました。西目の口減らしもあったようです。

薩摩半島の農耕は、狭い田畑が多く密集し、大地の谷間にある水田、川端にある腰まで入り込む水田が多かったそうで、田畑の収穫は平均以下でした。
当時の常食は、米十、唐芋(薩摩芋)二十、粟三十、蕎麦・麦十という割合でした。しかし現実は、米飯は盆と正月だけであったといいます。

人配の対象は、門百姓はじめ郷士・町人にまでおよんでいます。

姶良郷(今の吾平町)への移住者の場合は、薩摩半島から鹿児島湾を藩船でわたり、高須・浜田を経て瀬筒峠を越えました。この峠は、永代移者が故郷の薩摩半島を望む最後の場所であったので、「人配峠」と呼びます。
その後、大姶良、南を経て姶良に着きました。この道筋を「人配街道」と呼びます。


下名の水田地帯
人配の人たちは、それぞれに定められた門に入り、用水路開拓、新田開発、畑地開発に努め、今日の「美里(うましさと)吾平」の美田をつくりました。上の写真は、今の下名地区の水田地帯です。


下名人配・永代移者顕彰碑
吾平町下名には、姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑が平成九年に建立されています。

大隅の歴史や風土について啓発される内容が多いブログ「鴨着く島」には、「この碑文を書いた元大隅史談会会長の故森田先生によると、延宝年間から350年にわたって陸続と移住行われたが、現在の吾平町の四軒に一軒は「人配」による移住者の後裔であろうとのことで、いかに彼らが刻苦勉励してこの地に取り組んできたかを記念する石碑ということであった。」と書かれています。

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薩摩藩の暗黒史 ⑧偽造密勅と御用盗

小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、真の王政復古を実現するには、武力で完膚なきまでに倒幕する必要があるとして、岩倉具視らの公家と謀って、1867年に偽造した「倒幕の密勅」を薩摩・長州両藩に下しました。密勅の効果は絶大で、薩摩藩は一挙に出兵と決まりました。

今吉弘著「鹿児島県の不思議事典」(新人物往来社)によると、昭和になってから公開されたこの密勅には、御璽(天皇の印)も署名者の花押も摂政などの署名もなく、通常の勅書とは異なっています。


倒幕の密勅888KB

倒幕の密勅


1868年1月3日の小御所会議(京都の小御所での国政会議)では、大久保らが強硬な態度に出て、前年の11月に大政奉還した慶喜に辞官・納地を命じることまでさせました。

さらに、薩摩藩邸に「御用盗」という盗賊団をかくまって、江戸市中で暴行略奪、辻斬り、放火と暴れまわって、幕府側を挑発しました。これに憤慨した市中警備の庄内藩士が、薩摩藩邸を焼き討ちしたため、西郷らが意図した戦端につながり、1868年1月27日からの鳥羽伏見の戦いへの導火線となりました。

その結果、1869年10月に戊辰戦争が終結するまで、旧幕府軍と新政府軍の双方に、多くの戦死者などの犠牲がでました。

西郷が関与した江戸城の「無血開城」は、当時、人口100万人の大都会であった江戸を戦場としなかった大きな成果であります。しかし、武力倒幕を狙った薩摩藩の策謀が、広範囲にわたる内戦の流血をもたらしたことや、今でもそれが薩長への遺恨として残っていることを、歴史の教訓として、忘れてはならないと思います。

今回まで8回書いた「薩摩藩の暗黒史」をながめてみると、薩摩藩の「強権」・「無法」政策による、偏狭・頑迷な「我を通すための謀略」、「激しい身分差別」および「宗教・文化の過度の軽視」が目立ちます。その根になる背景には、南九州の「弱い生産力」があります。
鹿児島県内では、個人レベルでも行政レベルでも、これらのことを今でも大なり小なりに引き継いでいるように思えます。

この「薩摩藩の暗黒史」を書いたのは、過去の諸悪を暴いて溜飲を下げたり、面白がるためではありません。歴史に学び、自分や地域のあるべき姿とその方策を考え直す契機にしたいためです。
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薩摩藩の暗黒史 ⑦密貿易

薩摩藩は、鎖国後は琉球を通じての中国との貿易を、諸藩のなかで唯一認められ、莫大な利益をあげたといわれています。さらに民間の貿易商、その後には藩が直接関与して中国(清国)との密貿易(抜け荷)を幕末まで行っていました

