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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(6)明治5年までは高屋山上陵であった国見権現

鹿児島県の大隅半島(県地図の東側)は、建国神話にまつわる伝承地が極めて多い所です。今回もその一つです。

1 国見権現まいり
内之浦の国見岳山頂(標高886.5m)にある国見権現(高屋山上陵)に誘われて登りました。
地図_連結

肝属町の高山から内之浦に行くトンネルの手前から車で山道を登りました。引率者が事前に許可を得て、2ヶ所の通行止めのロープを外し、鉄柵の鍵を開けて、頂上付近まで車で行きました。
そこから山頂に通じる山道に入ります。その山道の入口付近から狭い山道を覆った草と木を、ビーバーとチェーンソーで取り除いてから山頂を目指しました。
ビーバーと山道

山頂には山幸彦(彦火火出見尊:ひこほほでのみこと)を祀(まつ)る祠(ほこら)があり、文化14年(1817年)の銘がある石灯籠をはじめ、古石塔があります。
国見岳の高屋山陵_2B

頂上の彦火火出見尊(山幸彦)を祀る祠の前で、修験者でもある神主様から一人ずつお祓いをしていただきました。
国見岳山頂からは、内之浦や柏原、志布志、鹿屋方面の景色が見渡せました。
国見岳の高屋山陵_4文字入


2 神代三山陵の確定まで
明治5年(1879年)までは、宮内庁は高屋山上陵は国見岳にあるとしていましたが、それが霧島市溝辺町になった経緯を、窪壮一郎著『明治維新と神代三山陵』(法臧館)により以下に説明します。
まず、神代三山陵とは、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の陵墓の総称です。以下に神さまの系図を示します。
なお、神さまの名前の読み方は同じでも、漢字表記は色々とあります。

神さまの系図_山陵入

神代三山陵を考証した学者は多く、例えば古くは薩摩藩の国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)が、寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三陵がすべて薩摩藩に存在することを主張しました。
行政機関の筆頭の神祇事務局に命じられて、三雲藤一郎(鹿児島神宮の神職)と三島通庸(誠忠組の一員)が明治2年(1876年)10月に出した結果は次のとおりです。ただし、これは政府としての調査というよりも、薩摩閥内での調査と言ったほうがよさそうです。
・ 可愛山陵(瓊瓊杵尊)= 新田神社のある八幡山(現・薩摩川内市)
・ 高屋山上陵(彦火火出見尊)= 内之浦の北方村国見岳(現・肝付町)
・ 吾平山上陵(鸕鷀草葺不合尊)= 上名村鵜戸の窟(現・鹿屋市)

明治5年6月に明治天皇が鹿児島に巡幸された際には、鶴丸城から皇祖の眠る薩摩川内市の可愛山陵、内之浦の高屋山上陵(国見権現)、鹿屋市の吾平山陵の三山陵を遙拝されました。
ところが、明治7年(1881年)の神代三山陵治定の裁可では、高屋山上陵は姶良郡溝辺村神割岡に変更され、確定したのです。この変更の背景には、当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸(よりつね)の建白が容れられたためと伝わっています。
変更の理由は、『古事記』によれば御陵は「高千穂の山の西」にあるとされているので方向が合うということと、神割岡の近くには彦火火出見尊を祀る鷹屋神社があり、鷹屋=高屋であると考えられるということの二点です。
なお、田中頼庸は神代三山陵の調査を行い、明治4年には『神代三陵考』を著して、彦火火出見命の陵墓の一について考証し、これが建白に繋がったと考えられます。

現在の神代三山陵の場所と写真を以下に示します。
  神代三山陵の場所_文字入

神代三山陵_5文字入
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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(5)ウガヤの生誕地 その後

5年前に本ブログで「(4)ウガヤの生誕地」を紹介しました。その後、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の父親)の生誕地に関心のある人を数回現地に連れて行ったり、一人で訪れたりしました。そして、追加の情報を得たので、報告します。

この地をグーグルマップの写真で見ると、このあたりで旧肝属川(白色の線)は大きく蛇行していて、旧河川は大きく湾曲した二つの輪のようになっていたようです。その場所は二つの輪が接近した場所のほぼ中間点にあたります。旧河川の形から、津曲という地名の由来が納得できます。川を挟んだ北側には、県内最大規模の140基の唐仁古墳群があり、南側には日本最南端の前方後円墳を含む44基の塚崎古墳群があります。
水害後の河川改修_文字入5

