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太古の昔から日本本土の玄関であった南九州

 南九州、特に鹿児島は、太古の昔から、海外からの日本本土の玄関でした。今のように大型船や飛行機がない時代は特にそうでした。その具体例として、最近得た情報ですが、古代に日本を席巻した海外から南九州に漂着した民族や野菜についてお伝えします。

 

1 九州に漂着した三大族

内倉武久氏による説では、州に中国から三つの大族が漂着し、7世紀末まで日本の古代政権をになった勢力がありました。そのうちの二大族(熊襲於族と天族)は鹿児島に漂着しました。内倉武久氏のブログや書籍に書いてあるように、彼らが大和政権の前に、九州政権を確立し、全国に足跡を残しました。三大族は、漢民族に中国南部から追い出されたボートピープルと考えられます。

三大族の連結

 

その裏付けの一つとして、NHKのテレビ番組「私たちは何者か~DNAで迫る現代日本人への道」でも紹介していましたが、2021年の金沢大学の遺跡出土人骨のゲノムデータ解析から、古墳時代(3世紀中頃から7世紀末)から現代人に近い「東アジア」ルーツが急激に増えていることが示されました。

日本人ゲノムの変遷

 

2 鹿児島に伝来した野菜

① サツマイモ

最近、サツマイモが日本本土に最初に着いたのが鹿児島県の大隅半島の高須であったという本を読みました。右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』です。 
サツマイモ本土伝来の真相_連結

 通説では、サツマイモは今の鹿児島県指宿市山川の漁師・前田利右衛門が、宝永2年(1705年)に琉球から薩摩に持ち帰り普及したと言われています。

しかし著者によると、江戸時代に漁師が前田という姓を持つことはなく、また当時の漁師が山川から 約760キロ余り離れた遠方の琉球に出かけて漁をすることはありえず、さらに実像を示す決定的な資料もないなど、漁師の前田利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰ったことはありえないと主張しています。

著者は、右田家の家系図、時代背景、サツマイモのルーツを再検証して、実際は親・子・孫の3代に渡って官途俗名を世襲した、今の鹿児島県鹿屋市高須町の薩摩藩士・右田利右衛門が、琉球からサツマイモを持ち帰り、大隅、薩摩地方に普及させたとして、上記の通説を覆しました。

 

② 落花生

田中良八は文政6(1823)年、垂水の新城の大浜で浦人・田中善兵衛の長男として生まれました。明治12(1879)年立春のころ、漁業の先進地の鹿児島の山川に視察に行き、滞在した旅籠でお茶請けとして「琉球豆」という珍しい豆が出されました。旅籠の主人の話によると、それは中国から琉球へ伝わった「落花生」で、南京豆、地豆などと呼ばれ、琉球から戻ってきた人の土産にもらった豆だということでした。

良八はその豆に興味をもち、10粒をもらって帰りました。4月初め頃、持ち帰った種を試しに植えてみたところ、秋にみごとな収穫となりました。


当時、農漁民の社会的経済的な地位の向上を目指していた良八は、換金作物を主体とする農業経営が必要だと考えていました。
さらに、村ぐるみで増産計画を進めることが良策と考えた良八は、落花生栽培5ヶ年計画・栽培要項・指導要領を作成して戸長の中村思無邪氏を訪問し、説得に努めて実現しました。また明治16(1883)年には、花岡村の戸長を訪ねて落花生栽培を始めることを勧めた結果、花岡は落花生の一大生産地となりました。

(参考文献:上園正人「落花生翁田中良八について」―『七岳』第20号)

落花生翁_連結

 

③ ムクナ豆

前回のブログでも取り上げた豆です。

ムクナ豆はツル性の豆で、インドや東南アジアが原産と言われています。日本では八升豆と呼ばれ、江戸時代に鹿児島で食用に栽培されていたと聴きました。しかし硬い豆であるためか、その後に栽培されなくなりました。海外からの入手経路に関する資料は見つかりません。私は江戸時代に鹿児島では琉球から入手したと推測しています。