薩摩藩の輸入品としては絹製品・丁子・生糸・鮫皮、輸出品は銀・乾昆布・いりこ・干鮑などでした。例えば昆布は、北海道から北前船で本州に運ばれ、富山の売薬商人を介して薩摩にもたらされ、そこから遠く琉球、ひいては中国まで流通しました。

家老の調所笑左衛門が、藩の御用商人として密貿易に活用したのが、指宿の浜崎太平次です。南原幹雄著「豪商伝 薩摩・指宿の太平次」(角川文庫)には、海運商「山木」の八代目・浜崎太平次の波乱に満ちた生涯が描かれています。

浜崎太平次は、アメリカの西南戦争で世界的な綿花不足になった際に、綿花貿易で薩摩藩に巨利をもたらしました。その他にもテングサを原料に寒天を作り、ロシアや清国に輸出したり、奄美大島で醤油を製造してフランスに輸出したりするなど、多方面の貿易、海運で活躍した豪商です。


寒天工場

寒天工場の説明板

寒天工場跡と説明板



貿易の拠点となったのが唐入町です。森勝彦氏の“南九州における唐人町に関する覚書”によると、唐人町は西日本に広く存在し、 図1のように南九州に最も多かったそうです。

唐人町分布図


上記論文には、唐人町は「東南アジアのチャイナタウンと異なり日本人との雑居であり二世以降は目本名を名乗り完全に帰化したことや商人だけでなく特殊技能者も多かったこと、大名と密接なつながりがあった初期豪商が支配する流通網には入れなかったこと、排他的な特殊な社会とはみなされていなかったが鎖国以降は長崎の唐人屋敷のみが存在を許されたこと等の指摘がなされている」と書かれています。
ということは、薩摩藩は、民間の密貿易(抜け荷)を黙認していたことになります。さらに、民間の密貿易の黙認を裏書きすることを、以下に示します。

山脇悌二郎著「抜け荷 鎖国時代の密貿易」(日経新書)によると、「幕府は、抜け荷犯の裁判権を、その手に握っていて、およそ、大名たちが犯人を捕らえると、長崎か大阪へ送らせて、奉行に裁かせることにしていた。」とのことです。

刑罰は、時代によって異なり、寛刑と厳刑をくり返していましたが、いずれも抜け荷の禁圧には無力でした。「大名領での犯人の検挙が、ほとんど放置された」こともその原因でした。
特に、「薩摩藩のごときは最も悪質であって、抜け荷の取締りを放任し、幕府が、犯人をさし出せと命じても、病死したとか、逃走したとかとなえて、一度として犯人をさし出したことがなかったのである。」


密貿易の本2冊

薩摩藩の密貿易関連の本


薩摩藩は、財政の立て直しのために、密貿易という国家に対する裏切り行為を続けました。地理的にも政治的にも言語的にも、他藩から隔離された状況をつくりやすかったことが、この行為に拍車をかけたのでしょう。
民間の密貿易を黙認できたのは、藩による民間への締め付けが徹底していたためではないでしょうか。

<管理人より> 急に多忙になりましたので、今後はこのブログの更新の間隔が長くなると思います。
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薩摩藩の暗黒史 ⑥偽金づくり

偽金づくり本と通貨

薩摩藩は、財政建て直しのために、法を犯して大規模な偽金作りと密貿易をしました。
今回は、主に徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」(新人物往来社、2010年刊)を参照して、薩摩藩の「偽金づくり」の概要を記してみました。

藩の財政援助策として鋳銭事業を計画した島津斉彬は、本格的な偽金づくりをする前の1858年に亡くなりました。その後、薩摩藩は琉球救済の名目で、領内のみで3年間通用させるとして、「琉球通宝」の鋳造を幕府に申請しました。用意周到な薩摩藩の策略が続きます。

1862(文久2)年に幕府から許可が下りると、薩摩藩は、名勝 仙巌園(磯庭園)がある磯に鋳造所を設置して、幕府に認められた「琉球通宝」の鋳造を開始しました。職工が200人もいる、大規模な鋳造工場でした。その後、鋳造工場は西田に移ります。

1863年から幕府からは禁止されていた偽金「天保通宝」、さらに1865年から偽金「二分金」の密造を本格的に推進しました。偽金「二分金」の密造場所はいまだに不明です。

