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鍼灸師から学んだ健康法

 腰痛になったので、知人から勧められた鍼灸院で治療しています。物静かな鍼灸師の老先生が、私の健康に役立つ話をしてくれて、反省し勉強にもなりました。学んだことを以下に紹介します。

 

1 自己流の健康法の問題

私の自己流の健康法が腰に悪影響を及ぼしていることを指摘してくれました。腰骨の一部が陥没しているとのことです。思い当たることがありました。確かNHKの番組で知り、坐骨神経痛対策として上向きに寝てソフトボールを臀部に当ててボールを転がすことをしてきました。ネットにも同様な療法のブログがありました。その療法を私も長期間、実施してきました。

ソフトボール体操

 最近、腰痛になってから、臀部だけでなく、背骨に近い腰にも自己流でソフトボールを当てました。そのために小生の腰骨の一部が陥没したと気づきました。自己流の健康法を反省しました。なお、鍼灸師の先生が言うには、椅子型のマッサージ機(マッサージチェア)を長く利用する人に骨の陥没や変形が多いそうです。

 

2 腰痛に温泉は厳禁

腰痛は熱を持った炎症なので、冷やす必要があり、湯船に腰を浸けて温めては行けないことも教えてもらいました。腰痛時には、湯船に入っても立ったままで湯を掛け、体を洗いなさいと言われました。腰痛を治すために、温泉に行くのは最悪だそうです。

風呂と温泉

 

3 簡単なウィルス退治法

一番驚いたことは、この鍼灸師の先生は毎日色々な患者に接するのに、コロナにもインフルエンザにも罹ったことがないと言われたことです。その理由として、喉の奥に付着したばい菌を洗い流すために、頻繁に水分を摂っているからだと言われました。万病を治すと言われている「Bスポット療法」に類似した方法でした。


4 口の機能訓練が必要

これは鍼灸師から学んだことではありませんが、上記③に関連する重要なことと思うので、最後に紹介します。

口の衰えは体の衰えより先に始まるそうです。最近、最終的に肺炎で亡くなる友人・知人が多いので、高齢者は口の機能の訓練が必要であることを、このYoutube「誰でも5分でできる】口の機能を整える"3つの方法" - 75歳からの死亡リスクが大きく変わる!」で学びました。

口機能の訓練
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テーマ: 医療・病気・治療 | ジャンル: 心と身体

太古の昔から日本本土の玄関であった南九州

 南九州、特に鹿児島は、太古の昔から、海外からの日本本土の玄関でした。今のように大型船や飛行機がない時代は特にそうでした。その具体例として、最近得た情報ですが、古代に日本を席巻した海外から南九州に漂着した民族や野菜についてお伝えします。

 

1 九州に漂着した三大族

内倉武久氏による説では、州に中国から三つの大族が漂着し、7世紀末まで日本の古代政権をになった勢力がありました。そのうちの二大族(熊襲於族と天族)は鹿児島に漂着しました。内倉武久氏のブログや書籍に書いてあるように、彼らが大和政権の前に、九州政権を確立し、全国に足跡を残しました。三大族は、漢民族に中国南部から追い出されたボートピープルと考えられます。

三大族の連結

 

その裏付けの一つとして、NHKのテレビ番組「私たちは何者か~DNAで迫る現代日本人への道」でも紹介していましたが、2021年の金沢大学の遺跡出土人骨のゲノムデータ解析から、古墳時代(3世紀中頃から7世紀末)から現代人に近い「東アジア」ルーツが急激に増えていることが示されました。

日本人ゲノムの変遷

 

2 鹿児島に伝来した野菜

① サツマイモ

最近、サツマイモが日本本土に最初に着いたのが鹿児島県の大隅半島の高須であったという本を読みました。右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』です。 
サツマイモ本土伝来の真相_連結