ムクナ豆_3連結

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砂鉄の多い大隅半島と熊襲の活躍の背景

以前に本ブログで一部を紹介しましたが、古代史研究家の内倉武久氏によると、古代に中国南部から大隅半島に渡来した熊襲は、当初は大隅半島に住み着きました。出身地と同じ地下式横穴墓(以下の写真)やシンボルマーク(逆S字、鳥、蛇など)、各種の風習(犬祖伝説、相撲、流鏑馬など)、金属利用技術をもたらしました。その後、全国にその痕跡を残しました。
地下式横穴墓3連結


熊襲は紀氏などと一緒になって、日本初の政権である九州倭政権を作り、九州年号を制定しました。大和政権により、これらの事実は隠蔽されましたが、徐々に事実が明らかになってきました。

熊襲らがこのような大きな権力を持ったのは、内倉氏が言われるように、鉄を利用して武器や武具を作る技術があったためと考えられます。当然のことながら、農業生産の飛躍的向上にも鉄は役立ったはずです。また戦では、熊襲が得意であった馬の利用も有利に働いたはずです。

熊襲が最初に住み着いた大隅半島に、
鹿児島県地図_文字入


鉄の武器を作るための金属資源はあったのか調べてみたら、高隈を中心に金属鉱山が沢山ありました。
以下の写真は「広報かのや」に掲載された高隈山にあった鉱山の説明です。
高隈山に点在していた鉱山


大隅半島の海岸では、古くから砂鉄が採掘されていたそうです。
垂水市のまさかり海岸には、鎌倉時代からそこの砂鉄を使って刀が造られていたと書かれた説明板がありました。最近、台風でこの説明板が飛ばされて無くなっていました。この海岸にも川が流れ込んでいます。
まさかり海岸2連結_1


まさかり海岸で磁石で砂鉄を探したら、現在は極めて狭い砂地にあるだけでした。隣接の温泉経営者は、昔は黒い浜であったのが、白い浜になったと言っていました。
まさかり海岸2連結_2


南大隅町の坂之口遺跡は、砂鉄の採掘時に発見された弥生中期の祭祀遺構(神霊を祀った遺跡)です。
山之口遺跡の石碑文3連結


以前に鹿屋市の浜田海岸で砂鉄が採取されていたと古老から聴いたので、浜田海岸に行きました。海岸に川が流れ込み、砂鉄の黒い紋がたくさん見えました。そのような所に磁石を近づけると、砂鉄が良く付きました。
浜田海岸2連結


浜田海岸の隣りにある高須海岸では、砂鉄の黒い紋は少なく、磁石に付く砂鉄量は少なかったです。ここには川が流れ込んでいません。
高須海岸2連結


高須海岸から500mくらい北側に流れている高須川の河口に行きましたら、砂の上に砂鉄の紋がたくさんあり、磁石に多量の砂鉄が付着しました。
高須川河口の砂鉄2連結


以上の海岸地域での砂鉄の多寡から、海岸にある砂鉄の主な供給源は陸側にあり、川から供給されていると推測しました。


吾平山陵を流れる姶良川の土堤は散歩コースになっています。鹿屋市吾平町の「湯遊ランドあいら」近くにある更生橋から下流には、雑草がない冬場には、川岸に鉄錆色の地層が何か所かに見えます。更生橋近くのそのような場所の砂地に磁石を当ててみたら、沢山の砂鉄が採れました。
姶良川砂鉄2連結


以上の狭い地域での調査結果ですが、大隅半島には砂鉄などの金属資源が豊富にあり、古代には容易に手に入れることができたと考えられます。金属利用技術に長けた熊襲が大隅半島に住み着いてから、金属資源を使って武器を作って勢力を伸ばして、一時は全国を制覇したことはありうることであると思いました。


内倉武久氏の古代史説に興味がある方は、同氏の『熊襲は列島を席巻した』(ミネルヴァ書房)とブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいぜ」”をご覧ください。

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中国の長江文明を受け継いだ南九州

以前に、本ブログで古代史研究家の内倉武久氏の古代史説を「日本古代史の驚きの”事実と新説”」でご紹介しました。

内倉氏によると、『「熊曾於(熊襲)」族は紀元前5~4世紀ごろ?から、南九州一帯を拠点にして九州全域を勢力下に置いていた巨大氏族の総称である。『日本書紀』が説く日本史の上では「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は、弥生時代前期から中期にかけてと思われる。(略)

 彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33.2センチ)が出土している。同じ形式の玉璧は広東省の南越王墓など中国大陸海岸部から多数出土している。現在、中国山東省南部や江蘇省北部,などからから熊曾於族の墳墓である地下式横穴墓や地下式板積み墓と全く同じものが多数発掘されている。』
地下式横穴墓の分布と図

最近、大陸からのボートピープルに関する情報を得るために、安田喜憲著『龍の文明 太陽の文明』(PHP新書)を読みました。この本によりますと、古代中国の南北文明の興亡で、以下に引用するように(一部に追加・削除した)、北方の漢民族の「龍の文明」は南方の「太陽の文明(長江文明)」を滅ぼします。

『北方の漢民族の「龍の文明」は、畑作・牧畜地帯で、龍を信仰する龍族が存在していた。一方、南方の「太陽の文明(長江文明)」は、稲作・漁撈地帯で、太陽や鳥、それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が存在していた。その南北構造のルーツは7千年前までさかのぼることができる。

4千年前ころ、長江文明が気候の乾燥化と北方の畑作・牧畜民の侵略によって衰退すると、北方の龍族が南方の太陽族・鳥族・蛇族を駆逐しはじめた。とりわけ3千年前以降の気候の寒冷化は、北方からの龍族の南下に拍車をかけた。

かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、日本民族へ受け継がれ生き残る。南九州に流れ着いて、稲作文明をもたらし、太陽、鳥、蛇を神とし崇拝する世界観を持ち、日本神話にもその影響を及ぼした。』
以下の
長江文明衰亡に関する図は、インターネットの公開情報から借用しました。
長江文明衰亡
『龍の文明 太陽の文明』には、両文明のシンボル模様に関する記述や写真が多いです。
南方の「太陽の文明(長江文明)」の典型的なシンボル模様は、稲作に必要な「太陽」と稲作・漁撈民が定住した湖沼地帯にいる「鳥」で、鳥が中国神話の伝説の鳥であるシンボル模様之「鳳凰」を誕生させたとしています。
その他のシンボル模様として、蛇、二匹の蛇がとぐろを巻いたダブルスパイラル(永劫の再生と循環をくり返すシンボル)、逆S字、牛、犬などがあります。

シンボル3連結_文字入

両文明の吉数にも違いがあり、「龍の文明」は九であり、「太陽の文明」は八か六です。日本人が好む末広がりの「八」の世界観の源流も「太陽の文明」にあった可能性があります。

さてここで、私が住む大隅半島の史跡や伝説を見聞きすると、「太陽の文明(長江文明)」のシンボルである太陽、鳥(鳳凰)、蛇、渦巻き、牛、犬が出てきます。その事例を以下にいくつか紹介します。
1 内之浦市の高屋神社の牛の木像
  高屋神社の拝殿の中を覗くと、牛の木像が置いてありました。
高屋神社と牛像

2 内之浦市の高屋神社、曽於市の熊野神社の渦巻文の彫り物
高屋神社の本殿の屋根の下の彫り物や、熊野神社の拝殿の向拝柱の上の彫り物に、渦巻きや蛇のような模様があります。高屋神社は景行天皇が熊襲征伐の際に創建されたと言われていますが、内倉武久氏は九州政権の天皇であった景行天皇が熊襲征伐するのは怪しいと言われています。上記の模様や牛の木像が内倉氏の主張を裏付けていると思います。
渦巻文の連結2_文字入

3 鹿屋市吾平町の中尾遺跡から出土した象嵌装太刀の心葉文(鳳凰)
中尾地下式横穴墓群(6世紀末頃)の6号墓より出土した大刀に銀による象嵌(地板に線を嵌め込む)でハート形文様(心葉形文)がCTスキャンによって鮮明に確認できました。心葉文は中国の空想上の鳥(鳳凰)を示しています。
象嵌装太刀と心葉紋_文字入