『大隅昭和写真帖』の写真とは景色は変わっていましたが、この孟宗竹林は真ん中が1m弱、盛り上がっていて、本に書いてあるように、田地にするために崩した古墳(円墳)の跡であったのでしょう。昔は神殿内に石棺の一部が露出していたそうです。
津曲ウガヤ生誕地の竹林_連結

今ある一枚の天然石の石碑は、古墳にあった石棺の三枚の蓋石の一つで、『大隅昭和写真帖』に書いてあるように、ここは「今は水田になってしまった旧肝属川沿いの竜神宮の拝殿跡地前」でありましょう。
津曲ウガヤ生誕地_石碑2連結

蓋石のもう1枚は、「平田明宅庭横の道路沿いにイボの神として」いる石碑です。
津曲のイボの神の蓋石_3連結

残る一枚の「田中昇宅隣接のT字路角に安産の神として祀ってある」石は、田中宅横に生け垣に囲まれてありました。ここは別称が観音様で、ウガヤフキアエズノミコトが生まれた場所でありイヤ(胞衣)が祀ってあり、朱が埋めてあるといわれています。
津曲の安産の神の蓋石_3連結

令和2年10月20日に「ウガヤ生誕地」に隣接する家主の森園純治(すみはる)氏(86歳)が、畑の耕作のために現在お住いの根占から来ておられたので、以下のお話を聴きました。     

ここはトヨタマヒメが柏原で安産祈願のみそぎの潮がき(かけ)をして帰る時に急に産気づいたため、地元の人達が孟宗竹で産屋を急いで造って差し上げて、ウガヤフキアエズノミコトを出産した場所と伝えられている。出産時はウガヤが大蛇であったので、皆が恐れおののいてひれ伏したと伝えられている。

昔は12月28日に地元の人が一握りのワラを持ち寄って長さ11ヒロ(16.5m)と33ヒロ(49.5m)のしめ縄を作り、蛇の姿にして飾る祭りがあった。また今でも3月17日の野崎地区の鎌踊りの時は、津曲の人達が最初にここで棒踊りをしてから野崎の天道山の伊勢神社で踊っている。ここの石板は、ウガヤフキアエズノミコトの墓陵である吾平山陵を向いている。数年前に鹿児島大学の研究者が掘って調査した。

子供の頃には、安産祈願の妊婦がよくここに来て、賽銭を置いていった。それを隠れて見ていた子供らが、妊婦が去ると、我先にと賽銭を取りに行くのが楽しみであった。」    

なお、『大隅昭和写真帖』には、「現在は無いが、大正3、4年頃までの古い神殿は竹小屋風(円錐形)で、その中に七尋(ヒロ)半のメスの竜がトグロを巻いていた。そして13尋(ヒロ)のオスの竜がその竹小屋にからみついて、外側からちょうど雌竜を守っている格好だった。」と書いてあります。森園純治氏の話から、竜は蛇でありましょう。

内倉武久氏による説では、熊襲(熊曽於)は中国南部から渡来して大隅半島に最初に住み着きました。中国南部で伝統的に使っていたシンボル模様の一つが蛇です。蛇は水の神様だそうです。また円墳は熊襲がよく造っていたので、両者があった森園神社には熊襲の足跡が残っていたと考えることができます。

参考文献
・緑河創生著『大隅昭和写真帖』(株式会社南方新社、2002年発行)
・内倉武久著『熊襲は列島を席巻していた』(ミネルバ書房、2013年発行)

本二冊

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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(4)ウガヤの生誕地

ウガヤ生誕地の本と文


緑河創生著「大隅 昭和写真帖」(株式会社南方新社、2007年発行)を見ていたら、「ウガヤの生誕地」というぺージがありました。
その説明を読むと、その場所は、肝付町津曲の森神社跡で、その神殿内に石棺の一部が露出していたらしいです。

私は「日本の建国神話のはじまりの聖地」である大隅の関連遺跡に興味があるので、神武天皇の父親であるウガヤフキアエズノミコトの生誕地があるという肝付町津曲に行ってみることにしました。

