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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(7)肝等屯倉(かとうのみやけ)

時代は建国神話より新しく、我が国の建国初期の話です。

1 肝等屯倉跡の石碑 

我が家から近い、鹿児島県肝属郡肝付町宮下(みやげ)に「肝等屯倉(かとうのみやけ)跡の石碑」があります。
「屯倉」は、「みやけ」や「とみくら」と読まれ、「御宅」「三宅」「三家」とも表記されます。一般には、大和政権の直轄地経営の倉庫や土地などを示す語と言われていますが、後述のように大和政権の前の九州政権のころの話と考えるのが合理的と考えます。

昭和41年発行の「高山郷土誌」には、「肝等屯倉の設置」の項に以下のように書かれています。
『安閑天皇の二年五月、桑原屯倉、肝等屯倉、田彌屯倉等二十六屯倉が置かれたが、その中の肝等屯倉が宮下であり、県指定の屯倉趾の碑は宮下入口の肝付川沿の畑地に建っている。此の碑の北側、宮下川に長さ四十米余、岸及び川底を自然石でたたんだ処がある。ここが積荷のための船着場だったと伝えられている。対岸上小原の古墳群や附近よりの土器類の出土、その他より考える時、集落跡としての往古を想像する事も出来る。更に黄金千両、朱千両「朝日蔭射す夕陽の下」に埋めてあるとも伝えている。
此の屯倉の収穫物は、一般的な経営費の外、軍事的、外来客の接待、凶年の放出等に用いれられていた。大和朝廷には四世紀後半からこの様な屯倉を全国に広く設けたのであるが、大化の改新においてすべて廃止されたのであった。』

「肝等屯倉跡の石碑」は、元々は畑地にありましたが、道路拡張で肝属川の土堤の下に移設されました。生憎、今は竹林の中になってしまい、しかも土堤に草が茂るため、夏場には石碑に近寄りがたく、近寄っても石碑は竹林の中なので見えません。なお、この場所を知っている人に案内してもらわないと、行くことができません(民家の庭を通ると行きやすい)。
肝等屯倉跡_連結1

土堤の草が刈り取られた時に、石碑の前の竹を切ったら、石碑が見えるようになりました。
肝等屯倉跡_連結2

2 安閑天皇と屯倉

先輩の郷土史家に、この石碑に刻まれた文を教えてもらいました。安閑天皇がここ宮下に屯倉を設けたと書かれています。

肝等屯倉跡_連結3

藤井利章著『天皇と御陵を知る事典』(日本文芸社)によると、「安閑天皇(466~535年)は継体天皇の第二皇子で、全国にたくさんの屯倉を設置した。屯倉は朝廷の直轄私領で、初めは穀物を納める倉を指したが、徐々に変化し機構化され、のちの荘園に近いものであったと思われる。安閑朝廷の財政の安定化を図るために、多くの屯倉が設置されたと考えられる。」
関東から九州まで、41ヶ所の屯倉の大量設置が記録にあり、その屯倉の一つが鹿児島県肝属郡肝付町にもあったのです。

3 安閑天皇は熊襲族の子孫

古代史研究家の内倉武久氏の論考「熊曽於族・継体は朝倉市に都していた」
『大隅』(第64号)2021年発行)によると、「継体天皇は南九州から出て全国を支配するまでに力をのばしていた熊曾於(熊襲)族の一員であった。」さらに大和政権の前に「継体天皇は九州年号を創始した天皇である。」と書いてあります。

継体天皇の第二皇子である安閑天皇も熊襲族の一員で、当時の都が北部九州にあったので、祖先の地である南九州に屯倉を設置するのは当然でありましょう。

なお、安閑天皇は犬養部の設置したことでも知られています。ウィキペディアによると、「『日本書紀』によれば、犬養部は安閑天皇二年(538)八月、同年五月の屯倉の大量設置をうけて国々に設置された。この記事の近接性と、現存する「ミヤケ」という地名と「イヌカイ」という地名の近接例の多さから、犬養部と屯倉との間になんらかの密接な関係があったことが想定され、現在では、犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっている。」
内倉武久氏によると、”熊曾於族が中国大陸の少数民族と共通して持つ「犬祖伝説」があり、「民族の祖先は犬と結婚した女性である」という話である。”したがって、犬養部の設置は熊曾族の一員らしい安閑天皇の施策と考えられます。

今回は、九州政権を作った熊襲族の子孫の天皇が、南九州にその足跡を残した話でした。

以下は、今回参考にした古代史研究家の内倉武久氏の著書です。同氏のブログもあります。
熊襲関連の著書2冊

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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報