4 肝付町津曲のウガヤフキアエズノミコトの生誕伝説地に伝わる大蛇の出産伝説
生誕地に隣接する家主の森園純治氏から聴いた伝説です。「ここはトヨタマヒメが柏原で安産祈願のシオガキをして帰る時に急に産気づいたため、地元の人達が孟宗竹で産屋を造って差し上げて、ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇の御尊父)を出産した場所と伝えられている。出産時はウガヤフキアエズノミコトが大蛇であったので、皆が恐れおののいてひれ伏したと言われている。昔は12月28日に地元の人が一握りのワラを持ち寄って長さ11ヒロ(16.5m)と33ヒロ(49.5m)のしめ縄を作り、蛇の姿にして飾る祭りがあった。」

『龍の文明 太陽の文明』の著者は「環境考古学」という学問分野を確立した理系の学者です。この本には、大阪府高槻市の今城塚古墳の石棺に、熊本県の宇土地方産のピンクの凝灰岩が使用されていることも書いてあるので、その事実を隠したがっている大学の考古学者ではないことも分かりました。

この本の内容は内倉武久氏の古代史説とも符合し、大和政権が捏造して蔑まれてきた「南九州の古代史」がこれから大きく塗り替わるような期待を持ちました。

日本古代史の驚きの”事実と新説”

最近、古代史研究家の内倉武久氏に初めてお目にかかり、近々、大隅に移住されて古代史研究を進められると伺いました。
内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”を読むと、私には初めて知る驚くべき内容が多く、しかもその内容には裏付けと論理性があるので説得力があります。

うっちゃん先生の古代史


以下に、私が驚いたことの中から、内倉さんのブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”から、4つの文章を青字で引用します。①と④は「ブログNo.002 列島へ漂着した三つの「大族」について」、②と③は「ブログNo.47 九州政権実在のデータ 詐欺的手法で抹殺図る」に書かれています。なお、写真や図は、私が文章に関連しそうなものを入れました。

① 熊襲は中国からのボートピープルで、高度な技術を身につけていた。
「熊曾於(熊襲)」族は紀元前5~4世紀ごろ?から、南九州一帯を拠点にして九州全域を勢力下に置いていた巨大氏族の総称である。『日本書紀』が説く日本史の上では「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は,弥生時代前期から中期にかけてと思われる。
なぜそれがわかるかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」や独特の墳墓の形に解明のかぎがある。先祖の一人はお姫様と結婚した飼い犬の「盤古」であったという氏族伝承をもつ。焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくためにどうしても犬が必要であり、家族同様の伴侶であったからこのような伝説が生まれた。元来は中国大陸全域を支配していた現在の少数民族の多くと熊曾於族が同様の伝説をもっていた。
 「熊襲」は『日本書紀』の表記であるが、彼ら自身は自らのことを「熊曾於(くまそお)族」と自称していたらしい。「熊」には動物のクマのほか「輝かしい」という意味があるのである。「我々は輝かしい曾於(soo)族である」と誇っていたのだ。中国でも少数民族の総称を「sou」と呼んでいる。
 彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33.2センチ)が出土している。同じ形式の玉璧は広東省の南越王墓など中国大陸海岸部から多数出土している。現在、中国山東省南部や江蘇省北部,などからから熊曾於族の墳墓である地下式横穴墓や地下式板積み墓と全く同じものが多数発掘されている。」


地下式横穴墓連結2

② 大和政権の前に九州政権があり、九州年号があった。
「大和政権が初めて建てた年号は701年の「大宝」である(続日本紀)。それ以前に九州倭(ヰ)政権が522年から建てた「九州年号」があり、「古事記」「日本書紀」以外の数多くの史書に明記されている(「続日本紀」、「二中歴」、「興福寺年代記」、「日本大文典」、「海東諸国紀」など)。さらに神社の縁起など青森から鹿児島まで全国で約400件の実際の使用例が見つかっている。最近でも江戸時代にこの年号を記した文書が発見されている。この年号の存在が当時でも一般の人の常識であったことがわかる。
年号を制定し、時の指標とさせることができるのは「政権」や「天皇」だけである。701年以前、列島で年号を建てる権限をもっていた、すなわち列島を支配していた「天皇」は九州倭政権の天皇であったと考えるほかない。」