津曲集落の消防車の車庫がある広場に車を置いて、庭で作業中の男性に「ウガヤの生誕地」の場所を尋ねたら、集落の外れに石碑があるとおおよその場所を教えてくれました。その辺りを歩いて回ったが場所が特定できなかったので、近くの家の庭に居た老夫婦に「大隅 昭和写真帖」を開いて生誕地について書いてあることを伝えたら、目の前の場所に違いないと、数十メートル離れた場所を教えてもらいました。


ウガヤ生誕地の現地
本の写真とは景色が変わっていたが、竹林の中に文字がない高さ2mくらいの平べったい天然石の碑が1つ建っていました。この孟宗竹林は真ん中が1m弱、盛り上がっていて、本に書いてあるように、田地にするために崩した古墳の跡だったのでしょう。古いブルーシートがしわくちゃになって石碑の近くに放置されていました。


石碑の表裏
石碑の表裏の写真です。この石碑は、古墳にあった石室の3枚の蓋石の1つで、本に書いてあるように、ここは「今は水田になってしまった旧肝属川沿いの竜神宮の拝殿跡地前」でしょう。


石室の蓋石
もう1枚は、「平田明宅庭横の道路沿いにイボの神として」いる石碑で、上記の写真の中央にあるものと思われます。残る1枚の「田中昇宅隣接のT字路角に安産の神として祀ってある」石は、老夫婦が確かにあると言っていたが、自分一人では見つけ出せませんでした。



この地をグーグルマップの写真で見ると、このあたりで旧肝属川は大きく蛇行していて、旧河川は大きく湾曲した2つの輪のようになっていたようです。ここはその輪が接近した場所のほぼ中間点にあたります。旧河川の形から、津曲という地名の由来がわかります。近くの肝属川を挟んで対岸のほぼ等距離の所に、唐仁古墳群があります。

ウガヤフキアエズノミコトのお墓は「吾平山陵」という素晴らしい名所になっていますが、残念ながら生誕伝承地は無残な姿になっていました。手を入れて、せめて、昔の神社や古墳があった当時の写真を付けた説明板でも置いて、往時をしのばれる場所にしていただきたいと思いました。
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信時潔の交声曲「海道東征」に魅せられて

このブログで、はじめて音楽について書きます。私は、気分転換にボーズのウェーブシステムで音楽CDをよく聴いています。

2015年3月16日の産経ニュースの【正論】に、都留文科大学教授・新保祐司氏の文章「信時潔に「建国」への思い馳せる 深刻な日本人の「国家意識」」が載りました。

その中に、次のように神武天皇の御東征を題材にした交声曲(カンタータ)「海道東征」が紹介されていました。
交声曲とは、オーケストラ伴奏付きの声楽曲のことです。

「日本の建国に関する歴史を学んだことがない」国民が約4割いるからといって、2月11日が「建国記念の日」であることを覚えさせたり、神武天皇の事績を「史実」であるかどうかなどといった点を気にしながら教えたところでどうなるものでもない。「フィンランディア」を、あるいは「クッレルヴォ」を聴きながら、『カレワラ』の神話の世界に遠く思いを馳(は)せるように、日本の『古事記』や『日本書紀』、あるいは『万葉集』の遥(はる)かなる精神に遡(さかのぼ)ることが大切なのである。

フィンランドには、シベリウスという作曲家が生まれて、民族の魂を19世紀に蘇(よみがえ)らせた。フィンランドという国は、実に幸福であった。では、日本には、シベリウスのような作曲家が出現したか。幸いにして、現れたのである。それが、私が度々触れている「海ゆかば」の作曲家・信時潔(のぶとき・きよし)に他ならない。そして、北原白秋の作詞したものに信時が作曲したのが、神武天皇の御東征を題材にした交声曲「海道東征」なのである。



海道東征CD_611KB

この文章に触発されて、私は交声曲「海道東征」を、最初はYouTubeで聴いて、感銘を受けました。その後、CD(オーケストラ・ニッポニカ 第2集)を購入して、聴いています。

荘重で神々しい交声曲です。何度聴いても飽きがきません。
北原白秋の作詞で、馴染みのない漢字を織り交ぜた文語で書かれているので、私には歌を聴くだけでは理解できない内容でした。しかし、解説書にある詞とその現代語訳を読むと、神武天皇の御東征の壮大なストーリーが分かります。
そして、この交声曲を聴きながら、建国にまつわる古代の人々の思いを想像しつつ、自分を鼓舞する力を得ています。

