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大隅の偉人:小野勇市

鹿児島県では薩摩半島の偉人に関する本は無数にありますが、我が郷土の大隅半島では偉人の本は極めて少ないです。例えば、薩摩では西郷隆盛、大久保利光、黒田清輝、小原國芳、海音寺潮五郎など。

これには歴史的背景があって、大隅を長く治めていた肝付氏が薩摩の島津氏に制服されて、大隅の歴史的資料が消え、各種の圧迫があったためと思われます。
しかし、石碑などから大隅にも多くの偉人がいたことは確かです。残念ながら詳しい情報が残っていないので、伝記は書けません。

比較的近い過去の偉人であれば、遺族や近親者の思い出話が聴けるので、伝記が残せることがあります。
今回、黒木次男氏が、明治から昭和初期に活躍した小野勇市氏の功績をまとめた『不屈の挑戦』が出版されました。郷土の偉人を探し求めている小生には、うれしい出版です。
小野勇市氏は18歳の若さで、水のない広大な笠野原台地に水道を引く決意をして、難工事の末に竹管水道を敷設し、更に日本一の耕地整理までしました人です。
本と小野勇市_3連結

笠野原台地は、厚いシラス層からなる約6300haの広大な台地です。藩政時代から生活用水を得るために、台地のあちこちに生活用水用に深井戸が掘られました。文政年間から天保年間(1818年~1843年)の頃です。井戸の深さは30~83mですから、一人で水を汲みあげることはできません。その後のかんがい事業は進みませんでした。
飲水は遠方から馬で運んだり、深井戸から牛馬で縄を引かせて汲み上げていました。風呂は、井戸のある裕福な家の手伝いをしながら、「もらい風呂」をする人が多かったそうです。
牛に引かせた昔の写真_文字入り2 (1)

小野勇市氏は明治16年(1883年)に、高隈村大黒(今の鹿屋市下高隈町大黒)に生まれました。18歳の時から水を集落まで引くという事業をまわりの人に語り、技術的な対策の勉強を続けました。

枦場に移り住み、水の苦労を感じていた同じ考えの岩元甚吉氏と出会い、明治34年(1901年)に大堀方限(町内会)の総会に、竹を用いた水道の案を諮り、48戸の同意を得ました。苦労して人を集めて、明治34年に孟宗竹3,000本をつないで、難工事の末に山下から枦場まで8km水を引きました。竹の節抜きは、松の木に竹を立て、上から鉄棒を落として節を空けたという。竹のつなぎが外れないように、見回りもしたそうです。
まわりから絶対不可能と言われた難事業をやり遂げました。竹管水道は笠野原水道ができる昭和2年(1927年)まで使われました。
不屈の挑戦4_800KB

その後、串良村の中原菊次郎氏や鹿屋町の森宗吉氏などの協力を得て、鹿屋町、串良村、高隈村の3町村で笠之原水道組合と笠之原耕地整理組合を結成し、昭和2年(1927年)に全域に通水しました。
水道敷設事業が終わってから、昭和2年から耕地整理事業が本格的に始まり、昭和9年(1934年)に完成しました。
不屈の挑戦6_文字入

その後、高隈ダムができて、日本初の国営の畑かん事業が順調に進んだのは、耕地整理が既にでき上がっていたからでした。

小野勇市氏は28歳で村会議員に推され連続8回議員を勤め、任期中の昭和14年(1939年)4月28日に57歳で他界しました。

小野勇市氏は子供の頃から地域に一番必要なことと、その対策のストーリーを考え続け、同じ考えを持ち実行力のある協力者を徐々に増やして、地域住民を説得して、まわりから絶対不可能と言われた難事業をやり遂げました。この話は、地域おこしの要諦を教えてくれます。

黒木次男著『不屈の挑戦』は、鹿屋市役所売店で販売(650円)しています。写真が豊富で読みやすい本です。
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テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

