蛍の隠れた名所「鷹直神社」

どういうわけか、蛍がよく出る所を知らないかと尋ねられることが多くなりました。蛍に関心がある人が多くなったのでしょうか。
そのような折に、5月の中旬頃、親戚の者が、かのやばら園の下にある鷹直(たかなお)神社に行ったら、蛍が多いのに感激したと知らせてくれました。

5月27日(土)の15時頃に、場所の下見に鷹直神社に行きました。
横山町から「かのやばら園」に向かう道に入って進み、バラ園に向かう坂を登らないで、400mくらい直進します。なお、そこまでの道の各所に、「蛍の隠れた名所 鷹直神社」と書かれた赤い旗が立っています。


鷹直神社の石碑と駐車場
鷹直神社と書かれた石碑から左折すると、蛍に時期は、駐車場で行き止まりになります。


鷹直神社参道と鳥居
そこから参道を歩くと、鳥居が見えてきます。鳥居から石段を上ると社があります。なお、暗くなると、参道に足元を照らすライトが点いていました。


鷹直神社鳥居横の小川と蛍1
鳥居の横の小川の近辺に、19時半頃から20時半頃に、たくさんの蛍が舞っていました。私が、このような多量の蛍を見たのは数十年ぶりです。


蛍
平家蛍のようです。鳥居から階段を登って社の後ろの林には、源氏蛍がいると地元の人が言っていました。当日そこで、私は1匹しか蛍を見ませんでした。


子どもたちの蛍狩り修正
20時過ぎに子供連れの家族が来て、賑やかになりました。




昼間に下見に行ったときに会った地元の人に聴いたら、3、4年前から蛍の餌のカワニナを撒いたり、上流にある池から小川に流れる水量を制御したり、下草刈りなどをするなどの環境整備をした結果、多量のホタルが出るようになったそうです。

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西郷どんのレジャーランドにある「かのやばら園」

バラ園全景
「かのやばら園」のばらが見頃だと聞いて、5月20日にばら園に行って、園内を歩き回りました。

バラ群生
各種のばらが群生して咲き誇っていて、どの花壇も見ごたえがありました。

バラ大輪結合JPG
春のばらは全体の華やかさを、秋のばらは一輪一輪の花を楽しむものだと言われていますが、春のばらも一輪一輪を楽しめると思いながら写真を撮りました。

連結3縦バラ
開いたばらの近くには、膨らみ始めた蕾があるので、しばらくはばらの見頃が続くことでしょう。

プリンセスかのや
鹿屋オリジナルのばら「プリンセスかのや」は、花びらの表が赤色で、裏が白色なので、私でも見分けることができます。しかし、このばらが群生して、綺麗に咲き誇る姿を見たことがないので、秋に見るのが適したばらなのかもしれません。今回は写真のように、外の花壇と温室でいつもよりは綺麗な姿で見ることができました。

ばらの年間の管理作業
ばらの”出来不出来”は、1月の施肥(寒肥)で8割方決まり、その後の花がらや黄ばんだ葉の摘み取りなど、日頃の管理も大事だそうです。管理事務所に尋ねると、月毎の具体的な管理法を教えてもらえるようです。

南洲庵
ばら園の外には、西郷隆盛ゆかりの茶室「南洲庵」があり、そこの説明板には、「ここ霧島ケ丘を狭しと“翔ぶが如く”走狗する大西郷の姿が目に浮かぶようである」と書かれています。

「かのやばら園」は、ウサギ狩りをして楽しむ西郷どんの遊び場(レジャーランド)の一角でもあることを知らない人が多いようです。これを宣伝すると、「かのやばら園」に来た人が西郷どんの姿やウサギが跳ね回る丘陵を想起して、一層愛着が増すばら園になると、私は思っています。リピーターの多い観光名所は、どこも何かを想起させる場所なのですから。
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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(4)ウガヤの生誕地