日本にも、シベリウスのような民族の魂を鼓舞する神話を題材とした作曲家がいたということは有り難いことです。今後、建国記念日には、この曲を演奏したり放送で流したりして、国内に広めていただきたいものです。

私が入手したCDは、現在は品切れ中ですが、今年、新しく2つの「海道東征」のCDが出ました。この曲に関心を示す人が増えたためでしょう。

永く埋もれていた名曲「海道東征」を発掘された新保祐司氏に感謝しています。


テーマ: 本日のCD・レコード | ジャンル: 音楽

大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(3)

同じタイトルの(2)で、私は以下のように書きました。
「神話に関する伝承話が、関連の旧跡がある地元には伝わっているはずです。神々が活き活きと甦ってくるような伝承話を掘り起こして、後世に伝えていただきたい。もし、そのような話をまとめた資料があれば是非読んでみたいものです。」

大きな図書館には、大隅の建国神話の伝承話の資料があるかもしれないと思い、鹿屋市立図書館に探しに行ってきました。

市立図書館
写真 鹿屋市立図書館


入り口に「郷土・事典コーナー」と書かれた部屋に、大隅史談会の会報「大隅」が並んでいました。

郷土コーナー
写真 郷土・事典コーナーと大隅史談会の会報「大隅」が並ぶ書架


書架に置かれていたこの会報を順次めくりました。残念ながら、創刊号から29号までは飛び飛びに欠本がありました。
1959年発行の第5号に、「伝説研究」として4編の報告があり、その中に長崎貞治氏が書かれた「吾平地方の伝説」がありました。

大隅5号
写真 大隅史談会の会報「大隅」第5号


それには以下の6つ伝説があり、(一)と(二)の3つの文章が建国神話に関するものでした。これを見つけた時には、うれしかったです。

(一)飴屋敷
  ○うがや不合尊の御誕生
  ○飴屋敷の老婆
(二)玉依媛尊とガラッパどん
(三)ジヤの行けジヤの穴
(四)権現島の鬼火
(五)夜鳴の名刀

「(一)飴屋敷」の2つの話の概要は知っていましたが、書かれていた伝説には、神様の話し言葉に態度や感情の説明が加わり、童話のようにわかりやすく、話の情景が芝居のように目の前に浮かんできました。

「(二)玉依媛尊とガラッパどん」は初めて知った話で、要旨は以下のとおりです。神武天皇の母君の玉依媛が幼い皇子(御幼名は狭野尊)を連れて川で洗濯をされていたら、皇子が川に落ちて無数の河童にとりつかれました。母君が川に飛び込まれて、懐剣で河童を斬って追い払い、皇子を救ったという内容です。今も河童の手形のような文様が肝属川の川淵にあり、伝説と符合していると書いてありました。
玉依媛の気丈な性格とともに、子供に対して川には危険があるという教えを、この話に込めているのでありましょう。

(三)(四)(五)は、いずれも吾平町に残る中世の伝説です。

今回は、郷土史の会報「大隅」に記録されていた、吾平町に残る建国神話に関する伝承話を知りました。後世に末永く伝えたい貴重な資料で、執筆者に感謝しました。
吾平町以外にも、このような建国神話に関する伝説があるはずです。ご存じの方がおられましたら、教えてください。


大隅史談会誌「大隅」には、興味深い建国神話についての論考がいくつかありました。中でも松下高明氏の報告は、説得力のある専門的な内容であり、啓発されるところが大でした。

1979年発行の第21号には、北園博氏が書かれた「神武天皇御祭航地柏原と大和の地名」(筆者注:祭航は発航の誤植か?)があり、大隅には大和と同じ地名が多いこと(71ヶ所)が示されていました。

大隅21号
写真 大隅史談会の会報「大隅」第21号


安本美典氏は、『言語学の分野で、しばしば、地名は、「言語の化石」といわれる。ふつうのことばにくらべ、地名は、ずっと歳月による風化をうけにくい。』として、「邪馬台国見聞録」や「邪馬台国への道」で地名を神話と史実のつながりを求める手がかりにされています。上記の北園博氏の報告もその観点から重要であると思いました。

今回の件で、1951年から続く大隅史談会の活動に、あらためて敬意を表した次第です


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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(2)

前回、ご紹介しましたように、大隅半島には、記紀に書かれている建国神話の初期の旧跡や関連神社がたくさんあります。それらを巡って歩くと、頭の中で当時の神々のストーリーや生活が彷彿としてきます。