 通説では、サツマイモは今の鹿児島県指宿市山川の漁師・前田利右衛門が、宝永2年(1705年)に琉球から薩摩に持ち帰り普及したと言われています。

しかし著者によると、江戸時代に漁師が前田という姓を持つことはなく、また当時の漁師が山川から 約760キロ余り離れた遠方の琉球に出かけて漁をすることはありえず、さらに実像を示す決定的な資料もないなど、漁師の前田利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰ったことはありえないと主張しています。

著者は、右田家の家系図、時代背景、サツマイモのルーツを再検証して、実際は親・子・孫の3代に渡って官途俗名を世襲した、今の鹿児島県鹿屋市高須町の薩摩藩士・右田利右衛門が、琉球からサツマイモを持ち帰り、大隅、薩摩地方に普及させたとして、上記の通説を覆しました。

 

② 落花生

田中良八は文政6(1823)年、垂水の新城の大浜で浦人・田中善兵衛の長男として生まれました。明治12(1879)年立春のころ、漁業の先進地の鹿児島の山川に視察に行き、滞在した旅籠でお茶請けとして「琉球豆」という珍しい豆が出されました。旅籠の主人の話によると、それは中国から琉球へ伝わった「落花生」で、南京豆、地豆などと呼ばれ、琉球から戻ってきた人の土産にもらった豆だということでした。

良八はその豆に興味をもち、10粒をもらって帰りました。4月初め頃、持ち帰った種を試しに植えてみたところ、秋にみごとな収穫となりました。


当時、農漁民の社会的経済的な地位の向上を目指していた良八は、換金作物を主体とする農業経営が必要だと考えていました。
さらに、村ぐるみで増産計画を進めることが良策と考えた良八は、落花生栽培5ヶ年計画・栽培要項・指導要領を作成して戸長の中村思無邪氏を訪問し、説得に努めて実現しました。また明治16(1883)年には、花岡村の戸長を訪ねて落花生栽培を始めることを勧めた結果、花岡は落花生の一大生産地となりました。

(参考文献:上園正人「落花生翁田中良八について」―『七岳』第20号)

落花生翁_連結

 

③ ムクナ豆

前回のブログでも取り上げた豆です。

ムクナ豆はツル性の豆で、インドや東南アジアが原産と言われています。日本では八升豆と呼ばれ、江戸時代に鹿児島で食用に栽培されていたと聴きました。しかし硬い豆であるためか、その後に栽培されなくなりました。海外からの入手経路に関する資料は見つかりません。私は江戸時代に鹿児島では琉球から入手したと推測しています。

ムクナ豆_3連結

テーマ: 鹿児島 | ジャンル: 地域情報

最近の薬草体験(日本山人参茶、ムクナ豆、柿のヘタ茶)

今月、一緒に暮らしている母が96歳になりました。若い頃の母は貧血気味で体力がない体質でした。還暦を過ぎてから薬草を学び、色々な薬草を採取したり栽培して、アルコールに漬けたり、お茶にして摂取してきました。その効果なのか、痴呆にも寝たきりにもならずに日常生活を続けています。
以下に、最近の母と私の薬草体験を紹介します。

1 日本山人参茶
私の記憶では、以前は母はセキショウ酒を毎日おちょこ一杯飲んでいましたが、80歳を過ぎてからは日本山人参を菜園で栽培して、茎と葉を乾燥して、お茶にして毎晩飲んでいます。
日本山人参茶_連結

母が言うには、日本山人参茶の作り方のコツが2つあります。1つは2月に葉と茎を採るために、10月頃に葉と茎を根元から切って若い茎葉を成長させることです。もう1つは2月に採った茎葉を2,3cm長さに切ってから、鍋などで加熱してしんなりさせてから、天日乾燥することです。加熱より葉に付いた虫の卵が死ぬため、保管中に茶が虫に食われずに長持ちします。
以下に、私が作った日本山人参茶の作り方と効能の資料を示します。
   日本山人参4