ウガヤ生誕地の本と文


緑河創生著「大隅 昭和写真帖」(株式会社南方新社、2007年発行)を見ていたら、「ウガヤの生誕地」というぺージがありました。
その説明を読むと、その場所は、肝付町津曲の森神社跡で、その神殿内に石棺の一部が露出していたらしいです。

私は「日本の建国神話のはじまりの聖地」である大隅の関連遺跡に興味があるので、神武天皇の父親であるウガヤフキアエズノミコトの生誕地があるという肝付町津曲に行ってみることにしました。

津曲集落の消防車の車庫がある広場に車を置いて、庭で作業中の男性に「ウガヤの生誕地」の場所を尋ねたら、集落の外れに石碑があるとおおよその場所を教えてくれました。その辺りを歩いて回ったが場所が特定できなかったので、近くの家の庭に居た老夫婦に「大隅 昭和写真帖」を開いて生誕地について書いてあることを伝えたら、目の前の場所に違いないと、数十メートル離れた場所を教えてもらいました。


ウガヤ生誕地の現地
本の写真とは景色が変わっていたが、竹林の中に文字がない高さ2mくらいの平べったい天然石の碑が1つ建っていました。この孟宗竹林は真ん中が1m弱、盛り上がっていて、本に書いてあるように、田地にするために崩した古墳の跡だったのでしょう。古いブルーシートがしわくちゃになって石碑の近くに放置されていました。


石碑の表裏
石碑の表裏の写真です。この石碑は、古墳にあった石室の3枚の蓋石の1つで、本に書いてあるように、ここは「今は水田になってしまった旧肝属川沿いの竜神宮の拝殿跡地前」でしょう。


石室の蓋石
もう1枚は、「平田明宅庭横の道路沿いにイボの神として」いる石碑で、上記の写真の中央にあるものと思われます。残る1枚の「田中昇宅隣接のT字路角に安産の神として祀ってある」石は、老夫婦が確かにあると言っていたが、自分一人では見つけ出せませんでした。



この地をグーグルマップの写真で見ると、このあたりで旧肝属川は大きく蛇行していて、旧河川は大きく湾曲した2つの輪のようになっていたようです。ここはその輪が接近した場所のほぼ中間点にあたります。旧河川の形から、津曲という地名の由来がわかります。近くの肝属川を挟んで対岸のほぼ等距離の所に、唐仁古墳群があります。

ウガヤフキアエズノミコトのお墓は「吾平山陵」という素晴らしい名所になっていますが、残念ながら生誕伝承地は無残な姿になっていました。手を入れて、せめて、昔の神社や古墳があった当時の写真を付けた説明板でも置いて、往時をしのばれる場所にしていただきたいと思いました。
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薩摩藩の暗黒史 ⑨強制移住政策「人配(にんべ・にんばい)」

最近、知人から大隅史談会会報「大隅」に掲載された森田慶信著「さつま峠物語 人配峠」(1990年~1999年)という、第9部まである物語風郷土史論文のコピーを借りて、読みました。それを参考にして、薩摩藩の政策である「人配」について書きます。

江戸時代初期(明暦・万治)から幕末期までの約三百年間、薩摩藩では、薩摩半島(西目)から大隅半島(東目)に人を半ば強制的に移動させて、農耕をさせる政策をとりました。

この政策を「人配」と呼び、読み方は「にんべ」または「にんばい」です移った人々を「永代移者」と呼び、名寄帳に加え、門(かど)の籍に入れました。
門とは、農民を数軒から多くても20軒程度のグループに分けて支配する制度で、そのグループには地名などからとられた門名(かどな)という名前が付けられました。

この強制移住の圧政には、苦悩したり不満をもった人が少なからずいたでしょうから、暗黒史に加えました。なお、藩政以後は、自由を求めて大隅半島に移住した人が多かったそうです。