偽金の「二分金」は金メッキした銀です。通称「天ぷら金」といわれました。本物の「二分金」は金と銀の混合貨幣で、当時は金の含有量が22%程度だったそうです。

江戸の通貨

徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」に掲載の貨幣の写真



偽金「天保通宝」の原材料の銅を入手するために、藩内の寺院の梵鐘を壊して鋳つぶしましたが、それでも足りないので、全国からも集めました。薩摩藩の廃仏毀釈の目的には、偽金作りが隠されていたのです。

藩の鋳造責任者であった市来四郎が、偽造した「天保通宝」の金額を日記に記しており、290万両という額に達したそうです。薩英戦争の後、負けた薩摩藩がイギリスに支払った賠償金が6万333両であったので、その金額の多さがわかります。偽金「天保通宝」は、広島、京都、大阪などで流通しました。

イギリス艦隊に敗北して、一層の財政難になると、偽金づくりはかえって盛大な事業となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造されました。
薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用し、琉球通宝は三井組で換金する仕組みができていました。

なお、偽金づくりには家老の調所(ずしょ)笑左衛門は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通でした。

偽金作りと密貿易で貯め込んだ資金は、薩摩藩の討幕運動や殖産興業に役立ったので、「悪銭身につかず」にはならなかったのです。薩摩の「名君」には、幕府をだます策略と大胆不敵な実行力がありました
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薩摩藩の暗黒史 ⑤愚民化政策

主に中村明蔵著「薩摩 民衆支配の構造」(南方新社、2000年刊)を参照して、薩摩藩の教育事情を調べてみました。

薩摩藩の造士館


薩摩藩の藩校・造士館


薩摩藩の武士は総人口の26.4%であり、全国平均の5.7%の5倍と極めて多かったのです。その武士には、教育制度として郷中教育があり、その他に藩校(造士館)と郷校がありました。

残りの73.6%の庶民の教育はどうだったのでしょうか。他藩には多くの寺子屋がありましたが、薩摩藩の寺子屋は皆無に近かったのです。今の鹿児島市に1校、川辺郡に13校、大島郡に5校の計19校で、大隅半島には0校でした。私塾は鹿児島市にわずか1校でした。全国最多の長野県には、寺子屋が1,341校もありました。

農民は苛斂誅求と公役による過重な負担で、寺子屋があっても行くための暇と金がなかったのです。農民をこき使いたい武士にとっては、愚民化政策が好都合でした。

郷土史家から聴いた話ですが、大隅の平民には学問は不要、とまで武士から言われていたそうです。

薩摩藩の風俗・奇聞を書きとめた本「倭文麻環(しずのおだまき)」に、
「民は文字を不識(しらざる)より、良きはなし…。今の部官岡田氏、吾薩摩藩の農民、一丁字を識らず、邑(むら)に一揆の乱なく、速やかに上命に走るを聞て、曰く、誠に結繩(おおむかし)の遺民なり。宣(うべ)なる乎、字を識る、患難の本と、嘆嗟せしとかや」との記述があります。

原口虎雄は著書「幕末の薩摩」の中で、「倭文麻環」の上記の文を含むいくつかの文を紹介して、薩摩武士が「偏狭頑迷の弊に流れてしまったがよくわかる。要するに、いくら封建の世とはいえ、世間知らずの井の中の蛙がうようよしていたのである」と結んでいます。

重要な国産品は藩専売として藩が独占していたので、商業も発達せず、商人教育の需要も無いに等しかったのです。

明治5年になって、小学校教育が始まりましたが、この愚民化政策が尾を引いていました。明治7年の文部省の資料によりますと、鹿児島県の就学率は7.1%で、全国平均の32%の約1/4と、全国最低でした。

以下の最近のデータで、鹿児島県は「雑誌・書籍購入費が少ない」とか、小学6年生と中学3年生を対象にした「全国学力テスト正答率が低い」ということは、薩摩藩の愚民化政策の影響が、現在まで尾を引いているのかと勘ぐりたくなるのは、考えすぎでしょうか?