九州年号_800KB

③ 近畿にある主要な前方後円墳の石棺に、熊本で造られた阿蘇石を使っている。
「日本独自の古墳の形とされる「前方後円墳」について考古学研究者の多くが「大和政権が採用した古墳の形である」とし、これが全国にあることで「大和政権」が3,4世紀ごろから全国を支配していた証拠だと解説している。
 ところが発掘された近畿の主要な前方後円墳(大王墓とされる)の多くに九州・熊本で造られた石棺が納められていることがわかってきた。考古学研究者の多くがこのことにほっかむりをしている。
そして、全国の「前方後円墳」について放射性炭素(C14)による年代測定など確実な年代測定をしないまま、ホケノ山古墳や箸墓など大和の一部の古墳だけについて年代測定をし、「大和の前方後円墳が一番古い」などと誰が聞いてもおかしいと思われる見解を出している。
これは「日本では大昔から政権と言えるのは大和にあった政権だけである」と解釈される「日本書紀」の記述を鵜呑みにした説であり、それ以外の根拠は全くない。
「九州製石棺」問題は、近畿の前方後円墳などに葬られているのは九州政権から派遣された官人(熊曾於や紀氏族)が葬られている、と解釈すべきであろう。
「前方後円墳」の副葬品の中に貝製品を模したお守り(魔除け=石釧、鍬形石など)が数多く存在するのも、被葬者が九州の鹿児島、宮崎、熊本、大分などに渡来し、日本人化した東アジアの南方出身者である証拠であると考えるほかない(ブログNo.5、7,8参照)。」


④ 『日本書紀』は「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」ことにするための偽書である。
「『日本書紀』はいわゆる「大和政権」が8世紀初めに日本の支配権を奪還した後に作った「史書」である(「大和」の本来の呼称は「ワ」か。「大」は美称)。であるから長年「大和(ワ)勢力」を押さえつけてきた熊曾於族や紀氏主体の九州倭(い)政権、そして「邪馬壹国」の存在をその「史書」から消し去り、「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」というあり得ない話を作りあげた。歴史的「偽書」である。そして7世紀末から8世紀初めごろ、分裂した熊曾於族や紀氏の一部らを徹底的に殺戮(さつりく)し、あるいは徹底抗戦を貫いた「紀氏」を含む人々を賤民(せんみん)に落としたのである。
 「不倶載天(ふぐさいてん)の敵」であるとして彼らを「狗人(いぬびと)」とか「隼人(はやひと)」と呼んで、あたかも「蛮族」であるかのごとく記述して報復したのである。」


なお、上記①にある「九州政権」と「九州年号」は、内倉氏の師匠筋にあたる古田武彦氏が最初に提唱しました。そこで、古田武彦著「失われた九州王朝 天皇家以前の古代史」(ミネルヴァ書房)を読んでみました(下記写真の左側)。

古田武彦本2冊_800KB

この本は、多くの出土物、隣国の史料を多角的に緻密に検討して、「九州政権」の存在を明らかにしています。これに対して、逐一反論できる人はいないと思いました。そして、古田武彦氏は以下のように断言していました。
「九州の倭国こそ、1~7世紀の間の、日本列島代表の王者だった。これに対し、8世紀以降、倭国の分流であった日本国(近畿天皇家)が、白村江で完敗した倭国に代わり、これを”併呑”して新たに日本列島の代表の王者となった」
「日本書紀は『九州年号』を否定するために作られた」

なお内倉氏は、新たに見いだされたデータを付けて、古田氏と同じく、九州政権の首都は大宰府にあったと講演され、書物も著されています。

私は、従来の古代史の資料には、遺跡や出土物や史料の記載が多く、それらが語る”人間の物語”が少ないのを物足りなく思っていました。今回、内倉武久氏と古田武彦氏が書かれた古代史の資料を読み、生きた人間の歴史が脳裏に想い浮かぶ楽しさを味わいました。

内倉武久氏の書籍は売り切れて在庫がないものが多いようですが、出版社に『熊襲は列島を席巻していた 九州倭政権と「蛮族」の実像』と『卑弥呼と神武が明かす古代 日本誕生の真実』があったので註文しました。早く手にとって読みたいと思ってます。

内倉武久本4冊

また今後、内倉氏が大隅で新たな古代史の実像を掘り起こして、提示してくださることを期待しています。