江戸時代後期には、東目の人口減少と農村荒廃が激しかったので、耕地面積に対して過剰人口の西目からの人配が繰り替えされました。西目の口減らしもあったようです。

薩摩半島の農耕は、狭い田畑が多く密集し、大地の谷間にある水田、川端にある腰まで入り込む水田が多かったそうで、田畑の収穫は平均以下でした。
当時の常食は、米十、唐芋(薩摩芋)二十、粟三十、蕎麦・麦十という割合でした。しかし現実は、米飯は盆と正月だけであったといいます。

人配の対象は、門百姓はじめ郷士・町人にまでおよんでいます。

姶良郷(今の吾平町)への移住者の場合は、薩摩半島から鹿児島湾を藩船でわたり、高須・浜田を経て瀬筒峠を越えました。この峠は、永代移者が故郷の薩摩半島を望む最後の場所であったので、「人配峠」と呼びます。
その後、大姶良、南を経て姶良に着きました。この道筋を「人配街道」と呼びます。


下名の水田地帯
人配の人たちは、それぞれに定められた門に入り、用水路開拓、新田開発、畑地開発に努め、今日の「美里(うましさと)吾平」の美田をつくりました。上の写真は、今の下名地区の水田地帯です。


下名人配・永代移者顕彰碑
吾平町下名には、姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑が平成九年に建立されています。

大隅の歴史や風土について啓発される内容が多いブログ「鴨着く島」には、「この碑文を書いた元大隅史談会会長の故森田先生によると、延宝年間から350年にわたって陸続と移住行われたが、現在の吾平町の四軒に一軒は「人配」による移住者の後裔であろうとのことで、いかに彼らが刻苦勉励してこの地に取り組んできたかを記念する石碑ということであった。」と書かれています。

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薩摩藩の暗黒史 ⑧偽造密勅と御用盗

小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、真の王政復古を実現するには、武力で完膚なきまでに倒幕する必要があるとして、岩倉具視らの公家と謀って、1867年に偽造した「倒幕の密勅」を薩摩・長州両藩に下しました。密勅の効果は絶大で、薩摩藩は一挙に出兵と決まりました。

今吉弘著「鹿児島県の不思議事典」(新人物往来社)によると、昭和になってから公開されたこの密勅には、御璽(天皇の印)も署名者の花押も摂政などの署名もなく、通常の勅書とは異なっています。


倒幕の密勅888KB

倒幕の密勅


1868年1月3日の小御所会議(京都の小御所での国政会議)では、大久保らが強硬な態度に出て、前年の11月に大政奉還した慶喜に辞官・納地を命じることまでさせました。

さらに、薩摩藩邸に「御用盗」という盗賊団をかくまって、江戸市中で暴行略奪、辻斬り、放火と暴れまわって、幕府側を挑発しました。これに憤慨した市中警備の庄内藩士が、薩摩藩邸を焼き討ちしたため、西郷らが意図した戦端につながり、1868年1月27日からの鳥羽伏見の戦いへの導火線となりました。

その結果、1869年10月に戊辰戦争が終結するまで、旧幕府軍と新政府軍の双方に、多くの戦死者などの犠牲がでました。

西郷が関与した江戸城の「無血開城」は、当時、人口100万人の大都会であった江戸を戦場としなかった大きな成果であります。しかし、武力倒幕を狙った薩摩藩の策謀が、広範囲にわたる内戦の流血をもたらしたことや、今でもそれが薩長への遺恨として残っていることを、歴史の教訓として、忘れてはならないと思います。

今回まで8回書いた「薩摩藩の暗黒史」をながめてみると、薩摩藩の「強権」・「無法」政策による、偏狭・頑迷な「我を通すための謀略」、「激しい身分差別」および「宗教・文化の過度の軽視」が目立ちます。その根になる背景には、南九州の「弱い生産力」があります。
鹿児島県内では、個人レベルでも行政レベルでも、これらのことを今でも大なり小なりに引き継いでいるように思えます。

この「薩摩藩の暗黒史」を書いたのは、過去の諸悪を暴いて溜飲を下げたり、面白がるためではありません。歴史に学び、自分や地域のあるべき姿とその方策を考え直す契機にしたいためです。
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