いったい、最古の長編小説である源氏物語より約300年前に、記紀のような話を創作できた人がいたのでしょうか。私は、日本神話は実際の歴史上のできごとが核となって、説話や想像などが付加されて伝承されたものであると思っています。

しかし、現在、記紀は皇室の権威付けのための作られたフィクションであるとか、古事記に記載されている神武天皇の寿命が137歳、孝安天皇の寿命が123歳、崇神天皇の寿命が168歳であるのが間違いの大きな根拠とされて、応神天皇以前の神代史が否定される傾向にあります。まことに残念なことです。

歴史研究者の間では主流派ではありませんが、安本美典氏によりますと、古代には1年を2歳と数えるような数え方があったようです。
川崎貴一氏の論考(歴史通 2015 November)からの孫引きですが、安本氏は天皇のお年が、《 「二倍」になっている理由について、次のように考えている。『「古事記」には、十三人の天皇がなくなられた日が記されている。ふしぎなことに、ひとりのこらず、月の十五日以内になくなられている。このようなことが偶然におきる確率はきわめて小さい。計算してみると、一〇〇〇回のうち、〇.五回以下である』 そして、「仮説」と明記して、次のように推測する。『半月をもって一ヶ月と数えていたという仮説である。すなわち、月が完全に満ちるまでを一ヶ月とし、ついで、月が完全に欠けるまでを、一ヶ月としていたのではないかと思うのである』 『半月を一ヶ月と数えていたと考えるならば、天皇のお年が、二倍になっていることを説明できると同時に、天皇のなくなられた日について、確率的にきわめて起こりにくいことが起こっていることを、うまく説明できる』 》

さらに、安本氏は、数理・統計学的手法により、神武天皇と天照大神の活躍の年代を推定し、卑弥呼が天照大神であるという仮説を出しています。このような合理的で説得力のあるアプローチにより、将来、神話が史実として甦ることを私は期待しています。


安本美典著作
安本美典氏の著作の一部


神話学の巨匠と呼ばれたジョーゼフ・キャンベルによりますと、神話には4つの機能があるそうです。すなわち、私なりの理解の表現も加えると、第一に神秘的な役割(あらゆる物象の底にある神秘の認識への導き)、第二に科学が関わる未知への神秘の付与、第三に社会的な機能(社会秩序を支え、それに妥当性を付与)、第四に教育的な機能(人間らしく生きる教え)。
神話をこのような視点から見直し、その価値を認めることは大切であると思います。


神話の力
ジョーゼフ・キャンベル他著「神話の力」


現在、私の周りを見渡しても、神話の機能を教えてくれる教師や、地域の指導者はいません。ところが、私の祖父の時代は今とは違って、小学校の遠足の時には、神武天皇のご誕生伝説地などに行って、教師から関連する話を聴いて、子供たちは想像力を膨らませて、自然に情操教育もなされていたようです。


神武天皇関連遺跡
神武天皇関連伝説地


大隅に来て日が浅いためか、私は大隅で神話の神々を称える祭を見聞きしたことがありません。昔は祭がたくさんあったはずですが、無くなったのでしょうか。そうだとすれば、残念なことです。祭には、地域の文化や伝統を後世に伝える重要な機能があります。今後も気をつけて関連情報を集めたいです。
その点、宮崎県には、神話に関わる祭が多く、伝統文化を大切にする風土があるように思います。

また、神話に関する伝承話が、関連の旧跡がある地元には伝わっているはずです。神々が活き活きと甦ってくるような伝承話を掘り起こして、後世に伝えていただきたいです。もし、すでにそのような資料があれば是非読んでみたいです。

さらに、大隅に来て、先人の功績を伝える博物館などが無いことにも驚きました。郷土の尊敬できる先人を介して、郷土愛が強まり、人々の結束が広がり、人物を育てます。薩摩の明治の偉人達や山口県萩の吉田松陰を思い浮かべれば、分かることです。
偉人を想起させる事蹟は、そうでない景色や物と違って、何度見ても頭の中で想像力が喚起されて膨らみ、飽きの来ない観光資源や心の琴線に触れる教育資源になります。木造の小さな家にすぎない「松下村塾」がまさにその見本です。


