fc2ブログ

日本古代史の驚きの”事実と新説”

最近、古代史研究家の内倉武久氏に初めてお目にかかり、近々、大隅に移住されて古代史研究を進められると伺いました。
内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”を読むと、私には初めて知る驚くべき内容が多く、しかもその内容には裏付けと論理性があるので説得力があります。

うっちゃん先生の古代史


以下に、私が驚いたことの中から、内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”から、4つの文章を青字で引用します。①と④は「ブログNo.002 列島へ漂着した三つの「大族」について」、②と③は「ブログNo.47 九州政権実在のデータ 詐欺的手法で抹殺図る」に書かれています。なお、写真や図は、私が文章に関連しそうなものを入れました。

① 熊襲は中国からのボートピープルで、高度な技術を身につけていた。
「熊曾於(熊襲)」族は紀元前5~4世紀ごろ?から、南九州一帯を拠点にして九州全域を勢力下に置いていた巨大氏族の総称である。『日本書紀』が説く日本史の上では「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は,弥生時代前期から中期にかけてと思われる。
なぜそれがわかるかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」や独特の墳墓の形に解明のかぎがある。先祖の一人はお姫様と結婚した飼い犬の「盤古」であったという氏族伝承をもつ。焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくためにどうしても犬が必要であり、家族同様の伴侶であったからこのような伝説が生まれた。元来は中国大陸全域を支配していた現在の少数民族の多くと熊曾於族が同様の伝説をもっていた。
 「熊襲」は『日本書紀』の表記であるが、彼ら自身は自らのことを「熊曾於(くまそお)族」と自称していたらしい。「熊」には動物のクマのほか「輝かしい」という意味があるのである。「我々は輝かしい曾於(soo)族である」と誇っていたのだ。中国でも少数民族の総称を「sou」と呼んでいる。
 彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33.2センチ)が出土している。同じ形式の玉璧は広東省の南越王墓など中国大陸海岸部から多数出土している。現在、中国山東省南部や江蘇省北部,などからから熊曾於族の墳墓である地下式横穴墓や地下式板積み墓と全く同じものが多数発掘されている。」


地下式横穴墓連結2

② 大和政権の前に九州政権があり、九州年号があった。
「大和政権が初めて建てた年号は701年の「大宝」である(続日本紀)。それ以前に九州倭(ヰ)政権が522年から建てた「九州年号」があり、「古事記」「日本書紀」以外の数多くの史書に明記されている(「続日本紀」、「二中歴」、「興福寺年代記」、「日本大文典」、「海東諸国紀」など)。さらに神社の縁起など青森から鹿児島まで全国で約400件の実際の使用例が見つかっている。最近でも江戸時代にこの年号を記した文書が発見されている。この年号の存在が当時でも一般の人の常識であったことがわかる。
年号を制定し、時の指標とさせることができるのは「政権」や「天皇」だけである。701年以前、列島で年号を建てる権限をもっていた、すなわち列島を支配していた「天皇」は九州倭政権の天皇であったと考えるほかない。」


九州年号_800KB

③ 近畿にある主要な前方後円墳の石棺に、熊本で造られた阿蘇石を使っている。
「日本独自の古墳の形とされる「前方後円墳」について考古学研究者の多くが「大和政権が採用した古墳の形である」とし、これが全国にあることで「大和政権」が3,4世紀ごろから全国を支配していた証拠だと解説している。
 ところが発掘された近畿の主要な前方後円墳(大王墓とされる)の多くに九州・熊本で造られた石棺が納められていることがわかってきた。考古学研究者の多くがこのことにほっかむりをしている。
そして、全国の「前方後円墳」について放射性炭素(C14)による年代測定など確実な年代測定をしないまま、ホケノ山古墳や箸墓など大和の一部の古墳だけについて年代測定をし、「大和の前方後円墳が一番古い」などと誰が聞いてもおかしいと思われる見解を出している。
これは「日本では大昔から政権と言えるのは大和にあった政権だけである」と解釈される「日本書紀」の記述を鵜呑みにした説であり、それ以外の根拠は全くない。
「九州製石棺」問題は、近畿の前方後円墳などに葬られているのは九州政権から派遣された官人(熊曾於や紀氏族)が葬られている、と解釈すべきであろう。
「前方後円墳」の副葬品の中に貝製品を模したお守り(魔除け=石釧、鍬形石など)が数多く存在するのも、被葬者が九州の鹿児島、宮崎、熊本、大分などに渡来し、日本人化した東アジアの南方出身者である証拠であると考えるほかない(ブログNo.5、7,8参照)。」


④ 『日本書紀』は「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」ことにするための偽書である。
「『日本書紀』はいわゆる「大和政権」が8世紀初めに日本の支配権を奪還した後に作った「史書」である(「大和」の本来の呼称は「ワ」か。「大」は美称)。であるから長年「大和(ワ)勢力」を押さえつけてきた熊曾於族や紀氏主体の九州倭(い)政権、そして「邪馬壹国」の存在をその「史書」から消し去り、「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」というあり得ない話を作りあげた。歴史的「偽書」である。そして7世紀末から8世紀初めごろ、分裂した熊曾於族や紀氏の一部らを徹底的に殺戮(さつりく)し、あるいは徹底抗戦を貫いた「紀氏」を含む人々を賤民(せんみん)に落としたのである。
 「不倶載天(ふぐさいてん)の敵」であるとして彼らを「狗人(いぬびと)」とか「隼人(はやひと)」と呼んで、あたかも「蛮族」であるかのごとく記述して報復したのである。」


なお、上記①にある「九州政権」と「九州年号」は、内倉氏の師匠筋にあたる古田武彦氏が最初に提唱しました。そこで、古田武彦著「失われた九州王朝 天皇家以前の古代史」(ミネルヴァ書房)を読んでみました(下記写真の左側)。