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薩摩藩の暗黒史 ④徹底した廃仏毀釈

薩摩藩の廃仏毀釈は、過激で徹底し、寺と僧侶が完全に消滅しました。実際に破壊したのは下級武士でしたが、多くの民衆もそれを容認して協力したそうです。

島津家一族の菩提寺を含む1616の寺が全廃され、2966人の僧侶が還俗しました。そのため、住んでいる地域を歩き回ると、寺跡の標識や破壊された石仏をよく見かけます。

含粒寺跡

含粒寺跡(島津家7代元久の長男が開山)



江戸幕府は1613年にキリシタン禁制を打ち出して、その取り締まりのために檀家制度(寺請制度)を実施しました。ところが薩摩藩では檀家制度をとらず、武士集団が牛耳る五人組制度が、厳しい監視・取り締まりをしました。そのため、庶民は寺との日頃の付き合いが疎遠となり、廃仏毀釈への民衆の抵抗が少なかったといいます。

島津斉彬は国学のイデオロギーを背景に、軍費財源の調達もねらって、廃仏毀釈運動を先頭に立って進めました。その結果、美術品や史料などの貴重な文化財が破壊されたり、無くなりました。

玉泉寺跡

玉泉寺跡の石像



寺には「宗門人別帳」があり、その中に家族ごとの出身地・生年月日・続柄・宗旨・身分・収穫高が記載されていました。これを見ると、個人情報、人の活動記録、人と人とのつながりなどが分かるので、郷土史家には必須の資料です。ところが鹿児島県では、寺とともに「宗門人別帳」が全て消えたので、過去を解き明かす本線となる道が閉ざされています。

現在、鹿児島県では、庶民の墓は寺にありません。地区ごとの墓地にあります。鹿児島県の人は先祖供養に熱心であり、墓参りにはよく行きます。そのため、1世帯当たりの「切り花」の購入金額が全国一です。

芳 即正著「権力に抗った薩摩人」(南方新社)によると、藩の役人に知られずに、人々が堂々と念仏を唱えることができたのは、墓の前であったため、先祖供養の形で信仰が続けられたそうです。これが、鹿児島県民が墓を大事にする理由とされています。

「墓参り」の頻度は多くても、僧侶の説教を聴いたり、仏典を学ぶという「教え」に接する機会は少ないのです。これは寺と庶民を切り離すという、薩摩藩の方針の影響が、今日でも色濃く残っているためと考えられます。
結果的に、現在、寺離れが進んでいるという、日本人の宗教へのかかわり方を、鹿児島県では先取りしていたことになります。

以上より、薩摩藩には強権政治・恐怖政治が行きわたっていたことが分かります。
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吾平町黒羽子の「隠れ念仏洞穴」へ行く

前回のブログ「薩摩藩の暗黒史 ③隠れ念仏」を書いていたら、今から20年くらい前に、私の両親が吾平町(あいらちょう)上名(かんみょう)黒羽子(くろはね)地区にある「隠れ念仏洞穴」に行った話を思い出しました。

当時は案内標識が不十分であったので、苦労して駐車場までたどり着き、そこから山道に入り、草をかき分けながら、暗くて急な細い坂道を下ったそうです。道が悪く、イノシシが出ることがあるので、一人では危険で行けないと言われました。

それから約20年後の先月(2月)の寒い晴れた日に、一人で「隠れ念仏洞穴」に行ってきました。雑草が枯れた時期であるので、山道を歩きやすいと思ったからです。運動靴を履いて、杖にもなる護身用の軽い鍬と懐中電灯を持って行きました。