明治3元勲誕生地石碑
西郷隆盛・大山巌・東郷平八郎の誕生地


建国神話の神々も、きっとそのような想像力をかきたててくれるはずです。そのためにも、大隅の神話に関わる祭を復活させ、地元に伝わる神話の神々の話を掘り起こし、さらに郷土の偉人を顕彰して、後世に伝えていただきたいと願っています。


5柱の神々
大川内神社に祀られる神々



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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(1)

大隅半島には、古事記と日本書紀に書かれている建国神話の初期の旧跡や神社がたくさんあります。不思議なことに、それらは全国的にはほとんど知られていません。私は大隅への新参者ですが、厚かましくも主な所をご紹介します。

吾平山陵(あいらさんりょう)
正式には、吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)と呼びます。初代天皇である神武天皇のご両親のウガヤフキアエズノミコト(天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊)とタマヨリビメ(玉依姫)の陵墓です。1874年(明治7年)に明治政府により、可愛山陵、高屋山上陵とともに神代三山陵の一つとされました。


吾平山陵の説明板
写真1 吾平山陵の説明板


現在、宮内庁書陵部が管轄し、桃山陵墓監区 吾平部事務所があります。
昭和10年に昭和天皇、昭和37年に皇太子殿下当時の今上天皇および皇后が参拝されました。


吾平山陵3
写真2 参道の横にある宮内庁書陵部 桃山陵墓監区 吾平部事務所


吾平山陵は「小伊勢」といわれるように、伊勢神宮に似た景色とおごそかな雰囲気があり、参道を歩き参拝すると心が洗われ、神々しい気持ちになります。
正月には多くの初詣客が訪れます。春は桜の名所としても知られており、秋には紅葉も楽しめます。


吾平山陵1
写真3 吾平山陵の入り口付近


参道の回りは、高い広葉杉(こうようざん)の林からなっています。途中に、伊勢神宮内を流れる五十鈴川と同じような趣で姶良川(あいらがわ)が流れており、御手洗場(みたらしば)が設けられています。


吾平山陵2
写真4 広葉杉の中の参道と姶良川の御手洗場


参道の行き着いた所で、姶良川を前にして、向かいにある鵜戸山の岩屋(鵜戸岩屋)に向かって参拝します。岩屋(洞窟)の中には大小の2つの塚(御陵)があるそうです。


吾平山陵4
写真5 御陵がある岩屋


鵜戸神社
ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリビメ、ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)、イナヒノミコト(稲飯命)、ミケイリノノミコト(三毛入野命)、カムヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊、神武天皇)の6柱を祀ります。かつては鵜戸六所権現と称されていました。もともとは吾平山陵の奉拝所東側の高所にありました。災害で大破し、明治4年に吾平山陵の北方6キロメートルの八幡神社境内(現在の吾平総合支所の隣)に仮に遷座しましたが、その後に帰社しませんでした(八幡神社は別の場所に遷座)。


鵜戸神社
写真6 鵜戸神社


飴屋敷跡(あめやしきあと)
飴屋敷跡は、吾平町鶴峰地区にあります。
飴屋敷跡に関する伝説を、鹿屋市の市報の情報をもとに書くと次のようになります。海の神様で本当の姿は大きな「わに」であるトヨタマヒメは、夫の山幸彦に、「出産の時は本来の姿に戻らなければなりません。絶対に見ないでください」とお願いしました。しかし山幸彦は、約束を破ってのぞいてしまいます。心外に思ったトヨタマヒメは産んだばかりのウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の尊父)を残し、海に帰ってしまいました。乳飲み子を残された山幸彦は悲嘆にくれました。そこに一人の老婆が現れ、母乳の代わりに飴を練り、その飴のおかげで成育できたそうです。この飴屋敷跡はその飴を差し上げた人の住宅跡と伝えられています。
飴の原料であるお米がたくさん採れそうな田んぼ地帯の中にあります。


飴屋敷跡
写真7 飴屋敷跡


桜迫神社と神代聖蹟西洲宮
肝付町宮下(みやげ)の宮富小学校の西隣に、桜迫神社(おうさこじんじゃ)があります。桜迫神社には、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の尊父)が祀られています。ここはウガヤフキアエズノミコトの宮居である西洲宮(にしのくにのみや)跡で、神武天皇の生育の地と伝えられています。