2 ムクナ豆

ムクナ豆については、以前に当ブログで紹介しました。今年で栽培を始めてから5年目になります。疲労と痴呆の防止のために、身内の3人の女性に提供してきました。
ムクナ豆_連結

薬草研究家の中村 臣市郎氏によるムクナ豆の解説(2023年9月10日のfacebookによる情報)は、以下の通りです。
ムクナ豆には、欧米の研究で明白にされたことは数百の薬理物質が含まれる。サポニン、アルカロイド・ポリフェノール、タンニン、精油、フラボノイドなどがそれだ。したがって、それらが人体に働くと100の効能を表すという、糖尿病、低体温、肝機能低下、免疫力増大、高血圧、認知症、アルツハイマー、記憶力増大、運動反射神経の増強、視力改善などがそれだ。特に冷え性に特効がある。
アルツハイマー・認知症、記憶力低下、低体温、運動機能の低下。走行不安定。書き忘れたことがあるがムクナ豆には人体の骨格とるタンパク質分子、全ての必須アミノ酸が含まれる。大豆にはリジンがないがムクナ豆には多量に含まれる。
それもガンにならない植物性タンパク質である。何しろ100の効能がドイツの研究で解明されている。これから先どんな劇的な物質が発見ざれるか楽しみである。
走行不安定・記憶力低・認知症・アルツハイマー。今年植えたムクナ豆の種子がついに実った。少し早いがこのマメの中に運動機能を劇的に改善させる神経伝達物質Lドパーミンが高濃度で含まれており、体験が連鎖的に続発している。
アルツハイマー・認知症・記憶力低下・低低温、免疫力低下に効能がある。豆であれば一日6個から8個・粉末であれば小さじ2杯が適量である。


私はムクナ豆の栽培ばかりしていましたが、今年の10月から炊飯器でご飯を炊く時に、煮たムクナ豆を入れて(1人分で5ヶ)食べ始めました。ムクナ豆は固いので、1時間くらい煮てから、冷凍保存して使っています。煮汁には有効成分が含まれているので、ペットボトルに入れて、疲れた時に飲んでいます。
96歳の母はムクナ豆入りご飯を食べ始めて5日後に、寝起きのときに背中に痛みが走るのが消えました。私は疲労感が少なくなったように思います。

3 柿のヘタ茶
薬草研究家の中村臣市郎氏のfacebook(2023年10月9日)に、「民間療法では柿のヘタはゼンソク、気管支炎、咳止めの効能がありその働きは劇的であった。40年間の重度の喘息の方が柿の乾燥したヘタを4個ほどコップ5杯の水で60分煎じて食間に3回飲んだ。たった2日で40年間のゼンソクが治った。それ以後咳は出ていない。恐るべき薬物だ。」と書いてありました。
柿のヘタ茶_連結

私は、胃が丈夫過ぎて逆流性食道炎になりやすく、そのために咳が出やすいため、弱い胃薬を毎日飲んでいます。
上記の中村臣市郎氏の情報を知り、試しに柿のヘタ茶を飲み始めました。飲み始めてからまだ1週間ですが、咳の出る回数が減ってきましたが、劇的な効果はないです。引続き、飲んでみます。人によって効果の違いはよくあることです。

私は他の民間療法で、劇的な効果を体験したことがある(例えば尿療法)ので、今後も信頼できる情報を探して、実際にトライして、健康維持に努めたいと思っています。

大隅の偉人:小野勇市

鹿児島県では薩摩半島の偉人に関する本は無数にありますが、我が郷土の大隅半島では偉人の本は極めて少ないです。例えば、薩摩では西郷隆盛、大久保利光、黒田清輝、小原國芳、海音寺潮五郎など。

これには歴史的背景があって、大隅を長く治めていた肝付氏が薩摩の島津氏に制服されて、大隅の歴史的資料が消え、各種の圧迫があったためと思われます。
しかし、石碑などから大隅にも多くの偉人がいたことは確かです。残念ながら詳しい情報が残っていないので、伝記は書けません。