大隅の偉人:野村伝四

野村伝四(1880~1948年)は、夏目漱石の東大での教え子で小説「三四郎」のモデルになったと言われ、髙山(今の鹿児島県肝属郡肝付町)に生家と墓があります。生家は人手にわたり、今は無人です。庭には秀吉の朝鮮出兵時に朝鮮から持ってきたと伝わる椿の侘助の巨木があります。
野村伝四生家と侘助                                                                               伝四の生家と侘助

父親の野村伝一郎は、武芸、学問に秀でた人で、参勤交代で江戸に出向したり、長州征伐、西南の役にも出征し、地頭仮屋で横目の役も勤めていました(『大隅』第53号「明治時代の家屋普請について」 竹之井 敏)。
伝四の墓は肝付町前田の長能寺墓地にあります。伝四の新婚を祝って、漱石が贈った句「日毎ふむ艸芳しや二人連れ」が墓石にきざまれています。その横に野村家の新しい墓があります。
伝四と野村家の墓                                                   伝四の墓(左端)と野村家の墓

渡口行雄「故郷忘じがたく-野村伝四の生涯-」(『大隅』(第59号)2016年)によると、『伝四は明治13年9月、旧高山村(現肝付町)で野村伝之助の四男として誕生。ちなみに長兄は伝一郎、以下順番に伝二、伝三と続く。伝之助には西南戦争のことを書いた「出陣日記」などがあるという。伝四は鹿児島市内の造士館を経て上京し、旧制一高、東京帝国大学と進む。専攻は英文学で大学時代の恩師が夏目漱石である。伝四は漱石の一番弟子と言ってもいい存在で、漱石が彼に宛てた58通もの手紙が「漱石全集」に収められている。

明治39年に帝大を卒業し、41年2月にはセイさんと結婚する。夫人は旧加治木町出身で、昭和49年に88歳で亡くなっているという。英語教師として岡山や山口、佐賀、愛知、大阪の旧制中学などを転々とし、大正10年から旧奈良県立桜井高女、昭和3年から同五條中学の各校長に就任、同9年から奈良県立奈良図書館長となった。戦時中の同17年に退職して戦後の23年7月に亡くなっている。享年67歳。

英語教師だったにもかかわらず、民俗学者あるいは言語学者として名をなした。「ことばの奈良」「大和の垣内」「大隅肝属郡方言集」などの数々の著作があり、特に後者は民俗学の泰斗・柳田國男の序文がついており、貴重な資料となっている。また、故郷の大隅半島を舞台にした随筆「鷹が渡る」は名文で、旧制中学の国語の教科書にも掲載されていたという。』

漱石邸で後輩が多い中、伝四は右端に遠慮がちに立っています。
漱石邸での伝四_800KB                                                                        漱石邸での伝四(右端)

修善寺の大患で漱石が大量失血した際には、枕元に付き添うのを許されたのは伝四と安倍能成の2人だけであったそうです。漱石の自宅での集まりにおいても、伝四が漱石の隣にはべっていたのは、それだけ信が厚かったことを示しており、また控えめで泰然自若としている気質が、漱石の最も愛した弟子と称される理由でありましょう。

渡口行雄は桜井高女での伝四の功績を次のように書いています。『桜井高女時代の在勤七年間で、もっとも功績があったのは「体位の向上と体育の奨励」であったようだ。西洋諸国に比べて、著しく見劣りする体位の向上のために、服装を和服から洋服(セーラー服)に改めた。運動に力を入れて、バレーボールや定休、バスケット、弓術などを勧め、ラグビーボールを使ったハンドボールも伝四校長時代に始められた。その結果、年ごとに女子学生の体位は向上し、全国平均を常に上回ったという。昭和三年に伝四が運動部の校内大会のために寄贈した優勝杯は今も残っている。

特筆すべきは女子野球部の創設であろう。(略)当時、高女で野球部があったのは全国で三校だけ。桜井高女チームは大正十四年に大阪で開かれた第二回女子オリンピック野球大会で全国優勝。ところが、翌十五年に文部省が女子野球廃止の訓令を出したので、優勝校の持ち回りになるはずだった優勝旗は永久に同高女のものになったという。大正時代に女子野球部を作った先見性が伝四にあったというのは、驚き以外、なにものでもない。