桜迫神社
写真8 桜迫神社


境内の南西側の雑草が生い茂った空地に、「神代聖蹟西洲宮」の石碑があり、昭和15年に「神代聖蹟」として鹿児島県知事の指定を受けています。


神代聖蹟西洲宮の石碑
写真9 神代聖蹟西洲宮跡


宮下は水上交通の要となっていて、近くの肝属川には、昔、船着場があったそうです。今よりも火山活動による火山砕屑岩の堆積が少なくて、低地が広がっていた地形であったと推測されます。


神武天皇御降誕傳說地
桜迫神社から歩いて5分くらいの場所で、肝付町宮下の肝属川の土手の下に「神武天皇御降誕傳說地」の石碑があります。石造りの低い塀で囲われて綺麗に整備されています。もともとは河川敷にあったが石碑の下部は陥没して埋もれていたそうです。堤防ができた際に、地元の人が私費で現在の位置に移設し、整備しました。


神武天皇ご誕生伝説地
写真10 神武天皇御降誕傳說地


イヤ塚
肝属川の古い渡船場に当たる水上棚は、玉依姫ここを通過のとき俄かに御産気を催させ給うて、御産屋が営まれ神武天皇が御降誕遊ばされた所と伝えられています。
胎児を包んでいた膜や胎盤などを胞衣(えな)といいますが、地元の方言でイヤといいます。イヤ塚は、神武天皇がお産まれになった時の胞衣を埋めた場所です。神武天皇御降誕傳說地の石碑の近くにある民家の、竹の生垣の中にあります。地元のご老人に場所を尋ねたら、案内してくださいました。


イヤ塚
写真11 イヤ塚


なお、この地区名を「イヤ前」といい、この地方最古の墓地と言われている「イヤ前墓地」も近くにあります。

神武天皇御発航伝説地
肝属川が志布志湾に出る河口近くの両側の高みに、向かい合うように「神武天皇御発航伝説地」の石碑があります。一つは、東串良町柏原にある戸柱神社に至る階段を登った右側の境内にあります。神社の祭神はスサノオノミコト(須佐之男命)、ヤチマタヒコ(八衢比古神)、ヤチマヒメ(八衢比売神)の3柱です。


柏原_戸柱神社
写真12 東串良町柏原の戸柱神社


柏原の神武天皇御発航伝説地石碑
写真13 東串良町柏原の神武天皇御発航伝説地石碑


もう一つは、肝付町波見の戸柱神社横の長い階段を登り切った権現山斜面の、大隅花崗岩の上にあります。神社の祭神はサルタヒコ(猿田毘古神)、オオナムチ(大己貴神、大国主)、オオワタツミ(大綿津見神)など8柱です。


波見の戸柱神社と権現山の登り口
写真14 肝付町波見の戸柱神社と権現山の登り口


波見の神武天皇御発航伝説地石碑
写真15  肝付町波見の神武天皇御発航伝説地石碑と、下に見える肝属川の河口付近


なお、神武天皇が日向国を出立なさった当時の日向国は、薩摩国・大隅国・日向国全部を含んでいました(西暦713年に大隅国として分立)。

大川内神社
ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊、山幸彦)、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリビメ、カムヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊、神武天皇)、アヒラツヒメ(吾平津媛、阿比良昆売命)の5柱を祀っています。吾平山陵から南方約4キロメートルの神野(かみの)地区の大川内にあります。
神武天皇の皇后である「主神アヒラツヒメ(吾平津媛)は、神武東征に御子手研耳命(タギシミミ)を随伴させ、みずからは吾平の地にとどまり、ひたすら夫の君やわが子の御東遷・武運長久を御祈りになったという。」と説明板に書いてあります。


大川内神社
写真16 大川内神社


以上の旧跡と神社を巡ると、建国初期のストーリーが現実味を帯びて想起され、神々の生活の断片が頭の中で再現されてきました。

建国神話の解釈や関連場所の比定については、確かにいくつかの説があります。
これだけの建国神話の旧跡や神社があり、先人達が大切に守ってきたことを考えると、大隅半島は建国神話の始まりの聖地であることを、声を大にして言うべきであると思います。

しかし現在、吾平山陵を除いて、訪れる人はきわめて少なく、大隅半島の人々の関心も薄れているようで、残念に思います。
私の祖父の時代には、小学校の遠足で必ず訪れたという「神武天皇御降誕傳說地」の場所について、ご存知でない大隅の人が余りにも多いことに、私はショックを受けました。次回に、私の願いを書きます。

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