比較的近い過去の偉人であれば、遺族や近親者の思い出話が聴けるので、伝記が残せることがあります。
今回、黒木次男氏が、明治から昭和初期に活躍した小野勇市氏の功績をまとめた『不屈の挑戦』が出版されました。郷土の偉人を探し求めている小生には、うれしい出版です。
小野勇市氏は18歳の若さで、水のない広大な笠野原台地に水道を引く決意をして、難工事の末に竹管水道を敷設し、更に日本一の耕地整理までしました人です。
本と小野勇市_3連結

笠野原台地は、厚いシラス層からなる約6300haの広大な台地です。藩政時代から生活用水を得るために、台地のあちこちに生活用水用に深井戸が掘られました。文政年間から天保年間(1818年~1843年)の頃です。井戸の深さは30~83mですから、一人で水を汲みあげることはできません。その後のかんがい事業は進みませんでした。
飲水は遠方から馬で運んだり、深井戸から牛馬で縄を引かせて汲み上げていました。風呂は、井戸のある裕福な家の手伝いをしながら、「もらい風呂」をする人が多かったそうです。
牛に引かせた昔の写真_文字入り2 (1)

小野勇市氏は明治16年(1883年)に、高隈村大黒(今の鹿屋市下高隈町大黒)に生まれました。18歳の時から水を集落まで引くという事業をまわりの人に語り、技術的な対策の勉強を続けました。

枦場に移り住み、水の苦労を感じていた同じ考えの岩元甚吉氏と出会い、明治34年(1901年)に大堀方限(町内会)の総会に、竹を用いた水道の案を諮り、48戸の同意を得ました。苦労して人を集めて、明治34年に孟宗竹3,000本をつないで、難工事の末に山下から枦場まで8km水を引きました。竹の節抜きは、松の木に竹を立て、上から鉄棒を落として節を空けたという。竹のつなぎが外れないように、見回りもしたそうです。
まわりから絶対不可能と言われた難事業をやり遂げました。竹管水道は笠野原水道ができる昭和2年(1927年)まで使われました。
不屈の挑戦4_800KB

その後、串良村の中原菊次郎氏や鹿屋町の森宗吉氏などの協力を得て、鹿屋町、串良村、高隈村の3町村で笠之原水道組合と笠之原耕地整理組合を結成し、昭和2年(1927年)に全域に通水しました。
水道敷設事業が終わってから、昭和2年から耕地整理事業が本格的に始まり、昭和9年(1934年)に完成しました。
不屈の挑戦6_文字入

その後、高隈ダムができて、日本初の国営の畑かん事業が順調に進んだのは、耕地整理が既にでき上がっていたからでした。

小野勇市氏は28歳で村会議員に推され連続8回議員を勤め、任期中の昭和14年(1939年)4月28日に57歳で他界しました。

小野勇市氏は子供の頃から地域に一番必要なことと、その対策のストーリーを考え続け、同じ考えを持ち実行力のある協力者を徐々に増やして、地域住民を説得して、まわりから絶対不可能と言われた難事業をやり遂げました。この話は、地域おこしの要諦を教えてくれます。

黒木次男著『不屈の挑戦』は、鹿屋市役所売店で販売(650円)しています。写真が豊富で読みやすい本です。
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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(7)肝等屯倉(かとうのみやけ)

時代は建国神話より新しく、我が国の建国初期の話です。

1 肝等屯倉跡の石碑 

我が家から近い、鹿児島県肝属郡肝付町宮下(みやげ)に「肝等屯倉(かとうのみやけ)跡の石碑」があります。
「屯倉」は、「みやけ」や「とみくら」と読まれ、「御宅」「三宅」「三家」とも表記されます。一般には、大和政権の直轄地経営の倉庫や土地などを示す語と言われていますが、後述のように大和政権の前の九州政権のころの話と考えるのが合理的と考えます。