古田武彦本2冊_800KB

この本は、多くの出土物、隣国の史料を多角的に緻密に検討して、「九州政権」の存在を明らかにしています。これに対して、逐一反論できる人はいないと思いました。そして、古田武彦氏は以下のように断言していました。
「九州の倭国こそ、1~7世紀の間の、日本列島代表の王者だった。これに対し、8世紀以降、倭国の分流であった日本国(近畿天皇家)が、白村江で完敗した倭国に代わり、これを”併呑”して新たに日本列島の代表の王者となった」
「日本書紀は『九州年号』を否定するために作られた」

なお内倉氏は、新たに見いだされたデータを付けて、古田氏と同じく、九州政権の首都は大宰府にあったと講演され、書物も著されています。

私は、従来の古代史の資料には、遺跡や出土物や史料の記載が多く、それらが語る”人間の物語”が少ないのを物足りなく思っていました。今回、内倉武久氏と古田武彦氏が書かれた古代史の資料を読み、生きた人間の歴史が脳裏に想い浮かぶ楽しさを味わいました。

内倉武久氏の書籍は売り切れて在庫がないものが多いようですが、出版社に『熊襲は列島を席巻していた 九州倭政権と「蛮族」の実像』と『卑弥呼と神武が明かす古代 日本誕生の真実』があったので註文しました。早く手にとって読みたいと思ってます。

内倉武久本4冊

また今後、内倉氏が大隅で新たな古代史の実像を掘り起こして、提示してくださることを期待しています。
スポンサーサイト



古墳が多い大隅半島

大隅半島には古墳が多いです。特に志布志湾沿岸・西海岸沿いに多い。志布志湾沿岸部には、3世紀後半から6世紀前半にかけての前方後円墳17基,円墳304基の存在が知られています。一方、鹿児島湾岸やその内陸部には、ほとんど古墳がありません。


志布志湾岸の古墳地図508KB

志布志湾沿岸の古墳(肝付町立歴史民俗資料館の展示物)



なぜ大隅半島に古墳が多いのか、その理由を知りたいが、手に入りやすい関連資料を読んでも、畿内の中央勢力と密接な関係があったということぐらいしか書いてありません。今後、建国神話との関連や、当時の具体的な統治・生活・文化様式に関して、大胆な仮説が出てくることを期待したいです。

この地域の主要な3つの古墳を、以下にご案内します。説明は、主に鹿屋市文化財センターの資料から拝借しました。

1.塚崎古墳群
まず、肝付町にある塚崎古墳群からから見ます。大隅では最も古い古墳時代前期(300年代初頭)から築造が始まった古墳群で、前方後円墳が5基と円墳などが39基あります。畿内型の古墳群としては日本最南端に位置するものであるそうです。


塚崎古墳群の案内板

塚崎古墳群の案内板と地域の風景



私は、古墳上に樹齢1300年の大楠(国指定天然記念物)がある塚崎1号墳しか見ていません。この大楠は、鹿児島県内では「蒲生のクス」「志布志の大クス」に次いで3番目に大きいものです。


塚崎1号古墳315KB

塚崎1号墳



塚崎古墳群内には「肝付町立歴史民俗資料館」があり、古墳からの出土物が展示されています。


歴史民俗資料館

肝付町立歴史民俗資料館




塚崎古墳群で発見されたもの527KB

塚崎古墳群で発見されたもの(肝付町立歴史民俗資料館の展示物)



2.唐仁古墳群
肝属地域を代表するのは肝属郡東串良町の唐仁古墳群です。前方後円墳5基、円墳135基からなります。


唐仁古墳群の説明板

唐仁古墳群の説明板



この地域最大の唐仁大塚古墳は、全長154mの大型前方後円墳です。この大きさは九州で第3位の大きさです。古墳時代中期初頭(300年代末)に、最初に大塚古墳(1号墳)が築かれ、その後に多くの古墳が作られたと考えられています。
大塚古墳の墳頂には大塚神社があり、その床下には石室が収められています。


唐仁1号墳と大塚神社

唐仁大塚古墳と大塚神社



河野俊章氏の著書である『予言、大隅邪馬台国』(牧歌舎刊)には、『魏志倭人伝』(280年ごろ)を基に、「大塚古墳」が卑弥呼の墓で、邪馬台国は大隅にあったと推定している。私には、説得力のある興味ある本でした。


予言、大隅邪馬台国

『予言、大隅邪馬台国』(牧歌舎刊)



しかし、私は、田中英道氏の『なぜ卑弥呼神社がないのか ――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」』の論考を読んでから、「邪馬台国」は無いという氏の考えに傾きました。

唐仁古墳群は、狭い地域に古墳が密集していて、その数の多さに驚かされます。歩いてみれば、そこかしこに盛り上がった古墳が見えます。一見の価値があります。これほど古墳がたくさんあれば、よそ者には古墳に関わる博物館や売店があっても良さそうに思えますが、何もないです。


唐仁古墳群

唐仁古墳群の一部



3.横瀬古墳
前方後円墳の全景がよく見えるのは、曽於郡大崎町の横瀬古墳です。墳丘の前長が140mで、周囲に二重周溝を巡らし、墳丘表面を埴輪で飾っていました。400年代前半に築かれたと考えられています。周囲に古墳群がなく、単独で存在している大型古墳で、九州で第6位の大きさです。


横瀬古墳の説明板

横瀬古墳の説明板




横瀬古墳の全景

横瀬古墳の全景



大隅には、まだ他にも、たくさんの古墳があります。古墳の研究成果から、古墳時代の物語が聴ける日が来ることを期待しています。


テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報