初めて大正十一年に東京への修学旅行を実施したのも伝四の時代であった。(略:手記)当時の生徒の思い出である。現代と違い、交通事情の大変な時代である。東京などは夢のまた夢であったはず。手記にはその時代に首都を訪ねた喜びがあふれている。
桜井高女の野球部_800KB                                                                        伝四校長と野球チーム

佐藤健著「漱石と野村伝四と我が母」(文芸社)によると、『文部省の視察があっても、「普段のありのままの様子をお見せしろ」と言い、校内の掃除をさせなかった。さらに、彼らの帰りに際して、教頭が自動車を呼ぼうとしたら、伝四は「年寄りの僕でも歩くのだから、若い人は歩いたほうが良いでしょう」と言ったという。文部省はカンカンに怒り、危うく伝四校長のクビが飛ぶという騒ぎになったらしい。

校長として自由を愛する個性豊かな人材の育成に努めた。教育方針は上級学校への進学のためではなく、学問が好きになる教育であると、父兄に言った。伝四がつくった校訓「普(あまね)く 絶えず 正しく」は現在も引き継がれている。』
伝四は、恩師の漱石の権威嫌い、反骨精神を引き継いでいるようにも思えます。しかし、その考えや、教育方針は合理的で、時代を先取りしています。

最後の職務となった県立奈良図書館長の時は、図書館月報に多くの文章を残しています。館長の職務を誠実に履行する一方で、奈良県読書会会長として県下の読書振興に努めました。さらに日本の図書館軽視の風潮に対する警鐘と社会人教育の重要性を主張しています。ここでも、戦時下でありながら、自分本来の考え方を述べている点では、漱石の反骨精神としたたかさがうかがえます。
県立奈良図書館と五條高校伝四校長                                                             県立奈良図書館と五條高校の伝四校長

渡口行雄の「故郷忘じがたく-野村伝四の生涯-」には、伝四の最晩年の6年間を調べて、以下のように書いています。
『伝四の長女の長女にあたる塘(とも)芳子さん(昭和八年生まれ)が大阪府枚方市内にいることがわかった。今では彼を直接知る唯一の生存者である。塘さんとは手紙と電話で何回かやりとりをした。懸案の「空白の六年」はあっけなく埋められた。その証言__。
「館長を辞めてから体が弱くなり、奈良市内の自宅でずっと寝たり起きたりの生活でした。高山のことはいつも思い出しており、退職後は帰って住みたかったはずなのに、病気と戦中戦後の混乱で一度も帰れないままに亡くなりました。それは残念だった、心残りだったと思います。
 塘さんは子供のころは鹿児島市や旧大口市(現伊佐市)に住んでおり、伝四と一緒に住んだことはない。「あまりよく知らないのですよ」と言いながらも、祖父の胸中を推し量る。
 「おばあさん(伝四の妻セイさん)は、戦後、一人で時々、帰郷して高山のお墓参りをしていたようです。私一人を連れて行ってくれたことも覚えています。でも、(漱石との関係など)詳しい事情は何一つ教えてくれませんでした」
 「おじいさんが亡くなって何十年もたちましたのに、今も思ってくださる方がいらっしゃるとは本当にありがたいことです」。しみじみと語る。
 帰郷を切に願いながら、かなわずに異郷に果てた伝四。田舎の墓はセイさんと野村家を継いだ二女が建立したらしい。
 彼の魂は死後、田舎に帰ったはずである。その墓にセイさん、子供のころに亡くなった三女、夭折した長男と四女とともに静かに眠っている。』

私は身近な所に野村伝四の実家とお墓があることを、最近知りました。
虚弱そうなに見える伝四には、合理的な考えと、信念を曲げない強さがあることを知り、それは漱石の影響を受けたためであろうと思いました。合理的、論理的な思考ができることと私欲が少ないことが、信念が揺らがない源であるような気がします。
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