昭和41年発行の「高山郷土誌」には、「肝等屯倉の設置」の項に以下のように書かれています。
『安閑天皇の二年五月、桑原屯倉、肝等屯倉、田彌屯倉等二十六屯倉が置かれたが、その中の肝等屯倉が宮下であり、県指定の屯倉趾の碑は宮下入口の肝付川沿の畑地に建っている。此の碑の北側、宮下川に長さ四十米余、岸及び川底を自然石でたたんだ処がある。ここが積荷のための船着場だったと伝えられている。対岸上小原の古墳群や附近よりの土器類の出土、その他より考える時、集落跡としての往古を想像する事も出来る。更に黄金千両、朱千両「朝日蔭射す夕陽の下」に埋めてあるとも伝えている。
此の屯倉の収穫物は、一般的な経営費の外、軍事的、外来客の接待、凶年の放出等に用いれられていた。大和朝廷には四世紀後半からこの様な屯倉を全国に広く設けたのであるが、大化の改新においてすべて廃止されたのであった。』

「肝等屯倉跡の石碑」は、元々は畑地にありましたが、道路拡張で肝属川の土堤の下に移設されました。生憎、今は竹林の中になってしまい、しかも土堤に草が茂るため、夏場には石碑に近寄りがたく、近寄っても石碑は竹林の中なので見えません。なお、この場所を知っている人に案内してもらわないと、行くことができません(民家の庭を通ると行きやすい)。
肝等屯倉跡_連結1

土堤の草が刈り取られた時に、石碑の前の竹を切ったら、石碑が見えるようになりました。
肝等屯倉跡_連結2

2 安閑天皇と屯倉

先輩の郷土史家に、この石碑に刻まれた文を教えてもらいました。安閑天皇がここ宮下に屯倉を設けたと書かれています。

肝等屯倉跡_連結3

藤井利章著『天皇と御陵を知る事典』(日本文芸社)によると、「安閑天皇(466~535年)は継体天皇の第二皇子で、全国にたくさんの屯倉を設置した。屯倉は朝廷の直轄私領で、初めは穀物を納める倉を指したが、徐々に変化し機構化され、のちの荘園に近いものであったと思われる。安閑朝廷の財政の安定化を図るために、多くの屯倉が設置されたと考えられる。」
関東から九州まで、41ヶ所の屯倉の大量設置が記録にあり、その屯倉の一つが鹿児島県肝属郡肝付町にもあったのです。

3 安閑天皇は熊襲族の子孫

古代史研究家の内倉武久氏の論考「熊曽於族・継体は朝倉市に都していた」
『大隅』(第64号)2021年発行)によると、「継体天皇は南九州から出て全国を支配するまでに力をのばしていた熊曾於(熊襲)族の一員であった。」さらに大和政権の前に「継体天皇は九州年号を創始した天皇である。」と書いてあります。

継体天皇の第二皇子である安閑天皇も熊襲族の一員で、当時の都が北部九州にあったので、祖先の地である南九州に屯倉を設置するのは当然でありましょう。

なお、安閑天皇は犬養部の設置したことでも知られています。ウィキペディアによると、「『日本書紀』によれば、犬養部は安閑天皇二年(538)八月、同年五月の屯倉の大量設置をうけて国々に設置された。この記事の近接性と、現存する「ミヤケ」という地名と「イヌカイ」という地名の近接例の多さから、犬養部と屯倉との間になんらかの密接な関係があったことが想定され、現在では、犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっている。」
内倉武久氏によると、”熊曾於族が中国大陸の少数民族と共通して持つ「犬祖伝説」があり、「民族の祖先は犬と結婚した女性である」という話である。”したがって、犬養部の設置は熊曾族の一員らしい安閑天皇の施策と考えられます。

今回は、九州政権を作った熊襲族の子孫の天皇が、南九州にその足跡を残した話でした。

以下は、今回参考にした古代史研究家の内倉武久氏の著書です。同氏のブログもあります。
熊襲関連の著書2冊

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