吾平町黒羽子の「隠れ念仏洞穴」については、ルートに関するネット情報が少ないので、以下に写真を付けて、「隠れ念仏洞穴」までの道程を書いておきます。

隠れ念仏①

写真1


吾平山陵に下る道の手前から、車で左折して橋を渡り、右手にある吾平物産館「つわぶき」を過ぎて、正面に見える黒羽子地区に上る道(写真1)に入り、道なりに進みます。


隠れ念仏②

写真2


T字路などには案内板(写真2)があるので、道に迷うことはありません。


隠れ念仏3

写真3


石塔がある所(写真3)から案内板の矢印通りに右折して、しばらく進むと行き止まりの直線道になります。

隠れ念仏④

写真4


直線道の舗装が終わると、右手に駐車場(写真4)があり、そこに車を置いて、そこから歩きです。

隠れ念仏⑤

写真5


駐車場の横の坂道に「隠れ念仏洞穴」の説明板(写真5)があり、そこから枯れ草が覆った坂道を10mくらい上ると、少し薄暗い山道に入ります。

隠れ念仏⑥

写真6


道幅が1.5mくらいあるほぼ平坦な山道を5分位歩くと、案内板と杖が置いてあり(写真6)、

隠れ念仏⑦

写真7


そこから急な下り坂(写真7)になります。

隠れ念仏⑧

写真8


狭いジグザグの山道を下まで降りて、幅1mくらいの窪地を越えて少し上ると、左手の崖下に「隠れ念仏洞穴」の白い説明板が小さく見えます(写真8)。

隠れ念仏⑨

写真9


坂を少し下ると、洞穴と説明板の所(写真9)に行き着きます。

隠れ念仏⑩

写真10


ここの「隠れ念仏洞穴」の説明板(写真10)には、隠れ念仏と洞穴について、写真5の説明板より詳しく書いてあります。

隠れ念仏11

写真11


狭い入口(写真11)から背を屈めて洞穴に入ると、右手に暗い空間があります。

隠れ念仏12

写真12


懐中電灯を点けると、2、3m先に岩の壁(写真12)があり、そこから左右に空洞があります。

隠れ念仏13

写真13



隠れ念仏14

写真14


左側の空洞をのぞくと、奥に石仏と南無阿弥陀仏と書かれた石碑などが見えます(写真13、14)。

ここならば、薩摩藩の役人に見つからないと思いました。一向宗の信者は、夜間に洞穴に集まったので、当時は道なき道を、しかも急斜面を、命がけで歩いてきたはずです。洞穴に入ると、当時の鬼気迫る真剣な様子がしのばれて、粛然たる思いに打たれました。

今は案内板が多いので、黒羽子の「隠れ念仏洞穴」に行き着くまでに、道に迷うことはないでしょう。しかし、案内板が不備な約20年前は、道に迷う人がいたようで、「案内板も設置せずに、吾平の人は何を考えているのか」と書いた落書きがあったそうです。
そこで当時、母が役場に行って、道に迷う人がいるので案内板を設置して欲しいと頼んだら、担当者から「たくさん来られては困るから、設置しなくていいのだ。」と言われて、呆れたそうです。これは昔の話で、今とは全く違います。

電気柵

写真15


今回は、幸いにもイノシシには出会いませんでしたが、駐車場の近くにある畑には電気柵(写真15)があったので、イノシシが出没する地域であることは確かなようです。なお、人と会うこともありませんでした。

冬場の晴れた日に、運動靴を履いて、懐中電灯を持って、黒羽子の「隠れ念仏洞穴」に行ったのは正解でした。安全のためには、複数の人と一緒に行かれることをお勧めします。
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薩摩藩の暗黒史 ③隠れ念仏

薩摩藩では廃仏毀釈のはるか前の1597年から、一向宗(浄土真宗)を禁制にしていました。一向宗の平等主義と団結力が、藩の支配体制には不都合であったからといわれています。

さらに、原口泉著「NHKかごしま歴史散歩」(日本放送出版協会)には、「経済的な理由が大きい。」とし、「“収奪本願”といわれるほどたくましい本願寺による農村搾取は、生産力の弱い薩摩藩の領主としては許容できるものではなかった。」と書かれています。その他にも、諸説があります。

幕府は民衆支配に一向宗の教団を利用しようとし、本願寺側も寺請制度を通じて檀徒との結び付きを強めて、幕府に協力しました。その結果、本願寺は、江戸時代に日本の総人口の半数を檀徒に擁する最大の教団となりました。

しかし、南九州の人吉藩と薩摩藩は、一向宗を禁止しつづけたため、信者は隠れ念仏となったのです。信者は、武士、農民・庶民にまで広範囲にわたっています。


花尾かくれ念仏洞


花尾かくれ念仏洞


一向宗の寺院がないので、信者は「講」という秘密組織をつくって、土蔵の二階や山中の洞穴(ガマ)に夜間集まり、ご本尊の阿弥陀仏を拝みました。「隠れ洞穴」「念仏洞」と呼ばれる洞穴は、今でも県内各地に残っています。

薩摩藩は、1635年ころから取り締まりを厳しくして、領民各人に名前・身分・宗旨などを書いた木札を交付して、定期的に調査・更新したり、宗体奉行と宗体座を設置して摘発体制を強化しました。
さらに、1768年には5人組で真宗信者を相互監視する制度を、1776年には密告制度をとって密告者を褒賞するようにしました。

摘発された信者には、財産没収、士籍剥奪、流刑、拷問・酷刑、斬罪、切腹などの刑罰が与えられました。伝えられている拷問・酷刑の数々は、あまりにも悲惨で、その様子を書く気にもなれません。まさに恐怖政治の世界でした。

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