fc2ブログ

薩摩藩の暗黒史 ⑥偽金づくり

偽金づくり本と通貨

薩摩藩は、財政建て直しのために、法を犯して大規模な偽金作りと密貿易をしました。
今回は、主に徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」(新人物往来社、2010年刊)を参照して、薩摩藩の「偽金づくり」の概要を記してみました。

藩の財政援助策として鋳銭事業を計画した島津斉彬は、本格的な偽金づくりをする前の1858年に亡くなりました。その後、薩摩藩は琉球救済の名目で、領内のみで3年間通用させるとして、「琉球通宝」の鋳造を幕府に申請しました。用意周到な薩摩藩の策略が続きます。

1862(文久2)年に幕府から許可が下りると、薩摩藩は、名勝 仙巌園(磯庭園)がある磯に鋳造所を設置して、幕府に認められた「琉球通宝」の鋳造を開始しました。職工が200人もいる、大規模な鋳造工場でした。その後、鋳造工場は西田に移ります。

1863年から幕府からは禁止されていた偽金「天保通宝」、さらに1865年から偽金「二分金」の密造を本格的に推進しました。偽金「二分金」の密造場所はいまだに不明です。

偽金の「二分金」は金メッキした銀です。通称「天ぷら金」といわれました。本物の「二分金」は金と銀の混合貨幣で、当時は金の含有量が22%程度だったそうです。

江戸の通貨

徳永和喜著「偽金づくりと明治維新」に掲載の貨幣の写真



偽金「天保通宝」の原材料の銅を入手するために、藩内の寺院の梵鐘を壊して鋳つぶしましたが、それでも足りないので、全国からも集めました。薩摩藩の廃仏毀釈の目的には、偽金作りが隠されていたのです。

藩の鋳造責任者であった市来四郎が、偽造した「天保通宝」の金額を日記に記しており、290万両という額に達したそうです。薩英戦争の後、負けた薩摩藩がイギリスに支払った賠償金が6万333両であったので、その金額の多さがわかります。偽金「天保通宝」は、広島、京都、大阪などで流通しました。

イギリス艦隊に敗北して、一層の財政難になると、偽金づくりはかえって盛大な事業となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造されました。
薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用し、琉球通宝は三井組で換金する仕組みができていました。

なお、偽金づくりには家老の調所(ずしょ)笑左衛門は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通でした。

偽金作りと密貿易で貯め込んだ資金は、薩摩藩の討幕運動や殖産興業に役立ったので、「悪銭身につかず」にはならなかったのです。薩摩の「名君」には、幕府をだます策略と大胆不敵な実行力がありました
スポンサーサイト



テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報